バザーがあった日から一週間経った。
夜、自室で息を潜めていると、玄関の鍵がカチャリと開く音がした。
「ただいまー」
ビクッと身構える。
けれど、その声は兄のドタバタした感じとは違う。低くて、落ち着いた響き。
お父さんだ――。
僕は弾かれたように立ち上がり、リビングの方へ向かった。
廊下に出ると、スーツ姿の父が大きなキャリーケースを置いて、靴を脱いでいるところだった。
出張帰りで少し疲れたような顔をしているけれど、僕の顔を見た瞬間、ふにゃりと目尻を下げた。
「……おかえり、お父さん!」
そういう自分の声が、自然と弾んでいるのがわかる。
久しぶりに見る父の姿。
兄が帰ってきてから、ずっと張り詰めていた家の中の空気。それが、父がいるだけですっと緩んでいく。
まるで、冷え切った部屋に暖房が入ったみたいだ。
「ただいま、圭人。長いこと留守にして悪かったな」
「ううん、大丈夫だよ」
父は大きな手でポンと僕の肩を叩くと、手に持っていた紙袋を掲げた。
「駅でお土産買ってきたんだ。お前の好きなプリンと、こっちはお父さんのおつまみ。一緒に食べるか?」
「うん!」
父はそう言って、ネクタイを緩め、テーブルに向かい合って座る。
よかった……。今、お兄ちゃんは出かけていていない。
邪魔されることなく、お父さんと話せる。
僕は急いで冷蔵庫から麦茶と、父の好きな缶ビールを取り出した。
プシュッ、といい音が静かなリビングに響く。
「兄ちゃん、帰ってきてるんだって? 相変わらずうるさいだろ」
「うん、まあ……。友達連れてきたりするし」
「はは、適当にあしらっとけ。……そういえば、叔母さんから聞いたぞ。この間のバザー、結構賑わったんだって?」
「あ、うん。ストールとか、いくつか売れたよ」
「へえ! それはすごいじゃないか、圭人」
父はいつも、僕の編み物のことを手放しで褒めてくれる。それがとても嬉しくて、僕は照れ隠しにプリンをすくって口に入れた。
父はビールを一口飲むと、少し遠くの方を優しい目で見つめた。仏壇のある方角だ。
「お母さんも喜ぶな。あの人、ほんとに編み物好きだったから」
「うん、覚えてる。よく教えてもらったし」
「お前の作品見たら、きっと近所に自慢して回るぞ。『うちの息子、天才なのよ!』って」
「えー、自慢っていうほどの腕じゃないよ」
「いや、するな。絶対する」
父は楽しそうに笑って、またビールをぐっと飲んだ。
それから、ふと真面目な顔になり、けれど温かい目で僕をまっすぐ見つめた。
「圭人。お母さんが大好きだった編み物だ。胸張って、楽しく続けなさい」
「……男が、って笑われても?」
「笑うやつがセンスないだけだ」
その言葉が、じんわりと心に沁みる。
「……うん。ありがと」
かつて兄に「男なのに」と笑われた苦い記憶が、父の「続けなさい」で上書きされていくようだった。
胸の奥の重たいものが取れて、やっと深く呼吸ができた気がした。
(お父さんとこうやって話すの、久しぶり。……なんか、ちゃんと大丈夫って思えるな)
胸が温かいまま、僕は風呂へ向かった。
*
お風呂から上がり、ほかほかの状態で自室へ戻る。
父の言葉のおかげで、なんだか無性に編みたい気分だった。創作意欲がいつもより湧いていて、指先がうずうずする。
僕はクローゼットから編みかけだった季へのプレゼントにする手袋を引っ張り出した。
ふと、季の顔が浮かんだ。
『俺にもなんか作ってよ。圭人センパイの手編み』
「……はぁ。しょうがないなぁ」
独り言を呟いてみるけれど、自分の顔がニヤけているのがわかる。
別に、季が特別だから編むわけじゃない。「編みたい欲」の解消のためだ。季がどうしてもって言うから。
あの夜、公園で握った手は、驚くくらい熱かった。
(季くんって、体温高いんだよな……。いっつもシャツのボタン開けてるし、暑がりかも)
ポケットの中で握った手の感触を思い出して、ふわふわする。
僕は編み針を構え、続きを編み始めた。
(これを渡したら、どんな顔するかな)
「圭人センパイ、これ俺の?」ってあの顔で笑うんだろうな。
あの目でまっすぐ見られたら……どうしよう。
想像しただけで、指先が軽快に動く。
一目編むたびに、胸の奥がポカポカする。
誰かのことを考えながら編むのって、こんなに楽しいんだ。
まぁ、あくまで友人へのプレゼント。
うん、そう。
友達の。
誰も聞いていないのに心の中で独り言を繰り返して、僕は幸せな気分で針を動かし続けた。


