翌日の朝。
私はヴァレリオ様の専属執事のモーリス様、メイド長様に続いて、ティーセットが乗ったワゴンを押して廊下を歩いていた。
「……っ」
左肩の痛みは未だに引かず、じくじくと増すばかりだ。
おまけに何だか熱っぽい。
長引かないといいけど。
「……モーリス様。この物々しい雰囲気、もう少し何とかなりませんの? これではメイド達が怯えて、仕事になりませんわ」
「無茶を言うな。あんなことがあった翌日だぞ」
暗殺未遂事件の翌日ということもあって、お屋敷内は物々しい雰囲気に包まれていた。
銀の鎧を装備した親衛隊の方々が各所に配置され、廊下を行き交う人々を鋭く監視している。
執事様の『仕方がない』との言い分も当然と思いつつも、メイド長様の『メイド達が怯えて仕事にならない』という言い分も理解出来た。
ルクレツィアを通して得た経験がなければ、きっと私も――。
「げっ……」
「? どうしました? フィオーラ?」
「いえ。失礼致しました。何でもございません」
目的地であるヴァレリオ様の寝室へと続く扉の横には、あのセクハラ金髪剣士のエンツォの姿があった。
緊迫した状況下であるのにもかかわらず、壁にもたれ掛かって大きなあくびをしている。
「おっ! 君、可愛いね~。彼氏いる??」
「っ!!?」
目が合うなり口説いてきた。
女と見ればこの男は……。
私は「お戯れを」と一言添えて礼をして、こめかみに浮かんだ青筋をさらりと隠した。
「あちゃ~、秒でフラれちゃったよ」
「まったく……。しっかり頼むぞ、エンツォ。平時ならともかく、坊ちゃんは今、足を負傷なされているのだからな」
「ははっ、それ俺に言う?」
エンツォは口角を上げて、挑発するように笑ってみせた。
そう。この人、実力は確かなのよね。
だから今ここにいて、ヴァレリオ様の護衛の要を任せられている。
「バイバ~イ♡」と投げキッスをしてくるエンツォに苦笑しつつ、執事様達と共に入室していく。
重たいカーテンに覆われた室内はとても薄暗かった。
ヴァレリオ様はまだお眠りになっているようだ。
四柱式のベッドの中心で、「ん~」と低く唸りながら寝返りを打っている。
「おはようございます、坊ちゃん」
モーリス様はヴァレリオ様の枕元へ。
私は入り口付近にワゴンを止めて、カーテンを開けていく。
「っ!!」
ドア越しに男性と目が合った。
あれは……剣士様だ。中年と青年の男性のペアで警護にあたっている。
驚かせてしまった。
そう思われたようで、二人の剣士様は申し訳なさそうに会釈をしてくださる。
いえ、こちらこそ……と、私も複数回会釈しつつ、片側のタッセルを結んだ。
「くぁ~……ほはよう……」
どうやら、ヴァレリオ様がお目覚めになられたようだ。
あくび混じりなご挨拶に、メイド長様と共に礼で応える。
その中で私は――顔が熱くなるのを感じていた。
昨日は本当に……本当に色々なことがあり過ぎた。
『目を上ぐるは不敬、伏せるは忠義』
この礼法にこれほどまでに救われる日が来ようとは、夢にも思わなかったな。
「ねえ、モーリス。僕は本当に後始末に参加しなくていいのかな?」
「ええ。ゆっくり休むようにとのことでした」
「まったく、兄さん達は……。肝心な時にはいつもそうだ」
「坊ちゃん」
「はいはい。分かってるよ」
ヴァレリオ様も、兄上様達も互いに思い合っている。
けれど、どうにも噛み合わない。
そんなもどかしい思いが伝わってくるようで、私はぎゅっと胸が苦しくなった。
「それにしても、昨日は大変な一日でございましたね」
「いや、僕は全然。彼女が守ってくれたから」
「彼女?」
「リッカルドの娘だよ。すこぶる腕の立つ――」
「何を仰っているのですか。リッカルドに剣士の娘などおりませんよ」
室内がしんっと静まり返る。
ヴァレリオ様は瞠目して、額に手を当てた。
「そう……だったね。ヤダな。僕、何言ってんだろ?」
「無理もございません。あのような凄惨な場にいらしたのですから。お医者様には、予定よりも早めにいらしていただくよう、ご依頼をしておきます」
「別に頭は……。予定通りでいいよ。診ていただくのも、足だけでいい」
「……かしこまりました」
ヴァレリオ様はまだ、ルクレツィアのことをぼんやりと記憶しているみたいだ。
おそらく、クロエについても同様だろう。
ヴァレリオ様は二人と最も深く関わってしまっている。
保持している記憶の量も多く、その濃度も高いために、消去にはどうしても時間がかかってしまうのだ。
どうやって時間を稼ぐんだろうと思っていたけど……なるほど。
ああやって封殺するわけね。
あらぬ疑いをかけられてしまって、ヴァレリオ様には申し訳ないけど……どうかお許しください。
私は内心で詫びつつ、タッセルがかかっているフックに左手を伸ばそうとした。だけど――。
「えっ……」
左手が上がらない。
嘘……何で……?
