放置されたバケモノ妻は、夫の一途な溺愛に気づかない

 夢を見た。五歳の頃の姿になって、暗い道をどこまでも走る夢。
 隣には、黒髪と黒曜の瞳を持つ美しい少年が共に走っていた。怖い、怖いと泣きながら、縋るように千夜の手を握ってくる。
 ――大丈夫、怖くない。自分が一緒にいるのだから。
 千夜は微笑み、強く彼の手を握り返した。


 薄闇の中、千夜はゆっくりと目を覚ます。紫に染まった辺りを見て、夜にさしかかっているのだと気がついた。寝転んだまま、目線を上げると、隣に蓮が座っていた。寝衣姿の彼は布団を被ったまま上体を起こし、闇をじっと見つめている。その横顔には、夢で見た少年の面影があった。かつてあんなに泣いていた少年がこんなに成長するなんて。実感すると同時に契りのことを思い出し、気恥ずかしくなる。
『そんな、どうして……? あんなにうるさかったのに……』
 不意に、頭の中に蓮の声が響いてきた。彼の思考が、直接千夜に伝わっているのだろう。正式に契りを終え、狩人と標人の真の絆を得た証だ。そして繋がりを得たなら、自分たちの間にあった問題も既に解決しているだろう。
『うまく、いったみたいですね』
 すると蓮は、ばっとこちらを振り向いてきた。
「死鬼の声が聞こえない理由……知っているのか」
「私と契ったからですよ」
 千夜が自分に与えられた常世の神の加護と、それが契りによって蓮にも適応されるようになったことを説明すると、蓮は大きく目を見開いた。
「神の加護なんて、そんなものがあったのか……」
「ええ。だから私に負担なんてありませんし、あなたがこれ以上声に悩まされることもありません」
 千夜は安心させるように蓮に微笑んだ。
 彼はしばし俯き沈黙していたが、やがておもむろに腕が伸びてくる。
「本当に……君は、私の運命だ」
 その声は、歓喜と安堵で震えていた。千夜もそっと蓮の背中に手を伸ばす。かつて黄泉路を出てから十数年間、毎夜蓮を苛んでいたものがなくなった。自分の力ではないけれど、自分と繋がることで彼を救えたなら、それは喜ばしいことだと思う。
『一緒に黄泉路を迷って、知らないままに再会して、互いの正体を知らずに信頼を深めて。確かに運命みたいね』
『君も、そう思ってくれるか』
 考えたことに返答がきて、ばっと顔を上げた。頬を赤くした千夜の顔を、蓮が面白そうにのぞき込んでいる。
「全部、聞こえている」
「……必要なこと以外は伝えないよう訓練しないとですね」
「私はこのままでも構わないぞ。なにせ私は、いろいろと言葉が足りないようだから」
 蓮は小さく笑って千夜の額に口付けると、その体を解放しながらため息をついた。
「だが惜しい。夜に会っていた時にイザナが千夜だと気付けば、ここまでこじれることはなかったのに」
「そうですね。私も黄泉路へ一緒に行ったことを思い出せば……」
 そこで千夜ははたと気付く。そう言えば一人――いや一羽、千夜と蓮が二人で黄泉路を彷徨ったことを知っている相手がいる。
「ミサキ、ちょっと出てきなさい!」
「なんだよ。せっかく席を外してあげてたのにさ」
 ばさばさと羽音が聞こえ、縁側の障子を開けてミサキが入ってくる。千夜は彼をじっとり睨みながら問い掛けた。
「あなた、知ってたはずよね。私たちが黄泉路で彷徨ったこと。どうしてヤト隊長が――蓮様だって教えてくれなかったの?」
「はぁ? あー……」
 ミサキは千夜と蓮を見比べたのち、悪気もなさげにこてんと首を横にたおす。
「だって覚えてなかったし?」
「本当に? 神の使いでしょう?」
「神の使いだって覚えられないこともある。人間なんてすぐ顔が変わるし、第一、千夜を助けたときについてきた付属品の話なんて知らないよ」
「ふ、付属品……」
 呆然とする蓮を無視して、ミサキは言葉を続ける。
「僕らにとって大事だったのは、黄泉路を感知できる標人。そして千夜は幼くして黄泉路に迷い込みながら、最後まで諦めず生きる道を探していた。その強さから、僕らは千夜を協力者に選んだんだ。初めから千夜しか見ていなかったのに、それ以外の人間について聞かれてもね」
 そういえば常世の神もミサキも、自分の目的以外に興味を持たない性格だった。頭を抱える千夜の横で、蓮は苦笑いをする。
「私は君に、つくづく助けられてばかりだな」
「あなたはもっと怒っていいと思いますよ……」
 言い合う二人を見比べて、「でも」とミサキはため息交じりに続ける。
「……今思えば、二人助けていてよかったのかもね。『蓮』のせいで千夜は悲しんだけど、『ヤト』のお陰で助かってた部分もあったみたいだから」
「ちょ、ミサキ。なに言いだして――」
 ミサキの口を封じようと、千夜は彼を捕まえようとする。だがミサキは千夜の手をすり抜けて、ばさばさと部屋にあった背の高い箪笥の上に飛び乗った。
「君が言えないだろうから言ってるの。千夜はずっとヤトに惹かれてた。ヤトを助けるために声を消す方法まで聞いてきてさ。千夜がそこまでしようとした人、初めてだったんだから」
 すべてを話されてしまい、千夜は頬を熱くしながら俯いた。隣から、蓮の視線を感じる。けれどどうしても、彼の顔を見ることができない。
「大事なことを隠して、知らないうちに助け合って。互いに惹かれて。お似合いだよ、君たち」
 とどめの一言をさされ、千夜は真っ赤になりながらミサキを睨む。
「ミサキ……降りてきなさい」
「やだね。怒られたくないし」
「怒られることをするからでしょう!」
 羞恥と怒りのあまり叫ぶ千夜の横で、蓮がくすくすと笑い始める。
「蓮様! 笑わないでください!」
「いや、すまない。君たちのやりとりがおもしろくて」
 蓮はもう一度笑った後、甘い視線を千夜に向けてくる。
「それより、呼び方。蓮と……そう呼んでくれないか」
「あ……」
 千夜の怒りがすっと収まる。代わりに胸が、とくとくと小さな音を立て始めた。
 蓮の手が、千夜の頬に伸びてくる。
「ほら。れ・ん」
「れ、蓮……さん」
「はは。まあ、今はそれでいいだろう」
 蓮は千夜に顔を寄せ、黒曜の瞳で見つめてくる。頭の中に、声が響いた。
『繋がりができた今、考えるだけで思いを伝えられる。だからたくさん教えてくれ。望んでいること全てを。そうすれば私は君が望むがまま……望む以上の愛を注ぐから』
 頷くと、蓮は小さく微笑んだ。
「愛している、千夜」
 そっと口付けが降りてくる。合わせた唇の温もりが、ゆっくり心をほぐしていった。
「子を嫁にやる親って、こんな気持ちか」
 箪笥の上で、ミサキが呆れたようにため息をついた。