ケイト先輩とトキくん


 寝不足のまま、朝が来た。
 重い体を起こして、またいつもの一日が始まる。
 相変わらず、乗り換え駅のホームは人の波が行き交っていた。あくびが漏れると、そのまま白い息になって消える。
 
 週末のことが頭から離れず、つい怖くて俯きがちになる。
 今日も季とは会わずに過ごしたい。
 最初から間違いだったんだから。忘れると決めたんだから。
 そう思うほど、僕の足は重くなる。

 つい、いつもの癖でホームの端にあるベンチまで歩いてくると――そこに、見慣れた姿があった。
 季がいる。
 いつもは余裕たっぷりに立っている彼が、今日はベンチに深く座り込んで、俯いている。
 明らかに寝不足なのが遠目でもわかった。

(……なんで、いるの?)

 胸がひやりとした。
 逃げなきゃ。思わずそう思って踵を返そうとした瞬間、季が顔を上げた。
 視線がぶつかる。
 狙いを定めたように、彼がバッと立ち上がり、真っ直ぐにこちらに近づいてきた。

 怖い。何を言われるんだろう。
 僕はつい、後ずさりして逃げようとした。
 けれど、ガシッと強い力で腕を掴まれる。

「逃げないで。……話があるんで」
「え……」

 迷いのない力で掴まれている。
 戸惑っているうちに、ホームのさらに端っこ、自動販売機の影になる場所まで連れて行かれた。
 季は、僕の袖を掴んだまま離さない。
 至近距離で見る彼の顔は、目の下にクマができていて、いつものキラキラしたオーラは消え失せていた。
 彼はバツの悪そうな顔をして、重い口を開く。

「土曜日は……ごめん。ドタキャンなんかして」
「……」
「あー……やっぱ、怒ってますか? 俺のこと」

 季はさらに苦しそうな顔で、言葉を詰まらせる。
 視線を彷徨わせ、それでも、ぽつぽつと続きを話した。

「部活……用済みになっちゃって。あんなに偉そうにしてたのに、結局ただの穴埋めだったんだなって思ったら、自分が情けなくて」
 
 途切れ途切れの声だった。
 傷ついたプライドを吐露する彼に、なんて声を掛ければいいかわからない。
 それから、彼は小さく息を吐いて、僕の目をじっと見つめた。

「……それと、手袋」
「っ……!」

 一番触れられたくない話題に、僕の肩が強張る。

「……学校の女子に、勝手に手袋はめられて」
「……」
「それがすげー嫌で。汚された気がして、どうしても許せなかった」
「え?」
「家に帰って洗剤で洗いまくったら、縮んでしまって」

 あの手袋は「笑われた手袋」で、恥ずかしいものとして捨てられたのだと思っていた。
 けれど、本当は違ったんだ。
 
 洗いすぎて、縮んだなんて。
 なにそれ……バカみたい。
 普段、あんなに澄ました顔して余裕のある後輩ぶってるくせに。
 そんなに必死になって、僕があげたものを守ろうとしてくれていたなんて。
 
 胸がきゅっと締め付けられる。
 初めて、一つ下のこの気怠げな後輩を『かわいい』と思った。

「大事にしたかったのに、俺がダメにした。……そんな顔、センパイに見せられなかった」
「……ふ、ふふっ」
「え、なんで笑うんですか」
「だって……はは、僕怒ってないよ? また編めばいいだけだし」
「!?」
「それに、僕が嫌われたのかと思ってたから……」

 季が信じられないものを見る目で僕を凝視する。
 
「嫌うわけないじゃないですか! 俺が、俺がバカだっただけで」
「今度は縮まない毛糸で、洗えるやつにする。……ウォッシャブルウールとか」
「……マジですか。絶対? 絶対また俺に編んでくれる?」
「うん、季くんが喜んでくれるなら」

 その言葉を聞いた瞬間、季の瞳が揺れた。
 何かを堪えるような顔をしたかと思うと、僕の腕をぐいっと引いた。

「わっ」
 
 そのまま、彼の胸の中に閉じ込められた。
 コート越しに、彼の体温と匂いが押し寄せてくる。
 背中に回された腕が、震えるほど強くて。
 どこか必死さが滲んでるように感じた。
 
 僕の心臓もうるさいほど高鳴り、声が出ない。
 ここ、駅のホームなんだけど……!

「あ……え、季くん?」
「あーー。もう、離したくないんですけど」

 耳元で聞こえたその声に、赤くなっている僕の顔が、さらに沸騰しそうなほど熱くなった。
 言葉の意味を考える余裕なんてない。
 ただ、この温かさが心地よくて、僕も少しだけ、彼の背中に手を回した。
 
 ちょうどその時、電車が滑り込む音がして、我に返った季がパッと離れた。
 気まずそうに、でも嬉しそうに鼻をすする彼と一緒に、ドアが開いた電車に乗り込む。
 
 満員電車だから仕方がないけれど、今日の密着度はいつも以上に高い気がする。
 季が僕を壁際に追い込み、閉じ込めるように両腕で僕の周りに壁を作っている。
 チラリと顔を盗み見ると、すぐそこにある彼と目が合った。
 すぐに視線を逸らしたけれど、今度は季が僕の手をこっそり握って、耳元で囁いた。

「センパイ。作品、完成したら……一番に見せてください」
「っ!」
「約束ですよ、センパイ」

 握られた手に力がこもる。
 僕のドキドキは最高潮にうるさくなり、コクコクと頷くことで精一杯だった。
 失いかけたと思っていたこの関係が、前よりもずっと近く、温かいものに変わっていた。