背中に嫌な汗が伝う。
「フィオーラ? どうしたのです――っ! きゃーー!! 血ぃ!!」
「えっ……?」
メイド長様の視線の先を辿ると――磨き抜かれた寄木細工の床に、赤い水滴がぽつぽつと落ちているのが見えた。
「あっ……ああ……っ」
傷口が開いてしまったんだ。
理解した瞬間、私の視界がぐらりと傾いた。
メイド長様が支えてくださって、何とか転倒は免れる。
「っ! なりません! 坊ちゃん!!」
「~~~っ、痛っ!!」
けたたましい足音が近づいてくる。
重たくなった瞼を無理矢理に押し上げると、アイボリーのシャツが見えた。
「坊ちゃん……?」
「ベッドに運ぼう」
ぐいっと体が持ち上がった。
ゆらゆらと左右に揺れながら、ゆっくりとベッドに向かって進んでいく。
「いけま、せん……ヴァレリオ様、まだ……足が……」
「へーき、へーき」
ヴァレリオ様は笑顔であるものの、その頬はぴくぴくと引き攣っていた。
無理をされているのは明白だ。一刻も早く止めないといけないのに。
「……っ」
襟首から覗く赤い二本の傷を見たら、私はもう何も言えなくなってしまった。
あれは私が刻んでしまったもの。ビアンカちゃんへの裏切りだ。
だから、黙り込むんじゃなくて、もっと必死になってヴァレリオ様を止めなくちゃいけないのに……ああ、もう……本当に最低だ。
「さぁ、楽にして」
ヴァレリオ様は私を仰向けに寝かすと、そのまま横にして、ゆっくりとうつ伏せにした。
枕やクッションは、ぽんぽんっとベッドの下に落としていった。
処置をする上で邪魔になるからだろう。
「それじゃ、始めていくね」
ヴァレリオ様は枕元に置いていた護身用のナイフを手に取るなり、私の黒いブラウスと白いシャツを破き始めた。
執事様が代わる気配はない。
今回もまたヴァレリオ様が……。
まずいわ。私の肩には、止血帯が巻かれたままになっている。
体が縮んで少し緩んでしまったから、補強するために上から包帯を巻いているけど……たぶん、完全には覆えていないはず。
ヴァレリオ様が止血帯に気付いてしまったら、きっと……。
「きゃーー!!!! ヴァッ、ヴァヴァヴァヴァヴァレリオ様!!! 何ということを!!!」
「落ち着け、ベアトリーチェ。あれは救術。坊ちゃんは止血をなさろうとされているのだ」
「ああ、……ああ! そうなのですね! 失礼致しました……」
「君は清潔なリネンの端切れ、温かい湯、それと傷の洗浄用に強い酒を持って来てくれ」
「かしこまりました」
メイド長様が足早に部屋を後にする。
あとには、ヴァレリオ様、執事様、そして私だけが残された。
「さて、聞かせてもらおうかフィオーラ。一体何があったのだ」
執事様が静かに。けれど、厳しく問いかけてくる。
当然だ。この怠惰は、ご一族の身を危険に晒す類のものであるのだから。
「おい。こんな状況でする話じゃないだろ」
「こんな状況だからです。どうなのだ、フィオーラ」
「……………………昨日お休みをいただいて……体調が回復し始めた午後に、気分転換に寮の周辺を歩いていたところを、背後から何者かに斬り付けられました」
「顔は見たか?」
「……いえ。突然のことだったので」
「もう十分だろ。君は兄さんにこのことを報告をしてきてくれ。それと至急お医者様の手配を」
「……承知致しました」
下手を打った。本当に下手を打った。
大聖堂での襲撃の陰で、屋敷に潜入されていたとあっては一大事だ。
親衛隊の方々への負担は更に増し、屋敷は一層物々しい雰囲気に包まれることになるだろう。
罪の重さに途方に暮れていると、扉がパタンと閉まった。
それを見届けたらしいヴァレリオ様が、小さく息をつく。
私はヴァレリオ様の専属執事のモーリス様、メイド長様に続いて、ティーセットが乗ったワゴンを押して廊下を歩いていた。
「……っ」
左肩の痛みは未だに引かず、じくじくと増すばかりだ。
おまけに何だか熱っぽい。
長引かないといいけど。
「……モーリス様。この物々しい雰囲気、もう少し何とかなりませんの? これではメイド達が怯えて、仕事になりませんわ」
「無茶を言うな。あんなことがあった翌日だぞ」
暗殺未遂事件の翌日ということもあって、お屋敷内は物々しい雰囲気に包まれていた。
