「季くん、近すぎない?」
「だから、満員電車なんだから仕方ないじゃないですか。大人しくしていてください」
僕たちが付き合い始めて数日が経った朝。
いつもの満員電車に、いつものように僕は壁際に追い込まれ、季の両腕に囲われている。
「……これ、誰も見てないですよね? 一瞬だけなら、キスしてもバレないかな」
「はあ!? 何言ってんの!? バカっ……! 声大きすぎ!」
慌てて季の口を手で塞ごうとするけれど、彼はそれを避けクスッと笑って、わざと耳元で囁いた。
「え、冗談だと思いました?」
「は? ほんとやめて。心臓、止まっちゃう!」
「はは! かわいいな」
余裕の表情で笑う彼の声が耳に届いた瞬間、プシューッという音とともに電車が駅に着いた。あんなに密着していた空間が一気に動き出す。
ホームに降りた途端、季はさっきまでの余裕が嘘のように深い溜息をついた。
「……はぁ〜、……死ぬかと思ったー」
「え、なんで? 僕が死ぬとこだったんだけど」
「あと一駅あったら、俺の理性は死んでた」
「バカじゃないの!?」
呆れつつ、僕は耳まで熱くなる。
自分の腕を掴んでいる彼の手を見た。
「っていうか、離して。もう電車降りたんだから」
「んー。やだ。人混み、まだすごいから」
季は僕の腕から手首へと手を滑らせ、ギュッと指を絡めてくる。
「……そこの交差点で別れるまで。いいでしょ? センパイ」
「……はぁ、もう」
慣れ親しんだ通学路で、僕の高校の生徒も歩いている。
真っ赤な顔を見られないよう、僕は少しだけ、彼の背中に隠れるようにして歩き出した。
*
放課後の帰り道。
駅のホームで季と電車を待っていると、少し離れたところから声がした。
「……あれ? 志水じゃん」
ビクッとして振り返ると、季と同じ制服の男子が立っていた。
「げ。……中谷」
季が露骨に嫌そうな顔をする。
その中谷くんは季のそんな態度にも慣れているのか、ニヤニヤしながら近づいてきた。そして隣にいる僕を見て目を丸くする。
「お前が誰かと帰るなんて珍し……って、あれ? その人、もしかして」
中谷くんの視線が、僕と季の繋いだままの手に落ちる。
うわ、やばい! なんか言われる……?
僕は慌てて手を振りほどこうとしたけれど、季は逆に力を込めて、ぐいっと僕を自分の背中に隠した。
「……なに。見んなよ」
「うわー、マジかよお前。独占欲ダダ漏れじゃん」
中谷くんが面白そうに笑う。
僕も初めての人と話すのは得意じゃない。背中に隠してくれて、助かった……。
「へぇ、その人が噂の先輩? はじめまして、俺、こいつの中学からの――」
「挨拶とかいらねーから。……お前あっちの車両行けよ」
「はあ? 降りる駅一緒なんだから、別にいいだろ」
あ、中学からの友達なんだ。
家の方向も同じらしい。つまり逃げられない。
結局、三人で電車に乗り込むことになった。
季は僕を壁際に立たせ、その前に仁王立ちして中谷くんからの視線を遮っている。
「ひでぇ! お前がそんな必死な顔すんの初めて見たわ。おもしれー」
「うるせーよ。余計なこと言ってんじゃねーよ」
「ぶはっ、やば。お前そんな顔すんのな……飽きっぽいお前がねぇ」
からかう中谷くんに、季がボソッと言い返す。
「うるせーな、……半年以上かけてやっと捕まえたんだよ。飽きねーよ」
その言葉の熱量に、背中に隠れている僕の顔までじんわり熱くなる。
中谷くんは「へぇ」と感心したように言った。
「そんなら、余計に紹介しろっつーの、ね? 先輩?」
中谷くんはひょこっと季の背後を覗き込み、僕と目が合った。
「中谷って言いまーす! 先輩よろしくね」
「センパイ、こいつは無視でいいからね」
「ぁ……え、あ、石野圭人です。……よろしくお願いします……」
季の背中越しにペコっと小さく頭を下げると、中谷くんがまじまじと僕を見た。
「うわ。……あー、確かにかわいい。志水が必死になるわけだ」
「あ?」
『かわいい』と言う単語が出た瞬間、季はさらに僕を背中に隠し、ぎゅっと手を握った。
「おい中谷。二度とかわいいとか言うな」
「はいはい、わかったって。おーこわ」
電車が乗り換え駅に着き、ドアが開く。
ホームに降りると、季が中谷くんに向かってシッシッと手を振った。
「んじゃ、お前あっちの車両行って。俺ら奥行くから」
「はいよ。邪魔しないように消えまーす! んじゃ、先輩、またね」
「あ、はい」
中谷くんは笑いを堪えたような顔で、僕に手を振って改札側へ去っていった。
嵐のような時間だった。
中谷くんが気を利かせて車両を変えてくれて、二人きりになったホームの端で。
