(季side)
放課後の体育館。今日のバスケの練習が終わったところだ。
シューズが床を擦る音と、汗の匂い。
久しぶりに浸ったこの空気も、そろそろ終わりだということは、薄々感じていた。
「お疲れー」
「お疲れ様でした!」
片付けをしていたところ、顧問の先生が俺の名前を呼んだ。
「志水ー! ちょっと来てくれ」
「はい」
駆け寄ると、その顧問はニコニコと満面の笑みで俺の肩を叩いた。
「怪我していたレギュラーが来週から戻ってこられるようになったんだ。志水に穴埋めしてもらって助かったよ」
穴埋め。
その言葉が、俺の胸に真っ直ぐに刺さった。
「え……そうなんですか」
「ああ。だから、バスケ部の参加はもう大丈夫だ。いやー、いい練習になったよ。ありがとうな」
「……わかりました」
『もう大丈夫』。
それは、「もうお前は要らない」という宣告だった。
俺は愛想笑いを浮かべて頭を下げた。
期待なんてしていなかったのに、手のひらに爪が食い込むのを感じた。
*
中学時代、俺はそこそこバスケが上手くて、キャプテンとして本気でやっていた。
周りからも『エース』だともてはやされて、自分でもそう思っていた。
あいつが現れるまでは。
上には上がいる。
どんなに練習しても追いつけない、『天才』の背中を見た時、俺のプライドは音を立てて折れた。
一番になれないなら、意味がない。
負けて惨めな思いをするくらいなら、最初から土俵に上がりたくない。
――もう一番になれないなら、傷つく前に降りる。
そうやって逃げてきた。
高校で「応援メンバー」なんて中途半端な立ち位置にいたのも、結局は『本気じゃないから負けてもいい』という言い訳が欲しかっただけだ。
逃げ続けて、適当にこなして。
そう適当に日々をやり過ごしていれば、傷つかずに済むと思っていた。
それなのに。逃げているくせに、いざとなれば勝手に傷ついている。
(……結局、俺はいつだって都合のいい「代用品」なんだよ)
体育館を出ると、冷たい風が火照った体を冷やしていく。
見学に来ていた友人たちと校門をくぐる。
ふと、圭人センパイの顔が浮かんだ。
(センパイにとっても、別に俺じゃなくてもいいのかもな)
弱気な思考が頭の中をよぎる。
会いたい。
会ってその温かさに触れて安心したい。
そんな甘えた考えでスマホを取り出した。センパイからの連絡はない。
「ねー季くん、今日こそカラオケ行こーよ」
「あー……」
よくあることだけど、勝手に腕を絡めてくるのも今日はマジでうぜぇ。
拒絶することすら面倒で、いつもこうして適当に流しているけれど。
正直、今はそれどころじゃない。早く帰って、センパイに連絡したいのに。
「あ、なんか落ちそうだよ?」
ポケットに入れていた手袋が引き抜かれた。大切な青い手袋。
「うわ、なにこの色! すっごい青!」
「なんか派手じゃない? ってか手編み? ウケる!」
笑い声が鼓膜を刺す。
俺のために選んでくれた色だ。俺だけの宝物。
「ほら見てー。私の制服のが似合うでしょ」
そいつが手袋に手を通した瞬間、俺の中で何かが切れた。
「おい、……外せよ」
手首を掴んで、無理やり手袋を引き剥がす。
「痛っ! ちょ、季くん?」
「誰が触っていいっつった? これ」
「どうしたの? 季くん」
奪い返した手袋を、埃を払うように強く叩く。
自分でもわかる。目が、今までにないほど冷えている。怒りで手袋を握る手が震えた。
「え、だって、ただの手袋じゃん……」
「ただの……じゃねーよ。俺のだ」
シン……と場が凍りつく。
手袋を大事に胸ポケットに押し込んでから、俺はあたりを冷めた目で見回した。
「気安く触んな。カラオケなんて行くわけねーだろ」
吐き捨てるように言って、俺は一人で駅に向かった。
背中に刺さる視線なんて、どうでもよかった。
*
家に着くと、洗面所に直行した。
胸ポケットから手袋を取り出す。
――汚された。
その感覚がどうしても拭えなくて、洗剤を手に取った。
執拗にゴシゴシと洗う。
他人の体温なんて、一ミリも残しておきたくなかった。
けれど、洗っている最中に、手袋が硬くなり、縮んで型崩れしてきていることに気がついた。
「……は!? 嘘だろ?」
俺、なにやってんだ。
大切にしたかったのに。自分の手で、台無しにしてしまった。
濡れた手袋を握りしめ、洗面台に手をついて鏡の中の自分を見る。
そこに映る俺は、情けない顔をしていた。
*
翌日、待ち合わせの一時間前。
洗面所で顔を洗い、鏡を見る。
(……こんな顔で会えるかよ)
鏡の中の自分は、どうしようもなく惨めで、情けない顔をしていた。
縮んだ手袋を持っていくことも、手袋なしでいくこともできない。
何より――。
「部活クビになったわ、なんて、カッコ悪すぎて言えねぇ……」
センパイは、自分の世界を持ってる『すごい人』だ。
コンテストに向けて本当に頑張ってるあの人は、あんなにキラキラしてるのに。
俺はただの代用品で、その上、手袋もダメにして。
「こんなカッコ悪い俺、……幻滅させて終わりだろ、こんなの」
笑えてくる。こんな姿見せるくらいなら、嫌われたほうがマシだ。
震える指で、文字を打つ。
『ごめん、今日、無理になった』
送信した瞬間、自分の中で何かが終わった気がした。
俺はまた、逃げている。
最低だ、俺。
楽しみにしていてくれたかもしれないのに。
(嫌われたくない。でも、会うのが怖い……)
返信を見る勇気もなくて、俺は逃げるようにスマホの電源を切った。
そのまま、暗い部屋のベッドに倒れ込んだ。
*
外はもう夜になっていた。昼間からずっとベッドの上にいる。
何時間経ったのだろう。
そう思ったとき、ドアがドン! と開く。ノックもせずに舞が部屋に入ってきた。
「お兄ちゃん、今日デートだったんじゃないの? すっぽかしたんでしょ。最低」
「お前、勝手に入ってくんなよ!」
「ねぇ、お兄ちゃん、ダサすぎない?」
舞はテーブルに視線を落とした。縮んだ青い手袋が置いてある。
「うわっ、なにこれ。洗いすぎでしょ」
「……うっせーな。ほっとけ」
「バッカじゃないの。カッコつけてる間に、師匠泣いてるかもよ? そんなんでいーの?」
舞は部屋の電気をつけ、俺を睨んだ。
「私がバラしとくから。ちゃんと迎えに行って謝んないと、終わりになるよ」
「は!? 余計なことすんなよ」
舞は俺の言葉を無視して、部屋を出て行った。
静かになった部屋で思い返す。
「……俺、マジでダサ……」
でももう……ダサくても、惨めでも、どうでもいい。センパイと終わりになるくらいなら。
(……会いたい)
カッコつけてなんかいないで、センパイに会って、顔見て、謝って……。
それから――思いきり抱きしめたい。
俺はベッドから起き上がり、放り出していたスマホの電源を入れた。
メッセージを送ろうとして、指が止まる。
文字じゃダメだ。
まずは、朝。
一番後ろの車両で、もう一度、センパイを捕まえに行こう。


