ケイト先輩とトキくん


 四月になった。
 冬の寒さが嘘のように、空気が和らいでいる。線路沿いでは、桜の花が揺れていた。
 僕は三年に、季は二年になった。

 いつもの電車の中は、新しい制服に身を包んだ生徒が、慣れない足取りで車内に立っている。
 変わらないのは、ぎゅうぎゅうの車内と、当然のように僕を壁際で囲い込む季の姿だ。

「季くん。だから、ちょっと近いって」
「満員電車なんだから、仕方ないじゃん」

 あの手袋の一件で仲直りしてからというもの、何かと距離が近い。毎朝、内心焦って文句を言うが、季は涼しい顔をしている。

(この距離感、どうなってんの? 僕の鼓動が聞こえてしまいそう)

 いつも見上げる位置にある顔が、すぐ目の前にある。彼が身を屈めて僕を囲っているせいで、顔の距離なんてほとんどない。
 電車が揺れるたびに、今にも鼻先が触れそうになる。
 ……無理。落ち着かない。ずっと顔が熱い。
 
 そんな僕とは対照的に、季は平然とした顔で、小声で話しかけてくる。
 
「三年って大変そうですね」
「……まだ始まったばっかだし」
「センパイ、クラスに友達いそう?」
「いや、わかんない。相変わらず静かに過ごすと思うよ」
「……そっか。ならいいけど」
「え? 友達できない方がいいの?」
「よくないけど。……変なやつに絡まれそうだし」

 二年間もぼっちで過ごしてきたんだから、最後の一年も変わらない平和な学校生活を過ごすだろう。
 今思えば、こうやって毎日誰かと通学していることの方が奇跡に近い。
 ……こっちはドキドキしっぱなしで、全然平和じゃないんだけど!

 そう思っているのに、今度は僕の前髪に指を差し込んだ。
 さらっと髪を分けられ、おでこが出る。

「……っ、なにするの」
「いや。この前髪のせいかなって」
「え、なんのこと?」
「どこで見たのかわかんないけど、クラスのやつに『センパイのこと紹介して』って言われたんですよ」
「えっ! 無理! 絶対イヤ!」

 僕が即答すると、季はフッと笑って目を細めた。

「俺も『無理、絶対やだ』って断っておきました」

 その返事を聞いてホッとしていると、季は前髪の分け目から覗く僕の目をじっと見て、不満げに目を細めた。

「……隠してるつもりだろうけど、漏れてんだよなー。可愛いの」
「えっ……」

 季の手が僕の頭をポンと撫でた。
 
「センパイも、新しいクラスで他の奴に愛想振り撒いちゃダメだよ」
「!!」
「……約束ですからね」

 耳元で囁かれて、僕はまともに顔を上げれず、コクリと頷いた。

 *

 電車を降りて、改札を出る。
 僕たちの学校は、この駅から同じ方角にある。
 だから、駅前の大きな交差点を曲がるまでは、二人の時間はまだ続く。

 春の風が吹いて、少し乱れた髪を直そうとした時だった。
 季が足を止め、僕の顔を覗き込んだ。

「動かないで」
「ん?」

 季の手が伸びてきて、僕の髪に触れる。

「糸くず、ついてた」
「ありがと」
「センパイって、いっつもどこかしらに毛糸ついてますよね」

 季は取った毛糸を指先で弄びながら、クスクスと笑った。

「なんか、猫みたい」
「は……? それバカにしてる?」
「褒めてますよ。……つい撫でたくなる」

 そう言った彼の指先が、僕の髪に指を絡める。
 さらり、と僕の耳の輪郭をなぞるように撫でて、頬へと滑り落ちる。

「っ……!」

 くすぐったさと、指先の熱に肩が跳ねた。
 驚いて見上げると、季はとろんとした甘い目で僕を見ていた。

「……触り心地いい」
「な、なに言ってんの!」
「センパイの髪も肌も、柔らかくて好きです」
「朝から、からかわないでって!」

 パッと顔を背けて早歩きをする僕を、季が楽しそうに追いかけてくる。
 新学期早々、心臓が持ちそうにない。

 逃げるように数歩進んで、ふと、ポケットの中にある感触に気づいた。
 ……そうだ。
 あの時渡せなかったもの。
 辛くて、リュックの奥底に封印していたけれど、今日こそ渡さなきゃいけない。

