翌日。庭で遊ぶ小鳥たちの声で、千夜は目を覚ました。布団から起き上がって外を眺めると、太陽は既に空の真上にさしかかるところだった。どうやら昼間まで眠ってしまったらしい。
布団を片付けながら、昨晩のことを思い出す。あのあとヤトは、隊員たちに軍の詰所へ運ばれていった。それなりに大きな怪我ではあったものの、彼の体力なら少し休めば動けるようになるだろう。きっと今頃はようやく妻の元に戻り、事情を話して結ばれているかもしれない。喜ばしいことだとは思いつつ、胸の奥にぽっかりと穴が空いてしまったような心地になる。思ったよりヤトの存在は、千夜の中で大きくなってしまっていたらしい。
「おはよう、起きたんだ」
外に行っていたらしいミサキが、縁側に降り立った。黄泉路の中を思わせる黒い姿に、昨夜のヤトの話を思い出す。
そう言えば彼は、常世の神の使いだ。常世のことは人間よりも詳しいはず。
「ねえ。昨日ヤト隊長が言っていた声だけれど。どうにかする方法はないの?」
「どうしたの、いきなり」
突然の千夜の問いに、ミサキは首をひねった。
「別に……ただ方法があるなら、助けてあげたいと思っただけ」
「ふーん? まああることはあるよ。君と関係を結ぶことさ」
思わぬ答えに、千夜は眉間にしわを寄せた。
「関係って……契るってこと?」
「そうそう。ほんとは君もね、昔は黄泉返りの影響で、死鬼の声を聞いていたはずなのさ。でも狂っちゃったら困るから、常世の神様が加護を与えて、君の生存に不利な常世の影響を消したんだよ」
「そ、そうだったの……?」
目を丸くする千夜にミサキは頷き、説明してくれる。曰く常世の神の加護は、基本的に千夜にしか働かない。だが標人と狩人の関係を利用すれば、千夜と契った狩人にも、その加護を与えることができるようになるそうだ。
「そんなの無理よ。他の方法は? 常世の神様に頼めばやってくれたりしない?」
ヤトも自分も既婚者だ。間違っても契るなどできるはずがない。だがミサキは間髪入れずに首を横に振る。
「無理無理。僕らが加護を与えるのは、僕らの役に立ってくれる人間だけだ。今のところ千夜以外は、どうなろうと別に構わないよ」
神というのは理不尽なものだ。ならばもう、自分にできることは残っていないではないか。千夜は唇を引き締め俯いた。力になれず残念だ、なんて思ってはいけない。自分とヤトは、他人同士なのだがら。分かっているのに、心は勝手に悲しみに沈んでいく。
部屋の中にしんと沈黙が流れていく。だがそれを裂くように、忙しない足音が聞こえてきた。
「失礼します、奥様!」
やってきたのはハルだった。彼女は荒い息をつき、慌て気味に頭を下げる。
「慌ただしくて申し訳ありません。ですがこれが急な話でして……実は旦那様が、帰っていらっしゃることになったのです」
「旦那って、私の夫の宵宮蓮のこと?」
「ええ、その通りです。もうすぐ到着されるらしく、お迎えのご準備をしていただきたくて」
ハルは脇に置いた平たい箱の蓋を開ける。中には宵闇のように美しい、藍色の着物が入っていた。
「さあ、急いで。私がお手伝いしますから」
されるがままになりながら、千夜は着物に着替えていく。頭の中は、疑問符で埋め尽くされていた。
――今更、なんの用なのだろうか。
既に結婚してから四ヶ月近くが過ぎている。これだけ放置をしておいて、今更帰ってくる意味が千夜にはわからなかった。
――もしや、離婚だろうか。
そう考えればつじつまは合う。きっと蓮は彼女に乗り換えることを決めたのだ。そして別れる前、気まぐれに千夜の顔でもみてやろうと思ったのだろう。
――まあ、全部どうでもいいけど。
