ケイト先輩とトキくん


「さっむ……」
 
 冬に向かう空気が、肌を刺すように冷たく感じる。
 吐く息が白くなるのを見て、もう十一月も終わりなのだと実感する。マフラーが必要な季節になってきた。
 だけど、僕は冬が好きだ。だって、この時期が一番趣味がはかどるから。
 
 夕方の乗り換え駅のホームは、帰宅ラッシュで人がごった返している。
 背が低くて猫背な僕なんかは、人波にすぐに埋もれてしまう。けれど、それが好都合だ。誰の視界にも入らない、背景の一部になれるから。
 
 ホームの端にあるベンチに座り、僕はリュックの中に両手を突っ込んで、指先の感覚だけでこっそり編み物をしている。
 堂々と外に出して編む勇気はないから、外出先ではいつもこうだ。
 リュックの口を少しだけ開け、その暗闇の中で指先だけを細かく動かす。カギ針の冷たさと、毛糸の暖かさが交互に指に触れる。
 
(別に見られたって困るわけじゃないけど……ううん、困るね)
 
 男子高校生がベンチでマフラーを編んでいるなんて、変な目で見られるに決まっている。
「え、男なのに?」とか「何あれ」とか。そんな声が聞こえてきそうで怖い。

 だから僕は、リュックの中という安全な場所で、ひっそりと手を動かす。
 いつも暇さえあれば編んでいる。
 通学中の電車でも、放課後の教室でも。寝る前なんかは特に。
 一目、また一目。毛糸が形になっていく感触が、僕の精神安定剤だ。
 ……我ながら中毒だなと思う。

 背中を丸め、周囲から隠すようにこそこそと手を動かしていると、頭上で電車のアナウンスが流れた。
 『まもなく、二番線に――』
 その瞬間、到着する電車の振動で、床がビリッと震えた。
 
「っ!!」
 
 不意の揺れにビビってしまい、手元が大きくずれた。指からスルリと何かが抜ける感覚。
 あ、と思ったときにはもう遅かった。

「あっ! ……ま、待って!」

 リュックの隙間から転がり落ちた毛糸玉は、僕の制止を聞くはずもなく、コンクリートの床を転がっていく。
 コロコロと軽快に、人混みの中心へ向かって。
 
(えー! 嘘でしょ、無理だぁ……)
 
 血の気が引いた。
 あの帰宅ラッシュの混雑に突っ込んでいく勇気なんて、持ち合わせていない。踏まれるかもしれないし、汚れるかもしれない。けれど、取りに行くこともできない。
 無情にも遠ざかる毛糸を見つめ、一歩踏み出そうとした足が止まった。

 その時、すっと伸びた手が毛糸玉を拾い上げたのが見えた。

「落としたよ、これ」
 
 おそるおそる顔を上げると、そこに毛糸を片手に持った見知らぬ男子が立っていた。
 第一印象は「高い」。僕との身長差がすごい。一八〇センチくらいあるんじゃない?
 着崩したブレザー、肩までかかる茶色い髪に整った顔立ち。いかにもクラスの中心にいるような、僕とは違う人種。隣の高校の制服だ。

「これ、毛糸? これで何作るの?」
 
 彼は、本当に気軽な感じで聞いてきた。
 悪気がないのはわかる。純粋な疑問なのだろう。でも、今の僕にとっては尋問に近い。聞かないでほしかった……!
 
「えっ! あ、いやこれは……そ、その」
「ん? この毛糸使って作ってるんすよね? リュックの中で」
 
 確信を突く言葉に、一瞬でカァッと顔が熱くなった。
 バレていた。リュックに手を入れてモゾモゾしていた不審な動きも、中身が編み物だということも。
 どこまで見られていたの? 恥ずかしさで死にそうだ。穴があったら入りたいし、なんなら消えたいくらいだ。
 
 救いの神のように、そのタイミングで電車が滑り込んできた。プシュウ、とドアが開く。
 
「えっと、ぼ、僕電車に乗るんで! これ、どうも!」

 急いで毛糸を受け取り、逃げるように電車に飛び乗った。
 心臓がバクバクしている。
 とりあえず一番端の車両の隅っこに行こう。そう思ったけれど、満員電車はそれを許してくれず、壁際に押しやられ、ふと顔を上げる。
 息が止まりそうになった。
 
 さっきの彼が、目の前に立っていた。
 偶然同じ車両、ほぼ同じ位置。僕が壁際で、彼がその前。まるで彼に守られるような……いや、逃げ道を塞がれているような位置関係になってしまっている。

 ぐ、偶然……? いや偶然だよね?
 恐る恐る上目遣いで窺うと、バチっと視線が合った。
 向こうはニコニコしている。気まずい……死ぬほど気まずい。
 お願いだから話しかけないでほしい。他人のフリしてやり過ごしたい。
 そう願って視線を逸らしたのに、その人は遠慮なく僕のリュックを指差してきた。

「ね、このキーホルダー、イニシャルですか?」
「っ!?」
 
 僕のリュックのファスナーにつけているのは、お母さんが手作りしてくれたニットのチャームだ。アルファベットの『K.I』の文字が編み込まれている。
 無視すればいい。それなのに、至近距離で見下ろされる圧に負けて、口が動いてしまった。
 