季はあからさまに不機嫌そうに、深い溜息をついた。
「……あいつマジで邪魔」
「季くん、怒ってんの?」
「怒ってないですよ。……でも」
そっと僕の耳元に手を添えて、季が顔を近づける。
気づけば、目を逸らせない距離。
「センパイも。あんなやつに愛想よくしなくていいですよ」
「ええっ、友達でしょ? 挨拶くらいするよ」
「だめ。……かわいいのバレる。さっきもバレかけてたし、もー、最悪!」
拗ねたように言う彼を見て、僕は思わず吹き出してしまった。
*
乗り換えの電車を待っている時。
繋いだ手の温もりを感じながら、ふと、これからのことを考えた。
僕は三年生。コンテストを経て、進路について真剣に考え始めていた。
「……ねぇ、季くん」
「ん?」
「僕、卒業したら……ここからいなくなるかも」
「は?」
唐突な言葉に、季が怪訝な顔をする。
「進路、どうしようかなって。……もし遠くになったら、会える時間、減っちゃうかな」
不安を口にすると、季はじっと僕の目を見て、呆れたようにため息をついた。
「……センパイ、そんなこと気にしてたの?」
「えっ」
季は僕の手を引いて、グッと顔を近づけた。茶色がかった瞳が至近距離で、真っ直ぐに僕を射抜く。
「センパイがどこの大学行こうが、どこに住もうが、関係ないです」
「えっ?」
「俺、普通に追いかけるんで。……物理的な距離とか、どうでもいいんですよ」
彼は繋いだ手に力を込めて、ふてぶてしく笑った。
「ちゃんと、ずっと好きでいますから。……離す気ないんで」
迷いのない瞳で、宣言した。
その強引さが、今はどうしようもなく嬉しくて――。
感情が溢れて、僕は思わず季の胸に飛びついた。
「――季くん! 大好き!!」
「うわっ!?」
勢いよく抱きついた僕を、季はよろけながらもガシッと受け止める。
「……え、えっっ!? ……うわぁ。当たり前のこと言っただけなのに……ラッキー」
季は一瞬固まり、それから嬉しそうに目を見開いた。
その瞬間、ざわりと周囲の音が耳に戻ってきた。
ここは乗り換え駅のホームで、夕方の帰宅ラッシュが始まる時間。
一斉に視線が集まっている気がして、血の気が引く。
(うわ、ヤバい! 抱きついちゃった! 忘れてた――しかも人がたくさんいるのにあんな大声で……!)
あまりの恥ずかしさに、季の胸に顔を埋めたまま両手で顔を覆う。
離れようとしたけれど、季は僕を逃さないみたいに、さらにぎゅっと抱き寄せた。
彼は「はははっ」と楽しそうに笑い、僕の頭をぽんぽんと優しく撫でた。
「かっわい」
ぼそっと漏れた低い声が、耳元で囁かれ、さらに僕の体温が上がる。
人の視線より、その一言の方がよっぽど心臓に悪かった。
*
穏やかな休日の午後。
自室で、僕は編みかけのブランケットを手に取った。冬用に編み始めたモチーフつなぎのブランケットだ。
カチャ、カチャ、と規則的な金属音が、静かな部屋に響く。
――はずだった。
「……ねぇちょっと、邪魔ー。重いんだけど」
「ほら、集中してください。俺は、こうしてるだけだから」
背中に張り付く体温と、腰に回された腕の重み。
僕が編み物を始めると、季は決まってこうして背後から抱きついてくる。
こうなると、集中なんてできないし、指を動かすにも実際邪魔で仕方がない。
「休憩します?」
「今、編み始めたばっかだよ!?」
「俺もそろそろ、かまってもらう時間だし〜」
「なに、その時間……子供みたい」
「センパイのせい」
季が僕の首筋に顔を埋め、深く息を吸い込む音がした。
くすぐったいし、暑苦しいし、ドキドキして手元が狂いそうになる。
昔の僕は、耳が痛いほどの静寂の中で、ひとりぼっちで指を動かしていた。
誰の声もしない部屋で、孤独を埋めるように。
まさか、こんなにうるさくて、重たくて温かい空気の中で編み物をする日が来るなんて。
あの頃の僕は、想像もしなかったな。
「……ねぇ、季くん」
「ん?」
「好きだよ」
ふいに伝えてみると、背中の彼が息を呑んだ気配がした。
次の瞬間、回された腕の力が強くなる。
「……いっつも不意打ち! そういうとこヤバいんだって」
耳元で囁かれる声は、甘く溶けそうだ。
チュッ、と首筋に落とされたキスの熱に、僕は目を細めた。
僕たちの毎日は、これからもこうして、一目ずつ編まれていく。
絡まって、結ばれて、ほどけることのない、愛おしい日々。
好きだと思うたび、僕の世界は温かかくなる。
――fin.
――――――――――
最後までお読みいただきありがとうございます!


