いつもの学校、いつもの教室。そして今は休み時間だ。
クラス全体が賑やかな喧騒に包まれる中、僕は席で静かに過ごす。
いつもひとりぼっちだけれど、全然気にならない。入学してからずっとこうだし、もう慣れている。
クラスは違うけれど、廊下ですれ違えば会釈する知り合いが一人くらいはいるから、ゼロじゃないし。
本当ならこの貴重な休み時間は、次は何を編もうとか、図書室であの本を借りようかなとか、大好きな編み物のことで頭がいっぱいになる時間だ。
けれど、今日は違う。
昨日の駅での出来事を勝手に思い出してしまうのだ。
また駅で会ったらどうしよう……。絡まれたらどうしよう。
あの強引なペースに巻き込まれるのは、もう御免だ。僕は平和に、空気のように過ごしていたいだけなのに。
考えれば考えるほど、胃が痛くなってくる。
(あーもう。うるさい、うるさい!)
脳内を侵食してくる余計な考えを追い払いたくて、僕は無心でペンを動かした。
ふと我に返り、目の前に広げたノートへ視線を落とす。
「……え?」
思考が止まった。ノートが――板書じゃなくなっている。
授業の内容とは無関係なおかしな模様、記号の羅列。表目、裏目、かけ目……。
(えっ! なにこれ?)
無意識のうちに描いていたらしい。
これは、完全に編み図だ……! しかも、無駄に凝ったアラン模様の。
その時、不運なことにちょうど前の席に座る男子が振り向き、机の上を覗き込んできた。
よりによってその編み図ノートを。
「石野。それ何?」
「えっ! こ、これ!? な、なんでもない!」
心臓が跳ね上がった。バタン、と大袈裟な音を立ててノートを閉じる。
「なんか、今日ぼーっとしてない? 寝不足? さては夜通しゲームしてたとか」
「いやっ、別に! ゲームは僕、しないし……」
「おー、そっか。悪い悪い」
僕の剣幕に引いたのか、彼は苦笑いしてまた前を向いた。
危なかった。この編み図ノートは、鞄の奥底にしまっておこう。
(もう、突然振り向かないでよ。普段、プリントを回すとき以外ほとんど喋んないのに)
昨日のあの恐ろしい謎の男子のせいで、どうも僕の「隠密活動」に支障が出始めている。
*
放課後になり、僕の聖域の一つである図書室へ来た。ここは教室より空気が静かで、古い紙の匂いがして落ち着く。
一番奥の手芸コーナーの棚の前で、編み物の本を探す。背表紙を指でなぞっていると、目当てのものが見つかった。
あったあった。この本に気に入ったモチーフが載っていたんだ。
「また編み物?」
本を手に取ったとき、後ろから声をかけられた。
びくっとして振り返る。そこに五十代くらいの司書・新井さんがメガネの奥で目を細め、立っていた。いつも優しく声をかけてくれる人だ。
「……あ、はい」
「続いてるの偉いわねぇ。この前借りた本は難しそうだったけど大丈夫だった?」
「まぁ……好きなんで」
新井さんだけは、僕が編み物男子であることを知っている。ここでは隠れる必要がない。けれど、やっぱり少し照れくさい。
手に取った本を持ち、空いている窓際の席に座った。
もうすぐ試験期間だからか、今日の図書室にはそこそこ人がいて、静かに本を読んだり、勉強したりしている。
僕はノートと鉛筆を出し、今手がけている「ストール五本目」の構想を書き出す。
これは近所の老人ホームへ持っていく予定のもの。冬の寒さを少しでも和らげられるような、厚手のものだ。
僕はあえてモチーフ編みを選んだ。手間も時間もかかるが、その分華やかで上品に仕上がる。
包みを開けた瞬間に「わぁ」と笑ってもらえるような、素敵なものを贈りたい。
今までも養護施設に寄付したり、叔母に頼んでバザーに出してもらったりして、すごく喜んでもらえた。
それが、地味で取り柄もない自分の、ちょっと誇れるところだ。これからも続けていきたいと思う。
(寒い日に、誰かの首を温めるストールになったらいいな)
想像して、つい口元が緩む。ニヤニヤしながら本の中のモチーフを指でなぞっていた。
その時だ。ふと視線を感じて顔を上げると、斜め前の席に座っている女子生徒と、バチっと目が合った。
あ、やば。目が合っちゃった。
ニヤニヤしていたの見られたか? と思った瞬間、口から言い訳が飛び出た。
「あ、いや、別に僕は、編んでないよ?」
……沈黙。
手には『モチーフ・模様編み大全』というタイトル。
……ちょっと無理、あったかな。
彼女は、憐れみの混じったような、困惑した表情で一言だけ返した。
「……あ、そう」
えっと、バレてる……よね?
ぶわっと耳まで熱くなり、僕は本を抱えて逃げるように席を立った。今日はなんだか、空回りばかりだ。
*
家に帰り、誰もいないリビングで一人分の食事をとり、シャワーを済ませて自室に戻る。
ベッドの上で腰を落として、ようやくまた棒針を持った。
何も考えずに針を動かしている感覚が好きだ。カチャ、カチャ、という微かな針の音だけが部屋に響く。
小学生だった頃、編み物が得意なお母さんに初めて教わった。
最初は力加減がわからなくて、ガタガタの布切れみたいになったっけ。
けれど、完成したとき、お母さんは『すごいね。圭人は指が長くて綺麗だから、きっともっと上手になるわ』と褒めてくれた。
お父さんも喜んでくれて、お兄ちゃんも……あの頃は、笑ってくれたなぁ。
あの陽だまりのような温かさ――思い出すと、自然と笑顔になった。
(静かに編んでると、昔を思い出す。……落ち着くなぁ)
そう思っていたのに。
規則的なリズムで手を動かしていると、またふと、昨日の出来事を思い出した。
『敬語の方がいいですか、センパイ?』
ニヤリと笑い、顔を近づけられた時の、逃げ場のない威圧感。
「――っ、ひぃ!」
カチャン、と編み針同士がぶつかり、変な音がした。
心臓が大きく跳ねる。
「……こ、こわっ……」
思い出すだけで、指先が震えた。
あんなのと関わったら、僕の平穏な生活なんて一瞬で壊れてしまう。
それなのに、あの時の恐怖と羞恥が頭に残って離れない。なんか、印をつけられたみたいでゾッとする。
「……忘れよう。忘れなきゃ」
僕は怯えるように首を振り、何かに追われるような気分で編むスピードを上げた。
早く上書きしてしまおう。
そう必死に考えながら、僕は逃げるように針を動かし続けた。


