地味で堅物なメイドですが、キラキラ侯爵令嬢に変身した私に坊ちゃんが恋をしました【完結】

ヴァレリオ様と入れ替わるようにして、恰幅のいい初老の男性が入室してこられた。お医者様だ。
手には使い込まれた革鞄を提げていて、口元には白いお鬚と共に穏やかな微笑みを湛えている。

そんなお医者様の後ろには、メイド長様のお姿があった。
ご当主様への報告のため、お医者様の助手を担うために、ご同席くださるのだそうだ。

ペンネロはいつの間にか姿を消していた。
ただ、何となくだけど近くで見守ってくれているような気がする。

「待たせてすまないね。さあ、始めようか」
「フィオーラ、気をしっかり持つのですよ」

メイド長様はそう言って、私の手をぎゅっと握ってくださった。
お医者様の許可を得て、メイド長様の方に顔を向けた状態で診察を受けていく。

「息を吸って……吐いて……」
「……っ」

お医者様が私の呼吸に合わせて、左肩の付け根をゆっくりと持ち上げていく。

「……っ!! あ、あぁ……っ!」

背中を突き抜けるような激痛が走った。
メイド長様の呼びかけで、何とか意識を保つ。

「肩は反応あり。……よし、次は指だ。痛かったら、すぐに声を上げてくれ」
「……はぁ……はぁ……はい」

奥歯をギリッと噛み締めて身構える。
……けど、いつまで経っても痛みはやってこない。

「お医者様! そっ、そのようにされては、折れてしまいます!」
「?」

振り返ると、お医者様が前腕を震わせる勢いで私の親指を握り締めていた。
強い力を加えられたことで、私の指は蝋のように真っ白になっている。

なのに――まったく痛くない。

「お嬢さん、痛みは?」
「……何も……感じません」
「何ですって!?」
「ふむ……。そうか」

お医者様はベッドの下から枕を拾い上げると、その上にそっと私の手を置いてくださった。
やわらかくて、ひんやりと冷たいはずなのに……私の手では、何も感じ取れなくて。

「どういうことですの? フィオーラの身に一体何が……?」
「左腕の神経を斬られてしまったようだ。養生を重ねれば、幾分か動かせるようにはなるだろうが……もう元には戻らんじゃろうな」

――もう元には戻らない?

思わず笑ってしまった。
不思議と涙は出てこない。

たぶん、まだ頭が追い付いていない。
混乱しているんだろう。

「とっ、とは言っても、ある程度は動かせるようになるのでしょう?」
「『持つ』、『持ち上げる』、『結ぶ』、『押さえる』……。こういった動作は、総じて難しくなると思ってくれ」
「そんな!? そっ、それでは……」
「うむ。酷な話だが、メイドはもうやれんじゃろうな」

それは私にとっては死刑宣告に等しいものだった。
――メイドではないフィオーラには、何の価値もない。
これから一体どうしたら……。

「あんまりですわ! この子は幼い頃から、誰よりも熱心に研鑽を積んできたというのに……っ。これからなのですよ! これからなのに……っ」
「メイド長様……」

気高く美しい紫の瞳からボロボロと涙が溢れ出す。
そうだ。そうだわ。悲嘆している場合じゃない。

私は自分の勝手な都合で、メイド長様の期待を裏切ってしまったんだもの。
まずはきちんとお詫びしなくては。

「メイド長様。熱心にご指導いただいたのにもかかわらず、このような結果となってしまい申し訳ございません」
「何を言うの! 貴方が謝ることでは……っ!」

メイド長様は何かを言いかけて、目を見張った。
少々思案顔を浮かべられた後で、うんうんと頷かれる。

「そうね。そうだわ。貴方には、決死の思いで身に付けた教養があります。旦那様に事情を説明して、修道院に請願いただけないか掛け合ってみましょう」
「わっ、私のような者に!? 滅相もございません!」

私はこの体だ。おそらくは、『写字女』として受け入れてもらえるよう、請願なさるおつもりなのだろう。

聖書や古典を美しく書き写す写字女になるには、高い教養は勿論のこと、多額の持参金を必要とする。

当然、私のような一介の使用人に払える額ではなく、そのお金はサヴィオラ家にご負担いただくことになってしまう。
その額は一般の中級メイドに支払われる手切れ金の、およそ十倍~二十倍だ。

ご当主様にご相談申し上げるだけでも恐れ多いことだというのに、それをメイド長様に代行いただくなど、以ての外だ。
下手をすれば、メイド長様の信頼さえも揺るがしかねない。

「甘えておきなさい。そんな体では、まともな職にありつけない」
「ですが……」
「なーに。これはサヴィオラにとっても、必要なことなのじゃよ。『ルンガルディ家の陰謀』の被害者である君を路頭に迷わせたとあっては、家名に傷がついてしまうからの」

家名に傷がつく。
それは実利に直結する死活問題だ。

特に今は、ルンガルディから奪われた権力を取り戻すために、その正当性を誇示しなければならない大切な時期。
一分の隙も見せるわけにはいかない。

「……承知致しました」

私の不甲斐なさが招いた失態は、サヴィオラに大きな損害をもたらしてしまった。
以前であれば、日々の職務に邁進することでお返ししようと、頭を切り替えることも出来ただろう。
だけど、壊れてしまった今の私には、その選択肢すら残されていない。

やっぱり、フィオーラには何の価値もない。
今の私はただのお荷物だ。

.。o○○o。..。o○○o。.

「えっ!? もっ、もうお許しが!?」
「ああ。二か月後には入会出来るだろうとのことだ」

同日の夕方、見舞いに来てくださったモーリス様から、ご当主様が修道院への請願を受理されたとの報告を受けた。

タイミングからして、ほぼ即決くださったと見て間違いないだろう。
あまりの衝撃に開いた口が塞がらない。

「信じられません。何でまた……」
「教皇庁はルンガルディを見限り、サヴィオラとの和解を画策している。あとは……君なら、皆まで言わなくとも分かるな」

私はぐんっと顎を持ち上げた。
興奮を抑えきれない。起き上がれないことが、もどかしくて仕方がない。

「光栄ですわ! こんな私でもまだ、サヴィオラのお役に立てるなんて……!」

執事様のモノクルの先にある静かな瞳が大きく見開かれる。
私ははっとして「申し訳ございません」と謝罪する。
今のはあまりにもはしたなかった。

「……惜しいな。本当に惜しい」
「はい?」
「私も君に、ベアトリーチェの後を継いでもらいたかった」
「そんな……勿体なきお言葉にございます」

執事様は小さな溜息と共に、沈痛なお面持ちで固く目を閉じた。
やり場のない怒りや、悔しさを必死に抑え込んでくださっている。
私にはそんなふうに見えた。

モーリス様もまたお優しい方だなと、改めて思う。

「長きにわたり、ご鞭撻をいただきありがとうございました」

執事様は私に礼をしてくださった。
これは、メイドである私への最大限の『敬意』であり『葬送』でもある。

メイドである私は、今この瞬間に天に召されたのだ。

私はうつ伏せのまま目礼で応える。
執事様への最大限の感謝と敬意をもって。