ケイト先輩とトキくん


 月曜の朝は少し憂鬱。
 いつもの満員電車だけれど、人混みに押されて、息苦しい。
 少し睡眠不足な気もするけれど、これがいつも通りの登校だ。
 駅のホームは通勤通学の人で溢れていて、空気が少しムッとしている。
 電車が到着し、流れに押されるように乗り込んだ。

 ドアに向かい、立ち位置を確保し、息を落ち着かせる。

「ここ、いい?」
「えっ!?」

 ふと、後ろの方から声がして振り向くと、季くんが人波をかき分けて僕のいるドアのそばまでやってきた。
 
(……いや、なんでいるの? 週末は偶然としても、朝の電車まで? もしかして、僕の電車の時間、調べた?)
 
 その時。電車が揺れ、ダン、と僕の頭のすぐ横に彼の手がついた。
 距離が近すぎて、息遣いまで感じる。まるで、満員電車の人混みから僕を囲って守るような体勢だ。
 
(うわ、顔がいいと壁ドンも似合うんだな。……っていうか、何これ? 近いし!)

「圭人センパイ、おはよ」
「あ、……おはようございます」
「敬語いいよ、俺の方が年下!」
「あ、はい……」
「ぷっ」

 朝から会うだなんて思っていなくて、僕、またテンパっている。近すぎて顔が見られないから、制服の第二ボタンあたりを見ながらでしか話せない。
 
(この人、なんで僕なんかに構うの?)
 
「センパイ、部活とかしてるんですか?」
「してない、です」
「俺もしてない。じゃ、また帰りも一緒になるかもですね」
「え、……うん。そうだね」

 会話がうまく続かないんだよね、いつも。
 でも、これだけは言っておかないと。
 僕は意を決して彼にだけ聞こえるような小声で切り出す。

「あ、あのさ。……編み物のこと、内緒にしといてほしい。男子がやってるの、変だし」

 季くんはキョトンとしてから、「は?」と笑う。
 
「え、なんで? すげーことだと思うけど。……でもまあ、俺との二人の秘密ってことで」
「あ、ありがとう。季くんは意外に優しいんだね」
 
(思ったより優しいな。季くんのような陽キャの人って、もっと大雑把で怖いイメージだったけど)

 けれど、「二人だけの秘密」だなんて。
 その言葉が微妙に甘いような響きに聞こえ、なんだか僕の胸の奥がざわついた。
(……うわ。こういうセリフをさらっと言えちゃうところが嫌なんだよ〜。陽キャの怖いところだ)

「あとさ。俺のこと、『(とき)』でいいよ。俺、敬語もちゃんと使ってないし」
「え!? あっ、じゃあまぁ、僕も『圭人』でも大丈夫……」
「いいの? じゃあお言葉に甘えて。よろしく、圭人……センパイ」

 名前を呼ばれただけなのに、胸がどくりとしてしまった。
 彼が、少し意地悪そうな顔でフッと笑って、僕の顔を覗き込む。

「ほら、センパイも呼んでください」
「えっ、い、いきなりは……」
「呼んでくんないと、ダメ」
「っ……よ、よろしく、季……くん」
「ん、まあいっか」

 そう言って僕の頭をポンポンと優しく叩いた。

 これって……完璧なお友達に昇格、してしまったのでは?
 友達の距離感にしては近すぎると思うけれど、実際友達との正しい距離なんて僕はわからない。
 動揺を誤魔化すように、僕は外の景色に視線を向けた。
 ガラスに映る自分が、少しにやけている気がして恥ずかしかった。

 *

 今日も一日が無事終わり、静かな夜、編み物の時間がやってきた。
 いつもなら、一番落ち着く時間なのに、今朝の季との会話やふわっと匂った柔軟剤の香りを不意に思い出してしまった。
 友達レベル確実に上がった気がして、たぶん嬉しかった……けど、まだ不安もある。

(なんだか、今日は少し落ち着かないな?)

 そう思った瞬間、スマホが震えた。季からのメッセージだ。

『今日もありがとう。朝、助かった』

(ありがとう? 助かったって何? 僕、ただ立っていただけなのに?)

 
 翌日も、たまたま同じ車両だった。その次の日も、また。……三日目あたりから、これは偶然じゃないのかも、と思い始めた。
 気づけば、毎朝同じ車両で季を見るのが当たり前になっていた。途中で季が乗ってきて、学校の最寄駅まで一緒に通学することが「日常」のようになっていった。
 朝の会話は他愛のないものだ。「今日寒いね」「課題終わった?」そんな話でも、毎日会話する相手ができたことに戸惑いながらもどこか嬉しい。
 夜も「おやすみ」「また明日」。そんなメッセージも習慣化されて慣れてきた。
 僕も最近はストールを編みながら、季からのメッセージが楽しみになってきている。

 *
 
 週末、僕は編みためたストールを持って、近所の老人ホームへ向かった。
 受付で職員の方に声をかけると、パッと表情が明るくなった。
 
「あ、圭人くん! ちょうどよかった、施設長が会いたがっていたのよ。ちょっとこっちへ来てくれる?」
 
 そのまま、上の階の奥にある施設長室に通された。そこには何度か会ったことのある、優しそうな女性の施設長がいた。彼女は僕を見るなりニコニコと口を開いた。

「圭人くん、いつも素敵な寄付をありがとう。圭人くんの編み物は丁寧だから、みんな喜ぶのよ」
「あ、いえ、僕も練習になるんで……」
 
 照れくさくて頭をかく。そんな僕を見ながら施設長は続けた。

「利用者さんたちも、『次いつ届くのかしら』って楽しみにしていてね。だから今日は、どうしても直接お礼が言いたかったの。わざわざ部屋まで来てもらってごめんなさいね。また無理をしない程度にお願いね」
 

 帰り際、ふと、共有スペースのソファに目が留まった。
 窓際で日向ぼっこをしているお婆さんの膝に、見覚えのある色とりどりのモチーフ編みの膝掛けが掛かっている。
 あれは、去年僕が寄付した膝掛けだ。

「あったかいのよ、これ。綺麗でしょう?」

 お婆さんが、隣に座る人に話しながら、愛おしそうに編み地を撫でているのが見えた。
 じわっ、と胸が熱くなる。

(使ってくれてる……)

 自分の部屋で、一人で編んでいた毛糸。
 それが今、誰かの生活の一部になり、誰かを温めているんだ。
 そのことが、僕の縮こまった背中を少しだけ伸ばしてくれた気がした。
 僕の手は無駄じゃないんだ。「男が編み物なんて」と笑われたこともあったけれど、こうして誰かの役に立っているのなら、こんなに嬉しいことはない。

 *

 家に帰り、夕食を済ませて自室に戻る。
 今日はなんだか心が満たされていて、編み針を持つ指先もいつもより軽い。
 カチャ、カチャとリズムよく手を動かしていると、枕元のスマホが短く震えた。
 画面には『季』の文字。
 開くと、たった一言だけメッセージが入っていた。

『明日な』

 用件もない、ただそれだけの言葉。
 でもその三文字を見た瞬間、心臓がふわりと浮き上がったような感覚になった。

(明日な……か)

 それは、「明日も会える」という約束。
 今まで、明日の学校なんてただのルーティンでしかなかったはずなのに。
 今は、「季に会える場所」に変わっている。

「……うん、明日ね」

 誰にも聞こえない声で呟いて、僕はスマホの画面を少しの間見つめていた。
 明日の朝の電車が、早く来ればいいのに。
 そんなことを思っている自分に気づき、僕はまた少しだけ、編む手を早めた。