ケイト先輩とトキくん


 ピンポーン。

 年が明けて冬休み最後の日。僕は志水兄妹の家の前にいる。
 舞ちゃんと約束した「ぬいの服」の編み物教室の日だ。
 インターホンを鳴らすと、すぐにバタバタという足音が聞こえ、勢いよくドアが開いた。

「センパイ! 遅いですよ」

 出てきた季は、普段の制服姿とは違うラフなスウェット姿。長めの茶髪は、無造作に背後でちょこんと結ばれている。
 ……気怠げな部屋着姿なのに、かっこいい。
 
「ごめん、時間通りだと思ったけど……」
「俺が早く会いたかっただけなんで。……どうぞ」

 前から思っていたけれど、ドキドキさせるセリフ、よくもまぁ簡単に言えるなぁ。
 先輩への懐き方、うますぎない?

 靴を脱いで上がろうとした瞬間、廊下の奥から黒い大きな影が勢いよく駆けてきた。

「ワフッ」
「わっ!?」

 ドンッ、と僕の体に飛びついてくる。
 僕は少しよろけてしまったけれど、なんとか踏ん張った。
 真っ黒で、艶のある毛並みのラブラドールだ。尻尾がパタパタと勢いよく振られている。

「こらスミ! ダメだろ!」

 季が慌てて、僕から大きな犬を引き剥がす。
 
「あ、大丈夫。元気で人懐っこいね」
「こいつ『スミ』って言うんです。真っ黒だから」
「よろしくね、スミちゃん」
「とりあえず、中入ってください」

 犬も飼い主に似て人懐っこいなぁ。
 そんなことを思いながら、僕は季の背中を追って廊下を進んだ。

 リビングに入ると、舞ちゃんがたくさんの毛糸を用意して待ってくれていた。
 さっそく、棒の持ち方から、見本を見せながら編み方を教える。

「ここはこうして……糸をかけて、引き抜く」
「え、むず! 師匠、手伝って」

 舞ちゃんがグイッと僕の腕を引く。
 手元を覗き込んだから、二人の頭がコツンと当たった。

「あ! ごめん」
「あはは! 私こそごめんなさい」
「あ、ほら、こうだよ」
「わあ、すご! 魔法みたい! さすが師匠だ」

 キャッキャと盛り上がる僕たち。
 ……を、向かいのソファからじっと見つめる視線があった。
 そこにいるこの家の長男は、不機嫌オーラを隠そうともしないらしい。

「……舞、近すぎ」
「はぁ? 教わってるんだから普通じゃん。お兄ちゃんは邪魔しないで」
「センパイ、こいつどうせ飲み込み悪いんで、もっと離れて教えていいですよ。てか触んなくていいし」

(……え、めちゃくちゃ拗ねてる!)

 腕組みをして、眉間に皺を寄せている季。
 絶対自分が構ってもらえないからだ……! まさか兄妹喧嘩にならないよね?

「まあまあ。舞ちゃん、筋いいよ。この調子ならすぐ――」

 僕がフォローしようとした瞬間、季がガタッとソファから立ち上がった。

「はい、ストップ。休憩」
「は? まだ始めたばっかだよ!?」
「俺が限界。……舞、お前ちょっと茶でも淹れてこいよ」
「はあ!? 自分でやりなよ」
「あーもう、じゃあ自主練してろ。30分休憩な」

 舞ちゃんが、ポカンとしている隙に、季はスタスタと僕の方へ歩いてきた。
 そして、僕の手首を掴んだ。

「え、季くん?」
「センパイ、ちょっと俺の部屋来て」
「えっ、でも編み物が」
「いいから」

 逆らえない強い力で引かれる。
 ……あ、これ完全に拗ねた大型犬のご機嫌取りイベントだ。

 二階にある季の部屋に連れ込まれた。
 バスケ雑誌や漫画、ゲームが雑多に置いてある、普通の男子高校生の部屋だった。
 勉強机の上は綺麗に片付けられていて、そこにクリスマスの時に渡した青い手袋が置いてある。

「あ、手袋……」
「ん? ああ。……毎日手にはめたり、見つめたりしてますけど……だめ?」

 開き直ったような季の笑顔を見て、思わず視線を逸らす。
 
(だ、大事にしてくれているんだ……。編んで良かったな。でも恥ずかしいよ!)