銀の鎧を装備した親衛隊の方々が各所に配置され、廊下を行き交う人々を鋭く監視している。
執事様の『仕方がない』との言い分も当然と思いつつも、メイド長様の『メイド達が怯えて仕事にならない』という言い分も理解出来た。
ルクレツィアを通して得た経験がなければ、きっと私も――。
「げっ……」
「? どうしました? フィオーラ?」
「いえ。失礼致しました。何でもございません」
目的地であるヴァレリオ様の寝室へと続く扉の横には、あのセクハラ金髪剣士のエンツォの姿があった。
緊迫した状況下であるのにもかかわらず、壁にもたれ掛かって大きなあくびをしている。
「おっ! 君、可愛いね~。彼氏いる??」
「っ!!?」
目が合うなり口説いてきた。
女と見ればこの男は……。
私は「お戯れを」と一言添えて礼をして、こめかみに浮かんだ青筋をさらりと隠した。
「あちゃ~、秒でフラれちゃったよ」
「まったく……。しっかり頼むぞ、エンツォ。平時ならともかく、坊ちゃんは今、足を負傷なされているのだからな」
「ははっ、それ俺に言う?」
エンツォは口角を上げて、挑発するように笑ってみせた。
そう。この人、実力は確かなのよね。
だから今ここにいて、ヴァレリオ様の護衛の要を任せられている。
「バイバ~イ♡」と投げキッスをしてくるエンツォに苦笑しつつ、執事様達と共に入室していく。
重たいカーテンに覆われた室内はとても薄暗かった。
ヴァレリオ様はまだお眠りになっているようだ。
四柱式のベッドの中心で、「ん~」と低く唸りながら寝返りを打っている。
「おはようございます、坊ちゃん」
モーリス様はヴァレリオ様の枕元へ。
私は入り口付近にワゴンを止めて、カーテンを開けていく。
「っ!!」
ドア越しに男性と目が合った。
あれは……剣士様だ。中年と青年の男性のペアで警護にあたっている。
驚かせてしまった。
そう思われたようで、二人の剣士様は申し訳なさそうに会釈をしてくださる。
いえ、こちらこそ……と、私も複数回会釈しつつ、片側のタッセルを結んだ。
「くぁ~……ほはよう……」
どうやら、ヴァレリオ様がお目覚めになられたようだ。
あくび混じりなご挨拶に、メイド長様と共に礼で応える。
その中で私は――顔が熱くなるのを感じていた。
昨日は本当に……本当に色々なことがあり過ぎた。
『目を上ぐるは不敬、伏せるは忠義』
この礼法にこれほどまでに救われる日が来ようとは、夢にも思わなかったな。
「ねえ、モーリス。僕は本当に後始末に参加しなくていいのかな?」
「ええ。ゆっくり休むようにとのことでした」
「まったく、兄さん達は……。肝心な時にはいつもそうだ」
「坊ちゃん」
「はいはい。分かってるよ」
ヴァレリオ様も、兄上様達も互いに思い合っている。
けれど、どうにも噛み合わない。
そんなもどかしい思いが伝わってくるようで、私はぎゅっと胸が苦しくなった。
「それにしても、昨日は大変な一日でございましたね」
「いや、僕は全然。彼女が守ってくれたから」
「彼女?」
「リッカルドの娘だよ。すこぶる腕の立つ――」
「何を仰っているのですか。リッカルドに剣士の娘などおりませんよ」
室内がしんっと静まり返る。
ヴァレリオ様は瞠目して、額に手を当てた。
「そう……だったね。ヤダな。僕、何言ってんだろ?」
「無理もございません。あのような凄惨な場にいらしたのですから。お医者様には、予定よりも早めにいらしていただくよう、ご依頼をしておきます」
「別に頭は……。予定通りでいいよ。診ていただくのも、足だけでいい」
「……かしこまりました」
ヴァレリオ様はまだ、ルクレツィアのことをぼんやりと記憶しているみたいだ。
おそらく、クロエについても同様だろう。
ヴァレリオ様は二人と最も深く関わってしまっている。
保持している記憶の量も多く、その濃度も高いために、消去にはどうしても時間がかかってしまうのだ。
どうやって時間を稼ぐんだろうと思っていたけど……なるほど。
ああやって封殺するわけね。
あらぬ疑いをかけられてしまって、ヴァレリオ様には申し訳ないけど……どうかお許しください。
私は内心で詫びつつ、タッセルがかかっているフックに左手を伸ばそうとした。だけど――。
「えっ……」
左手が上がらない。
嘘……何で……?