 僕は意を決して、足を止めた。

「……季くん」
「ん? どうしたんですか?」


 追いついてきた季が、不思議そうに首を傾げる。
 僕はポケットから、あのイニシャルキーホルダーを取り出した。冬の毛糸で編まれた、少し季節外れの『T.S』。

「これ。……ずっと渡したかったんだ」
「えっ」
「あの時、いろいろあって渡せなかったやつ。……冬の毛糸だけど、よかったら」

 差し出すと、季は目を丸くして、それからパァッと顔を輝かせた。

「マジですか? これ、俺のイニシャル?」
「うん。僕のと、お揃い……的な」
「……え、マジで嬉しい! 即つけます」

 季は迷わず通学鞄を前に回し、一番目立つ場所につけた。
 彼はそれを優しく撫でながら、ボソッと呟いた。

「……これもう、結婚しかなくない?」
「……ん?」
「なに?」
「い、今なんて?」

 季は真顔のまま、僕を見て首を傾げる。
 
「なんも言ってないですよ。……幻聴じゃない?」

 いや、『ケッコン』って聞こえた気がした。絶対に。
 春の風のせいだろうか。それとも僕の願望……?
 
 鞄で揺れる青いキーホルダー。
 あのときは重荷だと思っていたものが、今はこんなに彼を笑顔にしている。
 胸のつかえが完全に取れて、僕の心は春の空みたいに軽くなった。
 
 *

 ある日の夜。自室で、コンテスト用のタペストリーを広げる。部屋いっぱいに広がるほどの大作で、ほぼ完成している。

(あと少し……もうすぐ完成だ)

 タペストリーの仕上げに夢中になるあまり、部屋の外の音は聞こえていなかった。
 突然ドアが開く。

「おい、圭人。いんのか? 帰ったぞー……って、うおっ!?」

 兄がドアの前で、床に広がる巨大なタペストリーを見て、目を丸くする。

「なんだこれ。……すげぇ」

 ――見られた!
 いつもなら急いで隠すけれど、二畳分近くあるこの作品は、どうやったって隠せない。
 
「あ、え、……違うのこれは何かその、えっと、友達に頼まれてて!」
「はぁ? こんなデカいの、友達が頼んでくんの?」
「……あー友達じゃない、かな……」

 しどろもどろに言い訳をして、僕は身を縮こまらせた。
 けれど、いつまで経っても嘲笑う声は降ってこない。
 恐る恐る顔を上げると、兄は真剣な眼差しで編み込み模様を見つめていた。
 兄はタペストリーの前にしゃがみ込み、僕と視線を合わせる。

「……これ、お前が作ったのか?」
「……うん」
「すげえな……。マジですげぇ」
「……」

 僕は俯いたまま、言葉が出ない。
 兄はバツが悪そうに頭をかきながら立ち上がり、僕の震える肩に両手を置いた。

「……もしかしてさ、俺が昔言ったこと、まだ気にしてた?」

 その言葉が耳に届くと、肩がビクッと跳ねた。
 唇を噛み締めると、あの日「男が編み物なんて」と笑われた時の光景がよみがえり、視界が滲んできた。
 兄は「やっぱりか……」と呟くと、僕の顔を覗き込んだ。

「圭人、悪かった。あの時ほんと深く考えてなかったんだ。高校生のノリで、笑っただけで……お前を傷つけるつもりなんてなかった。……お前、俺の弟だろ。大事に決まってんじゃん」

 兄の声色が、いつになく真剣だった。
 堪えていたはずの涙が溢れた。止まらない。
 どうして、涙が出るの? 今まで平気なフリができたのに。
 兄の手が、僕の頭をぽんと撫でる。
 昔みたいな乱暴な手つきじゃない。ずっと優しい重さだ。

「自慢だよ。こんなん作れる弟、普通に誇らしいわ」
「……う、うん……っ」

 兄の言葉に、余計に涙が止まらなくなる。
 傷ついたままだった心が、ようやく少しずつ温まる感覚。
 長年の呪いが、やっと解けた気がした。

「……泣くなよ。ほら、頑張れ」

 兄は最後にポンと頭を叩いて、そっと僕を一人にしてくれた。
 僕はしばらく気が済むまで、子供みたいに泣きじゃくった。

 お兄ちゃんとも向き合えたのは――。
 
(きっと、季くんが認めてくれていたからだ)
 
 涙を拭いながら、自然と彼の顔が浮かぶ。
『センパイの作るものが一番好きです』
 あの言葉が、僕を支えてくれていた。

 ひとしきり泣いて、乱暴に涙を拭う。胸の奥が思った以上に澄んでいる。
 気持ちが軽くなったからか、タペストリーの仕上げの作業も自然と速度が上がる。

(するする編めるのって、やっぱり気持ちいいな。息も整うし)

 ついに最後の糸を処理した。

「……完成した!!」

 出来上がったばかりのタペストリーを抱きしめて噛み締める。羊毛の匂いと、ふんわりとした温かさ。
 スマホを取り出し、一枚写真を撮った。
 季くんには……送らない。
 一番に実物を見せたいから。
 季くんの喜ぶ顔が見たいから。

 ――そんな風に考えるだけで、僕はどこまでもやれる気がした。