 そんなことを心の中で呟いていると、ふいに手首を引かれた。
 よろけた僕を、季が正面から抱き寄せた。

「うわっ! どうしたの!?」
「……舞と楽しそうにしてたから」

 そう小さく呟き、背中に腕を回され、ガッチリと抱きしめられる。

(えー!? だからってなんで密着してるの……!? さっきの不機嫌、まだ続いてる?)

 ドクドクと、服越しに季の鼓動が伝わってくる。僕も負けないくらい心臓がうるさい。
 しばらくして、満足したのか季は「よし、完了」と言って、パッと腕を離した。

「……センパイ、顔赤い」
「だ、誰のせいだと!」
「はは、俺ですね」
 
 季は楽しそうに笑うと、僕の手を引いてラグの上に座らせ、自分も向かいに座った。
 少し真面目な顔になって、口を開く。
 
「そういえばセンパイ、まだお兄さん家にいるの?」
「うん、いるよ。相変わらず騒がしいけど」
「大学生でしたっけ。……就活とか?」
「うーん、どうだろ。遊んでばっかりに見えるけど」

 兄の話が出たことで、ふと胸の奥にあった不安を自然と口にした。

「お兄ちゃんは大学行って、楽しそうだけど……。僕はまだ、将来とか全然考えられなくてさ」

 言葉にすると、自分がどれだけ空っぽなのかよくわかる。
 視線を落とすと、季が「焦る必要ないんじゃないですか?」とスマホを取り出した。
 
「センパイには編み物があるし。……あ、そうだ。これ」

 季が隣に移動し、強引に身体を寄せてきた。
 目の前に突きつけられたスマホの画面には、『編み物作品展・コンテスト作品募集』の文字。

「え! こんなのやってるんだ」
「こないだネットで見つけて。センパイの編み物すげーし、こういうのどうですか?」
「でも、僕そこまでの腕はないよ? 人に見せるなんて――」

 言いかけて、季に視線を向ける。
 思ったより近くて、息がかかりそうなところに彼の顔があった。
 いつもはふざけている茶色がかった瞳が、今は少し真剣な色を帯びていた。

「俺は、センパイが作るもの、大好きです」
「っ……!」
「……正直、俺だけのモンにしておきたい気もするけど」

 至近距離のまま、季の両手が伸びてきて僕の頬を包んだ。
 大きな手が、愛おしそうに僕の頬を撫でる。
 親指でそっと肌を撫でられて、言葉が出なくなった。

「センパイのすごさ、俺以外にもわからせたいし。やってみたらどうですか? 俺、一番に応援するから」

 その言葉と、頬に触れる熱が、背中を押してくれた気がした。
 彼が信じてくれるなら、できるかもしれない。
 ――ううん、やってみたい。

 *

 編み物教室は無事に終了して、舞ちゃんのぬいもとりあえず一着、無事に服を完成させた。
「また来てね! 師匠」と舞ちゃんに見送られ、季と二人、並んで駅までの道を歩く。
 季は当然のように青い手袋をはめ、僕に歩幅を合わせて歩いている。
 夕暮れの空気が冷たいけれど、隣にある体温のおかげで寒くはない。
 この穏やかな時間が、ずっと続くと思っていた。
 
 ふいに、季のスマホが鳴った。
 
「あ、バスケ部の人から……センパイ、ちょっと待ってて」
「うん」

 季は少し歩幅を緩めて電話に出る。

「……あー、また? ま、いいけど。どうせ暇だし」

 投げやりにも聞こえる声。
 電話を切った季は、何事もなかったかのように笑って戻ってきた。
 
「なんでもなかったです。また人数足りないから来てくれって」
「そうなんだ。季くん、頼られてるね」
「そうすかね。ま、いい暇つぶしにはなるかな」

 季は肩をすくめ、また歩き始めた。
 その横顔に一瞬だけ影が差した気がしたけれど、僕は深く考えなかった。
 僕の頭の中も、さっき決めた「編み物コンテスト」のことでいっぱいだった。
 
 今日の決意は、きっと未来へつながっている。
 今の僕は、何も怖くなかった――そう思っていた。