ヤトの相談を聞く中で、自分が置かれている状況が想像以上に救いがないものだとは理解している。この家から追い出されようと、もはや構わない。
ただし住む場所は持たないから、最低限の衣食住を保証してもらおう。ついでに当面の生活費もほしい。それくらいなら、慰謝料としてもらっても構わないはずだ。
そんなことを思っていると、いつの間にか着替えは終わっていた。ハルに促され、千夜は応接間へと連れてこられる。
広間には既に使用人たちが十数人、ずらりと並んで正座していた。みな急な主人の帰還に焦燥や困惑を浮かべている。その中には綾野の姿もあった。彼女にとっても思いがけない出来事らしく、ちらちらと不安げに目を左右させている。
千夜はハルに促され、入り口のとなる襖の前に正座する。そして目を閉じ、静かにその時を待った。
やがて部屋の外から足音が聞こえた。
――帰ってきた。
気配を感じて千夜は頭を下げると、襖の開く音がする。
「お帰りなさいませ、旦那様」
「……ああ。長い間、留守にしてすまなかった」
この家の主人であり、千夜の夫である宵宮蓮。その存在を初めてすぐ側に感じた。
思ったよりも温かく、優しい声色。彼が本当に、自分を放置していたろくでなしの夫なのだろうか。想像とは真逆の印象に、千夜は戸惑いながらも言葉を続ける。
「離縁でしたらお受けします。三ヶ月ほどの衣食住が保証される場所を用意して……」
「り、離縁? そんなものするはずがないだろう!」
千夜の言葉に、蓮は慌てた様子で返答する。
その反応に、ふと違和感を覚えた。話し方、声色、離縁と聞いた時の慌てよう。そのすべてを、千夜はなぜか知っているような気がした。
それは向こうも、同じだったらしい。
「ところで君の声……どこかで聞いたことがある気がするのだが……」
やはり気のせいではなかったのだ。千夜の心臓がどくどくと脈打っている。期待と恐れが入り交じったような感情が、胸の中に渦巻いていた。
「顔を……上げてくれないか」
ゆっくりと顔をあげる。正面にいる自分の夫を――千夜は初めて瞳に映した。
そして、息が止まった。
「……ヤト、隊長……?」
目の前にいたのは、軍服をまとい、軍刀を下げた、黒曜の瞳が美しい黒髪の青年――千夜がイザナとして毎夜出会っていたヤト、その人だった。
「やはりその声……イザナ殿、か……?」
千夜の偽名を知っている。ならばやはり、この男はヤトなのだ。
瞬間、一気に疑問が千夜の中から溢れ出た。
「ど、どうしてここに……私の夫は、宵宮蓮だったはずですが」
「それは私の本名だ。君こそどうして……私は百瀬千夜と結婚したのだが」
「私がその、百瀬千夜なのです」
二人の間に沈黙が落ちる。事情を知らない使用人たちは何事かとざわつき始めた。
「な、ならヤト様の妻は……私だったと……?」
確かに共通点はある。千夜は夫に放置され、ヤトは妻を放置していた。彼の妻は標人と聞いていたし、知識を理由に黄泉返りの女である千夜を恐れなかったのも、この屋敷の書斎に多く集められた黄泉返りに関する本で学んでいたからかもしれない。
だがつじつまが合わないことが二つある。
「私はヤト隊長――蓮様を、助けた記憶などありません」
彼の妻は、幼い頃に彼を救ったと言っていた。だが千夜に、その記憶はない。
「覚えていないのか。黄泉路に迷った時、手を引いてくれただろう」
しばし考えて、黄泉路の暗がりを一緒に走った誰かの存在を思い出す。
「……まさか、あれが蓮様?」
あの時は生きるのに必死で、助けたという自覚もなかった。だが蓮からすれば、あの時の千夜の行動は、そう捉えていてもおかしくはない。