背中に嫌な汗が伝う。
「フィオーラ? どうしたのです――っ! きゃーー!! 血ぃ!!」
「えっ……?」
メイド長様の視線の先を辿ると――磨き抜かれた寄木細工の床に、赤い水滴がぽつぽつと落ちているのが見えた。
「あっ……ああ……っ」
傷口が開いてしまったんだ。
理解した瞬間、私の視界がぐらりと傾いた。
メイド長様が支えてくださって、何とか転倒は免れる。
「っ! なりません! 坊ちゃん!!」
「~~~っ、痛っ!!」
けたたましい足音が近づいてくる。
重たくなった瞼を無理矢理に押し上げると、アイボリーのシャツが見えた。
「坊ちゃん……?」
「ベッドに運ぼう」
ぐいっと体が持ち上がった。
ゆらゆらと左右に揺れながら、ゆっくりとベッドに向かって進んでいく。
「いけま、せん……ヴァレリオ様、まだ……足が……」
「へーき、へーき」
ヴァレリオ様は笑顔であるものの、その頬はぴくぴくと引き攣っていた。
無理をされているのは明白だ。一刻も早く止めないといけないのに。
「……っ」
襟首から覗く赤い二本の傷を見たら、私はもう何も言えなくなってしまった。
あれは私が刻んでしまったもの。ビアンカちゃんへの裏切りだ。
だから、黙り込むんじゃなくて、もっと必死になってヴァレリオ様を止めなくちゃいけないのに……ああ、もう……本当に最低だ。
「さぁ、楽にして」
ヴァレリオ様は私を仰向けに寝かすと、そのまま横にして、ゆっくりとうつ伏せにした。
枕やクッションは、ぽんぽんっとベッドの下に落としていった。
処置をする上で邪魔になるからだろう。
「それじゃ、始めていくね」
ヴァレリオ様は枕元に置いていた護身用のナイフを手に取るなり、私の黒いブラウスと白いシャツを破き始めた。
執事様が代わる気配はない。
今回もまたヴァレリオ様が……。
まずいわ。私の肩には、止血帯が巻かれたままになっている。
体が縮んで少し緩んでしまったから、補強するために上から包帯を巻いているけど……たぶん、完全には覆えていないはず。
ヴァレリオ様が止血帯に気付いてしまったら、きっと……。
「きゃーー!!!! ヴァッ、ヴァヴァヴァヴァヴァレリオ様!!! 何ということを!!!」
「落ち着け、ベアトリーチェ。あれは救術。坊ちゃんは止血をなさろうとされているのだ」
「ああ、……ああ! そうなのですね! 失礼致しました……」
「君は清潔なリネンの端切れ、温かい湯、それと傷の洗浄用に強い酒を持って来てくれ」
「かしこまりました」
メイド長様が足早に部屋を後にする。
あとには、ヴァレリオ様、執事様、そして私だけが残された。
「さて、聞かせてもらおうかフィオーラ。一体何があったのだ」
執事様が静かに。けれど、厳しく問いかけてくる。
当然だ。この怠惰は、ご一族の身を危険に晒す類のものであるのだから。
「おい。こんな状況でする話じゃないだろ」
「こんな状況だからです。どうなのだ、フィオーラ」
「……………………昨日お休みをいただいて……体調が回復し始めた午後に、気分転換に寮の周辺を歩いていたところを、背後から何者かに斬り付けられました」
「顔は見たか?」
「……いえ。突然のことだったので」
「もう十分だろ。君は兄さんにこのことを報告をしてきてくれ。それと至急お医者様の手配を」
「……承知致しました」
下手を打った。本当に下手を打った。
大聖堂での襲撃の陰で、屋敷に潜入されていたとあっては一大事だ。
親衛隊の方々への負担は更に増し、屋敷は一層物々しい雰囲気に包まれることになるだろう。
罪の重さに途方に暮れていると、扉がパタンと閉まった。
それを見届けたらしいヴァレリオ様が、小さく息をつく。

