「なっ……!」
「お静かに。世子邸下」
声は低く、抑揚がない。まるで命令だ。英蓮は痛みに顔を歪めたが霧津は表情一つ変えず、手を離さない。
「俺は崔氏の妾の子。自由に生きてきたが、王の命でここに潜り込んだ。……お前の正体など、一目で分かった」
冷たい視線が英蓮を射抜いた。
「忌々しい妾の子である顯君が世子を演じるなど、無謀だ。だが、王の命令だ。俺はそれを遂行する。それだけだ」
英蓮は震えながら睨み返した。
「……なら、なぜ私の手を」
「貴方の震えが止まらんからだ。役立たずの体で国の重さを背負うなど、滑稽だ。……だが、俺の役目は、お前を生かすこと。王命だから仕方あるまい」
霧津はようやく手を離し、立ち上がった。背を向けたまま、冷たく言い放つ。
「外では完璧に世子を演じろ。俺は影として、お前の失態をすべて隠す。だが、甘えるな。俺はお前の味方ではない。ただの道具だ」
そう言い残し、霧津は部屋の隅に下がった。荷允が小さく息を吐く。
「……申し訳ありません、邸下。霧津はああいう人間です。でも、邸下信じてください。彼は、誰よりも冷徹に、誰よりも確実に、あなたを守ります」
英蓮は唇を噛んだ。霧津の瞳に宿るのは、忠誠でも愛でもない。ただの、氷のような義務感。
それでも――なぜか、その冷たさが、英蓮の凍りついた心に、わずかな熱を灯した。この男は、誰も信じず、誰も愛さず、ただ任務を遂行する。
それなのに、なぜか英蓮は思った。
(この冷酷な男が、私を……見捨てたりはしないのかもしれない)