だが千夜は、混乱しつつもやはり首を横に振る。
「で、ですがあり得ませんよ」
「なぜだ。ここへ帰ってきたのが、君の夫である何よりの証拠だろう」
「だって私は、手紙など一度も受け取っていませんから」
千夜が告げた途端、今までざわついていた使用人が、一瞬にして静まりかえる。蓮は困惑したように眉をひそめた。
「私は週に一度出していた。使いを出して、確かにこの家に届けさせるよう頼んだが」
「いいえ、私にはなにも届いていません」
「そんなはずは……以前は贈り物も贈ったぞ。舶来品の、宝石のついた首飾りを」
「宝石の……首飾り?」
千夜ははっとして、部屋の前で黙っている綾野に目を向ける。彼女が以前付けていた首飾り。それは今聞いた贈り物の特徴に似通っていた。
使用人たちの方に目を向ける千夜に、蓮は周りを睨んで低い声を上げる。
「……どういうことだ。手紙も贈り物も届いていないなど……しかも千夜がイザナ殿なのであれば、彼女は家の者からあり得ない扱いを受けていたはず。私はお前たちに、妻には不自由のない生活をさせろと命じたはずだが?」
主人の怒りに使用人たちは縮み上がり、がたがたと体を震わせ始めた。
「答えろ。これは一体、どういうことなのだ!」
「お、恐れながら旦那様!」
震えながら声をあげたのは、ハルだった。彼女は額を床に付けながら、声を上げる。
「すべては、綾野さんの仕業なのです。綾野さんが奥様宛の手紙と贈り物を奪い、奥様を孤立させていました」
「なっ……突然なにを言い出すのよ!」
綾野が慌てた様子で制止しようとするも、ハルの口は止まらない。
「私、見たのです。綾野さんが旦那様からの手紙と贈り物をこっそり自分のものにしていたところを。でも話すとここで働けなくすると脅され殴られて、従わざるを得なかったのです。奥様への扱いも、綾野さんの指示で……私たち全員、逆らえなかったのです」
――そういうことか。
ハルの告白に、千夜は妙に納得した。思えば黄泉返りを恐れられ始めたのも、手紙で夫不貞の噂を立てていたのも、全ては彼女が起点だった。彼女が裏で暗躍していたなら全て理解ができる。
「綾野……話を聞かせてもらおうか」
「……っ!」
蓮に睨まれ分が悪いと思ったのか、咄嗟に綾野は逃げ出した。蓮は捕まえようと駆け出すも、すぐに脇腹を抑えて膝を突く。
「……逃がしはしないわ」
千夜は全ての力を込めて、床を蹴った。常人離れした千夜の脚力が、一瞬にして綾野との距離を縮める。逃げる綾野の前に足を差し出し、その両足を掬った。
「ぎゃあっ!?」
潰れたかえるのような声を上げ、綾野が地面に倒れ込む。すかさず千夜は彼女の両腕を掴んで床に縫い止め、その体を取り押さえた。
「こんな動きができるなんて。やっぱり化け物じゃない」
「答えなさい。どうしてこんなことをしたのよ」
「はっ、そんなの決まってるじゃない。ほしかったからよ、あんたの立場が」
綾野はあざけるように吐き捨てた。
「私は名家の令嬢。ずっと欲しいものを手に入れてきた。なのに家は没落して、他人のために働けだなんて冗談じゃないわ。しかも相手は女の黄泉返りなんて我慢ならないもの。だから全部奪ってやることにしたのよ」
彼女は心底嬉しそうに口を歪めた。
「結婚初日に旦那様いなかった時点で、あの人はあんたと契る気がないのはわかってたわ。案の定帰ってこなかったから、まずは手紙を奪うことにした。あれを自分のものにすれば、私が愛されていると誤解させられる。使用人たちは私の言うことを聞くようになるわ。旦那様の使いもお金を握らせてあげれば言うことを聞いて、あっというまに屋敷の頂点。とってもいい気分だった! このまま妻の座も奪ってやるはずだったのに……予定が狂ったじゃない」
