ケイト先輩とトキくん


 翌日、二人で出かける約束をしている日。
 僕は待ち合わせ場所の駅で、季が来るのを待っている。
 空は晴れているけれど、風はまだ痛いほど冷たい。

 ベンチに座り、リュックの中からあのキーホルダーを取り出した。
 それを持つ手が、小刻みに震えているのがわかる。

(渡せるわけない。こんなものを押し付けるなんて……)

 キーホルダーを、またリュックの奥にしまいこんだ。

 約束の時間が過ぎた。
 けれど、季の姿はなく、連絡も来ていない。
 ……嫌な予感がしてしまう。
 二十分ほど過ぎた頃、ようやく季からメッセージが届いた。

『ごめん。今日、無理になった』

 それを見た瞬間、どくん、と心臓が鳴り、強い痛みに思わず胸を押さえた。
 
 ……ああ、やっぱり。
 以前なら、「忙しいのかな」と思えたはずなのに、今日はそんな風に思えない。
 恥ずかしくなったかな……。
 手袋のことも。
 こんな重いプレゼントを渡そうとする、僕のことも。

 一人で帰る道。いつもの景色が歪んで見える。
『無理になった』という一文が、『お前とは無理』という言葉にすり替わって、頭の中で響く。
 
 そもそも、なんで仲良くなったんだっけ?
 落とした毛糸を拾ってくれて……。
 妹の舞ちゃんが編み物を教わりたがっていたから、そのついでだったのかな。
 男子で編み物なんて珍しいから、面白がって構っていただけ。
「すごい」とか「似合ってる」とか……珍しいものに対するお世辞だったのかもね。

 *

 帰宅後、僕はなにも考えたくなくて、気を紛らわせようとコンテスト用のタペストリーに向かった。
 けれど、編み針を持つと手が震える。
 目を編もうとすると、どうしても――考えたくもない記憶が頭をよぎる。
 昨日の女子たちの笑い声だ。『似合わない』『派手じゃない?』
 
 青い毛糸を見ると吐き気がしてくる。
 手元が狂う。

「……違う、こうじゃない」

 ほどいて、やり直して、また間違える。
 無言でやっていたら、視界が滲み、指から力が抜けて、編み針を落とした。
 気づけば、毛糸はぐちゃぐちゃに絡まって、涙が頬を伝った。

「うっ……うぅ……っ」

 ベッドの上で膝を抱え、喉の奥の方で潰れた声が、震えながら漏れた。
 苦しい。涙が溢れて止まらない。
 こんなに辛いのなら、出会わなければよかった。
 もともと、駅ですれ違うだけの他人だったんだから……お互い他人に戻ればいいんだ。

(……戻れない。戻りたくない)

 本音が一緒に溢れ出した。

 誰にも触ってほしくない。あの青い手袋も、季くんの手も、笑顔も。
 笑われたくない。彼に一番「似合う」のは僕だと言って欲しい。
 僕が一番近くにいたい。

 認めてしまえば、答えは簡単だった。
 こんなに苦しくて、息が詰まって、どうしても忘れられないってことは――。
 きっと特別だったんだ。
 気づかないうちに、手放したくない場所になっていたんだ。

 けれど、それが何なのか、今はまだ名前をつけたくなかった。
 あんな風に笑われるものを押し付ける自分なんかが、季くんの隣にいるなんてできないのだから。

 心の奥で膨らんだ何かに蓋をするように、僕は自分に言い聞かせた。

「……忘れよう」

 季くんの笑顔も、体温も、全部。
 そう決意して、布団にくるまり、流れ続ける涙をタオルで拭った。

 *

 泣き疲れて、意識が朦朧としてきた頃。
 枕元のスマホが短く震えた。
 季からじゃない。……舞ちゃんからだ。

(ごめんね、舞ちゃん。もう編み物は教えられないや)

 無視しようと思ったけれど、通知画面の文字が目に入って、指が止まった。

『師匠、ほんとごめん。今日デートできなかったでしょ』
『お兄ちゃん、様子おかしくてさ』
 
 ……様子おかしい?
 関係ない。そう決めたはずなのに、胸の奥がちくりと痛む。
 返信しようか迷っていると、またメッセージが届いた。

『必死すぎて怖いんだけど。この世の終わりみたいな顔になってる』
『師匠、お兄ちゃんになんかした?』

 え、何もしてない。してない……はずだ。
 知らないうちに、何か傷つけるようなことを言った?
 僕、嫌われるようなことした?
 重たいものを、押し付けた?
 
 ――あのロイヤルブルーが、頭の中でちらつく。

 どうして、あの色を選んでしまったのだろう。
「季くんに似合う」と思って選んだ。
 彼の隣に立つ自分を、どこかで想像していた。
 
 ……そもそも、それがもう全部、間違いだったのかもしれない。
 
 どうして、隣に立てるだなんて思ってしまったのだろう。
 眩しい人に、あんな重たいものを押し付けて。特別な色を選んだつもりで、勝手に意味を持たせて。

 僕はどこまで図々しかったんだろう。
 笑われても、当然だったのかもしれない。

 それでも、一つだけ確かなことがある。
「この世の終わりみたいな顔」をしている彼を、放っておけないと思ってしまう自分がいる。

 他人に戻ると決めたのに。
 忘れるって言ったのに。
 どうして、何度も考え直そうとしてしまうのだろう。
 
 ずっと一人の時間が好きだったのに。
 一人になることが、こんなにも怖い。

 僕は返信をせずに、画面を伏せた。
 眠れそうにない夜が、また始まった。
 
 ――ほどけない編み目のように。