「え、えっと、これ? ……これは僕の名前が石野圭人(いしのけいと)だから『K.I』で……」

 答えてから、ハッとした。
 しまった!
 なに自然にフルネーム言っちゃってんの! 何やってんの、僕。初対面の他校生に自己紹介……バカすぎる。
 
「へぇ、ケイト……って言うんですね」
 
 彼は口の中で僕の名前を転がすように繰り返した。ニヤッと口角が上がる。
 
「何年生? あそこの高校ですよね? その制服、よく見るし」
「……あ、はい。今二年生……です」
「えっ! マジ? 俺より一個先輩じゃん」
 
 彼は目を丸くして、それからふんわりと笑った。
 
「敬語の方がいいですか、センパイ?」
「えっ、いや! 僕も年下とは思わなかった、し……。なんでも、いいです……」

 慌てて首を振ると、なぜか向こうが嬉しそうに笑った。
 綺麗な顔立ちをしているのに、どこか威圧感がある。
 僕みたいな地味なやつにも、壁を作らずズカズカ土足で踏み込んでくるタイプだ。
 ……一番、苦手な人種だ。
 
 電車が駅に到着し、ドアが開く。
 
「あ、俺ここで降りるんだ」
「あ、あ、はい……」
「圭人センパイ、また」
 
 彼はひらりと手を振って、サッと降りて歩いていく。
 人混みの中でも、彼の背の高い後ろ姿はすぐにわかった。
 またドアが閉まり、電車が動き出す。
 僕は窓ガラスに映る自分の情けない顔を見つめ、深く深呼吸した。
 
(……はぁ、寿命が縮んだ)

 名前も知られてしまった。というか、「また」って何?
 あんな目立つような人と、僕みたいな人間、二度と関わることなんてないはずだ。
 
 ただでさえ学校で話す相手なんてほとんどいないし、普段喋る相手といえば図書室の司書さんか、お店の店員さんくらいだ。
 だから余計に今日のことは、心臓に悪かった。

 もう二度と会いませんように。
 僕は心の中でそう強く願って、リュックの肩紐をぎゅっと握りしめた。

 *
 
「ただいま〜」
 
 家に帰ると、玄関はいつも通り暗かった。
 靴を脱いでリビングに向かう。しんと静まり返った家の中。もちろん、「おかえり」と言ってくれる人はいない。
 
 冷蔵庫から食材を出し、トントントン、と包丁の音を響かせ適当にご飯を作る。
 
(来週までお父さんいないから、自分の分だけでいいな)
 
 この生活にも慣れ、今やこれが普通になった。
 前まではコンビニかスーパーのお弁当買っていたけれど、味に飽きてしまって、最近は自分で作るようになった。料理の手順は編み物に似ている。淡々とした作業の積み重ねだ。
 
 お父さんは海外へ出張中。いても帰りは遅くて、顔を合わせることも少ない。
 お母さんはもういない。
 お兄ちゃんは大学生で、家を出ていて長期休みの時にしか会わない。
 いつも食卓にひとりだ。
 音もない部屋だけれど、テレビをつける気にもならない。あの賑やかな笑い声が、今の部屋には馴染まないような気がして。

 それでも、一人は嫌いじゃない。黙々と編み物ができるし、誰に気兼ねすることもない。その静けさが僕の日常だ。

 食器を洗い、シャワーを浴び、自室に戻る。
 ベッドの上であぐらをかき、また毛糸を指に絡めた。
 ようやく訪れた、誰にも邪魔されない癒しの時間。
 編み物をしている時は無心になれる。複雑な編み図を頭の中で展開し、指先を動かすことだけに集中する。そうすれば、嫌なことも、孤独も忘れられる。寝る前に編むのは、僕にとって欠かせない日課だ。

 ――の、はずなんだけど。
 
「……あー、もう。最悪だ」

 少し編むごとに、今日の駅での出来事を思い出し、手元が狂いそうになる。

『これで何作るの?』
『この毛糸で作ってるんすよね? リュックの中で』

 あの時の光景を思い出し、恥ずかしさが蘇り、また頬が熱くなる。
 全部バレていただなんて、僕にとってはかなりキツい。

 背が高く、整った顔立ちに、着崩した制服。いかにもクラスの中心にいそうな「陽」のオーラ。
 思い出しただけで、胃が痛む。
 しかも――。
 
「……あの笑顔、上手すぎて逆に怖い。絶対、裏があるタイプだ」
 
(拾ってくれたのはありがたいけど……。あんなにグイグイ話しかけてこなくてもいいじゃん!)
 
 でも。学校も違うし、もう接点なんてあるはずがない。
 今日のことは、ただの事故だ。忘れよう。
 そう言い聞かせて、僕は強引に編み物に意識を集中させた。
 
 一通り進めたところで、ふわふわと眠気が押し寄せてきた。
 
 明日もまた、平和で静かな一日でありますように。
 そう願いながら、僕は眠りについた。