憎々しげに睨んでくる綾野を、千夜はため息をつきながら言葉を返す。
「馬鹿ね。没落したあなたの家じゃ、宵宮に釣り合わない。そんなの、少し考えればわかるでしょう」
「いいえ、お父様が起こした新しい事業が成功して、あと少しで家を建て直せることになっていたもの。正真正銘、令嬢に戻れることになっていたのよ」
綾野は得意げに口角を上げた。なるほど、彼女の自信はそこから来ていたのか。使用人たちが彼女の脅しに屈していたのも、家の話を武器にしていたのかもしれない。
「あなたが出て行ってくれれば、すべてはうまくいったのよ。まあでも……よく考えれば、自主的に出て行かなくても、旦那様に追い出してもらえばいい話よね? さすがの旦那様も、化け物を嫁にはしたくないでしょうから」
綾野はにっと不気味な笑みを浮かべた後、突然悲痛な叫び声を上げた。
「旦那様、聞いてください! 私はあなたを助けようとしただけなのです!」
振り向くと、いつのまにか蓮が背後に立っていた。彼は綾野に訝しげな目を向ける。
「……私のため、だと?」
「ええ、この女は黄泉返りの化け物です。他の方々も、この女に脅されていて……私はただ、旦那様を化け物から守るために行動したまでです。だから旦那様、この化け物女を今すぐ追い出してください」
綾野は涙を流しながら、必死に蓮へ訴えかける。
しかし蓮は、ただ一言言い放っただけだった。
「言いたいことはそれだけか」
「……え?」
綾野の顔のすぐ横に、鞘に入ったままの軍刀が、だん! と勢いよく突きつけられる。蓮は綾野を凍り付くような目で見下ろしていた。
「千夜が黄泉返りの女であることは、知っている。だからこそ私は、彼女を選んだのだ。彼女を貶めたこと……牢獄で一生後悔させてやろう」
常世の底から響くような蓮の声色に、綾野の顔が引きつった。
布団を片付けながら、昨晩のことを思い出す。あのあとヤトは、隊員たちに軍の詰所へ運ばれていった。それなりに大きな怪我ではあったものの、彼の体力なら少し休めば動けるようになるだろう。きっと今頃はようやく妻の元に戻り、事情を話して結ばれているかもしれない。喜ばしいことだとは思いつつ、胸の奥にぽっかりと穴が空いてしまったような心地になる。思ったよりヤトの存在は、千夜の中で大きくなってしまっていたらしい。
「おはよう、起きたんだ」
外に行っていたらしいミサキが、縁側に降り立った。黄泉路の中を思わせる黒い姿に、昨夜のヤトの話を思い出す。
そう言えば彼は、常世の神の使いだ。常世のことは人間よりも詳しいはず。
「ねえ。昨日ヤト隊長が言っていた声だけれど。どうにかする方法はないの?」
「どうしたの、いきなり」
突然の千夜の問いに、ミサキは首をひねった。
「別に……ただ方法があるなら、助けてあげたいと思っただけ」
「ふーん? まああることはあるよ。君と関係を結ぶことさ」
思わぬ答えに、千夜は眉間にしわを寄せた。
「関係って……契るってこと?」
「そうそう。ほんとは君もね、昔は黄泉返りの影響で、死鬼の声を聞いていたはずなのさ。でも狂っちゃったら困るから、常世の神様が加護を与えて、君の生存に不利な常世の影響を消したんだよ」
「そ、そうだったの……?」
目を丸くする千夜にミサキは頷き、説明してくれる。曰く常世の神の加護は、基本的に千夜にしか働かない。だが標人と狩人の関係を利用すれば、千夜と契った狩人にも、その加護を与えることができるようになるそうだ。
「そんなの無理よ。他の方法は? 常世の神様に頼めばやってくれたりしない?」
ヤトも自分も既婚者だ。間違っても契るなどできるはずがない。だがミサキは間髪入れずに首を横に振る。
「無理無理。僕らが加護を与えるのは、僕らの役に立ってくれる人間だけだ。今のところ千夜以外は、どうなろうと別に構わないよ」
神というのは理不尽なものだ。ならばもう、自分にできることは残っていないではないか。千夜は唇を引き締め俯いた。力になれず残念だ、なんて思ってはいけない。自分とヤトは、他人同士なのだがら。分かっているのに、心は勝手に悲しみに沈んでいく。
部屋の中にしんと沈黙が流れていく。だがそれを裂くように、忙しない足音が聞こえてきた。
「失礼します、奥様!」
やってきたのはハルだった。彼女は荒い息をつき、慌て気味に頭を下げる。
「慌ただしくて申し訳ありません。ですがこれが急な話でして……実は旦那様が、帰っていらっしゃることになったのです」
「旦那って、私の夫の宵宮蓮のこと?」
「ええ、その通りです。もうすぐ到着されるらしく、お迎えのご準備をしていただきたくて」
ハルは脇に置いた平たい箱の蓋を開ける。中には宵闇のように美しい、藍色の着物が入っていた。
「さあ、急いで。私がお手伝いしますから」
されるがままになりながら、千夜は着物に着替えていく。頭の中は、疑問符で埋め尽くされていた。
――今更、なんの用なのだろうか。
既に結婚してから四ヶ月近くが過ぎている。これだけ放置をしておいて、今更帰ってくる意味が千夜にはわからなかった。
――もしや、離婚だろうか。
そう考えればつじつまは合う。きっと蓮は彼女に乗り換えることを決めたのだ。そして別れる前、気まぐれに千夜の顔でもみてやろうと思ったのだろう。
――まあ、全部どうでもいいけど。
ヤトの相談を聞く中で、自分が置かれている状況が想像以上に救いがないものだとは理解している。この家から追い出されようと、もはや構わない。
ただし住む場所は持たないから、最低限の衣食住を保証してもらおう。ついでに当面の生活費もほしい。それくらいなら、慰謝料としてもらっても構わないはずだ。
そんなことを思っていると、いつの間にか着替えは終わっていた。ハルに促され、千夜は応接間へと連れてこられる。
広間には既に使用人たちが十数人、ずらりと並んで正座していた。みな急な主人の帰還に焦燥や困惑を浮かべている。その中には綾野の姿もあった。彼女にとっても思いがけない出来事らしく、ちらちらと不安げに目を左右させている。
千夜はハルに促され、入り口のとなる襖の前に正座する。そして目を閉じ、静かにその時を待った。
やがて部屋の外から足音が聞こえた。
――帰ってきた。
気配を感じて千夜は頭を下げると、襖の開く音がする。
「お帰りなさいませ、旦那様」
「……ああ。長い間、留守にしてすまなかった」
この家の主人であり、千夜の夫である宵宮蓮。その存在を初めてすぐ側に感じた。
思ったよりも温かく、優しい声色。彼が本当に、自分を放置していたろくでなしの夫なのだろうか。想像とは真逆の印象に、千夜は戸惑いながらも言葉を続ける。
「離縁でしたらお受けします。三ヶ月ほどの衣食住が保証される場所を用意して……」
「り、離縁? そんなものするはずがないだろう!」
千夜の言葉に、蓮は慌てた様子で返答する。
その反応に、ふと違和感を覚えた。話し方、声色、離縁と聞いた時の慌てよう。そのすべてを、千夜はなぜか知っているような気がした。
それは向こうも、同じだったらしい。
「ところで君の声……どこかで聞いたことがある気がするのだが……」
やはり気のせいではなかったのだ。千夜の心臓がどくどくと脈打っている。期待と恐れが入り交じったような感情が、胸の中に渦巻いていた。
「顔を……上げてくれないか」
ゆっくりと顔をあげる。正面にいる自分の夫を――千夜は初めて瞳に映した。
そして、息が止まった。
「……ヤト、隊長……?」
目の前にいたのは、軍服をまとい、軍刀を下げた、黒曜の瞳が美しい黒髪の青年――千夜がイザナとして毎夜出会っていたヤト、その人だった。
「やはりその声……イザナ殿、か……?」
千夜の偽名を知っている。ならばやはり、この男はヤトなのだ。
瞬間、一気に疑問が千夜の中から溢れ出た。
「ど、どうしてここに……私の夫は、宵宮蓮だったはずですが」
「それは私の本名だ。君こそどうして……私は百瀬千夜と結婚したのだが」
「私がその、百瀬千夜なのです」
二人の間に沈黙が落ちる。事情を知らない使用人たちは何事かとざわつき始めた。
「な、ならヤト様の妻は……私だったと……?」
確かに共通点はある。千夜は夫に放置され、ヤトは妻を放置していた。彼の妻は標人と聞いていたし、知識を理由に黄泉返りの女である千夜を恐れなかったのも、この屋敷の書斎に多く集められた黄泉返りに関する本で学んでいたからかもしれない。
だがつじつまが合わないことが二つある。
「私はヤト隊長――蓮様を、助けた記憶などありません」
彼の妻は、幼い頃に彼を救ったと言っていた。だが千夜に、その記憶はない。
「覚えていないのか。黄泉路に迷った時、手を引いてくれただろう」
しばし考えて、黄泉路の暗がりを一緒に走った誰かの存在を思い出す。
「……まさか、あれが蓮様?」
あの時は生きるのに必死で、助けたという自覚もなかった。だが蓮からすれば、あの時の千夜の行動は、そう捉えていてもおかしくはない。
だが千夜は、混乱しつつもやはり首を横に振る。
「で、ですがあり得ませんよ」
「なぜだ。ここへ帰ってきたのが、君の夫である何よりの証拠だろう」
「だって私は、手紙など一度も受け取っていませんから」
千夜が告げた途端、今までざわついていた使用人が、一瞬にして静まりかえる。蓮は困惑したように眉をひそめた。
「私は週に一度出していた。使いを出して、確かにこの家に届けさせるよう頼んだが」
「いいえ、私にはなにも届いていません」
「そんなはずは……以前は贈り物も贈ったぞ。舶来品の、宝石のついた首飾りを」
「宝石の……首飾り?」
千夜ははっとして、部屋の前で黙っている綾野に目を向ける。彼女が以前付けていた首飾り。それは今聞いた贈り物の特徴に似通っていた。
使用人たちの方に目を向ける千夜に、蓮は周りを睨んで低い声を上げる。
「……どういうことだ。手紙も贈り物も届いていないなど……しかも千夜がイザナ殿なのであれば、彼女は家の者からあり得ない扱いを受けていたはず。私はお前たちに、妻には不自由のない生活をさせろと命じたはずだが?」
主人の怒りに使用人たちは縮み上がり、がたがたと体を震わせ始めた。
「答えろ。これは一体、どういうことなのだ!」
「お、恐れながら旦那様!」
震えながら声をあげたのは、ハルだった。彼女は額を床に付けながら、声を上げる。
「すべては、綾野さんの仕業なのです。綾野さんが奥様宛の手紙と贈り物を奪い、奥様を孤立させていました」
「なっ……突然なにを言い出すのよ!」
綾野が慌てた様子で制止しようとするも、ハルの口は止まらない。
「私、見たのです。綾野さんが旦那様からの手紙と贈り物をこっそり自分のものにしていたところを。でも話すとここで働けなくすると脅され殴られて、従わざるを得なかったのです。奥様への扱いも、綾野さんの指示で……私たち全員、逆らえなかったのです」
――そういうことか。
ハルの告白に、千夜は妙に納得した。思えば黄泉返りを恐れられ始めたのも、手紙で夫不貞の噂を立てていたのも、全ては彼女が起点だった。彼女が裏で暗躍していたなら全て理解ができる。
「綾野……話を聞かせてもらおうか」
「……っ!」
蓮に睨まれ分が悪いと思ったのか、咄嗟に綾野は逃げ出した。蓮は捕まえようと駆け出すも、すぐに脇腹を抑えて膝を突く。
「……逃がしはしないわ」
千夜は全ての力を込めて、床を蹴った。常人離れした千夜の脚力が、一瞬にして綾野との距離を縮める。逃げる綾野の前に足を差し出し、その両足を掬った。
「ぎゃあっ!?」
潰れたかえるのような声を上げ、綾野が地面に倒れ込む。すかさず千夜は彼女の両腕を掴んで床に縫い止め、その体を取り押さえた。
「こんな動きができるなんて。やっぱり化け物じゃない」
「答えなさい。どうしてこんなことをしたのよ」
「はっ、そんなの決まってるじゃない。ほしかったからよ、あんたの立場が」
綾野はあざけるように吐き捨てた。
「私は名家の令嬢。ずっと欲しいものを手に入れてきた。なのに家は没落して、他人のために働けだなんて冗談じゃないわ。しかも相手は女の黄泉返りなんて我慢ならないもの。だから全部奪ってやることにしたのよ」
彼女は心底嬉しそうに口を歪めた。
「結婚初日に旦那様いなかった時点で、あの人はあんたと契る気がないのはわかってたわ。案の定帰ってこなかったから、まずは手紙を奪うことにした。あれを自分のものにすれば、私が愛されていると誤解させられる。使用人たちは私の言うことを聞くようになるわ。旦那様の使いもお金を握らせてあげれば言うことを聞いて、あっというまに屋敷の頂点。とってもいい気分だった! このまま妻の座も奪ってやるはずだったのに……予定が狂ったじゃない」
憎々しげに睨んでくる綾野を、千夜はため息をつきながら言葉を返す。
「馬鹿ね。没落したあなたの家じゃ、宵宮に釣り合わない。そんなの、少し考えればわかるでしょう」
「いいえ、お父様が起こした新しい事業が成功して、あと少しで家を建て直せることになっていたもの。正真正銘、令嬢に戻れることになっていたのよ」
綾野は得意げに口角を上げた。なるほど、彼女の自信はそこから来ていたのか。使用人たちが彼女の脅しに屈していたのも、家の話を武器にしていたのかもしれない。
「あなたが出て行ってくれれば、すべてはうまくいったのよ。まあでも……よく考えれば、自主的に出て行かなくても、旦那様に追い出してもらえばいい話よね? さすがの旦那様も、化け物を嫁にはしたくないでしょうから」
綾野はにっと不気味な笑みを浮かべた後、突然悲痛な叫び声を上げた。
「旦那様、聞いてください! 私はあなたを助けようとしただけなのです!」
振り向くと、いつのまにか蓮が背後に立っていた。彼は綾野に訝しげな目を向ける。
「……私のため、だと?」
「ええ、この女は黄泉返りの化け物です。他の方々も、この女に脅されていて……私はただ、旦那様を化け物から守るために行動したまでです。だから旦那様、この化け物女を今すぐ追い出してください」
綾野は涙を流しながら、必死に蓮へ訴えかける。
しかし蓮は、ただ一言言い放っただけだった。
「言いたいことはそれだけか」
「……え?」
綾野の顔のすぐ横に、鞘に入ったままの軍刀が、だん! と勢いよく突きつけられる。蓮は綾野を凍り付くような目で見下ろしていた。
「千夜が黄泉返りの女であることは、知っている。だからこそ私は、彼女を選んだのだ。彼女を貶めたこと……牢獄で一生後悔させてやろう」
常世の底から響くような蓮の声色に、綾野の顔が引きつった。



