放置されたバケモノ妻は、夫の一途な溺愛に気づかない

 それからも、ヤトの相談は続いた。相談に乗るごとに、ヤトの妻への大きな愛情を目の当たりにし、千夜の中に夫から愛されていないことの虚しさが広がっていく。自分の首を絞めていることはわかっていたが、一度引き受けた約束を反故にすることはできなかった。
 その夜は、ヤトが妻から見捨てられないよう、できることはないか相談したいと頼まれていた。いつものように千夜は黄泉路を閉じて回っている最中で、ヤトが率いる部隊が死鬼討伐をしているところに出くわした。
「相変わらず、すごい戦いね」
 軍人たちは狩人として、襲い来る死鬼を次々と軍刀で叩き切っては砂に変えていく。特にヤトの勢いはすさまじく、鬼神とも呼べるような戦い振りだった。黄泉返りの男は死鬼を打ち倒す力が強くなると言われているが、戦う彼の姿を見れば、そう言われるのも納得してしまう。
 感心しながらヤトの戦いを見ていたとき、何故か急にヤトの動きが静止した。顔を蒼白させて頭を抑え、剣を持つ手はだらりと下がっている。見開いたその目は、死鬼を捉えてはいなかった。戦いの場で隙だらけの人間を――死鬼たちが見逃すはずがない。
「危ない――!」
 千夜が叫んだ時にはもう遅く、死鬼はヤトの脇腹を、鋭い爪で切り裂いていた。地に倒れた彼を、その死鬼が近くに開いていた黄泉路へと引き込んでいく。
 周りの部下たちが「隊長!」と声を上げる。だが彼らも眼前の死鬼の対処に手一杯だった。その間にもヤトの体は、ずぶずぶと闇の中に沈んでいく。
「ミサキ、手伝って!」
「了解!」
 千夜は糸を取り出し、ヤトの元へ駆けだした。
 ヤトの姿は既に黄泉路へ沈んでしまっている。けれど助ける方法はまだ残されていた。千夜は糸巻きから糸を引き出して先端を握ると、糸巻きをミサキに放り投げる。
「ミサキ、こっちを頼むわよ」
「急いでよ。あまり中にいると危険だ」
 千夜は頷くと、青白く光る糸を握って、黄泉路の中に迷いなく飛び込んだ。
「ヤト隊長!」
 どこまでも続く闇の中を、千夜は彼を探して駆けていく。中に入って戻れば黄泉返りになるが、既にそう呼ばれている自分には今更だ。なにも気にすることはない。ただただ、ヤトが無事でいてくれるようにと祈り続ける。
 やがて暗闇の先に、ゆらりと佇む影が見えた。軍服を着て、軍刀を手に持つその影は、近づくとヤトだとわかる。足元には砂が山のように積もっていた。おそらくここまで来て、なんとか死鬼を倒したのだろう。
「見つけました、ヤト隊長!」
「イザナ、殿……」
「ええ、イザナです。帰りましょう、現世へ」
 千夜は微笑み、空いた右手を伸ばす。ヤトは夢でも見ているかのように、焦点の定まらない瞳で千夜を見つめ、やがてゆっくり手を伸ばしてきた。
 土で汚れ、血にまみれた手。それを千夜は、しっかり掴んだ。そしていつかの昔、黄泉路に迷い込んだ時のように、糸の導きに従ってヤトと共に現世へと走る。
 先に見つけた光の中へ、千夜は思い切り飛び込んだ。帝都の夜の空気が肌に触れる。
「戻って、来れた……!」
 既に死鬼はヤトの部下たちによって倒されており、辺りは静けさが戻っていた。生きて戻れた安心感が、どっと心の中に溢れ出す。
だがそのとき、どさりと後ろで重い音がした。振り返るとヤトが地面に倒れていた。
「ヤト隊長!」
 その脇腹からは、真っ赤な血が流れている。千夜は急いで出てきた黄泉路を閉じ、ヤトの元へ駆け寄った。
「ヤト隊長。私がわかりますか!?」
 呼びかけると、ヤトが薄く目を開く。どうやら意識はあるようで、千夜はひとまず安堵した。だがすぐに治療が必要な状況であることに変わりない。
「早く、手当の道具を!」
 千夜は傷口を押さえながら、後方にいるヤトの部下たちに叫ぶ。だが彼らは千夜を凝視したまま固まっていた。
「よ、黄泉返りの女……」
 目の前で黄泉返りを――しかも女のものを見て、衝撃を受けているのだろう。その気持ちはわからなくもないが、今は人命が最優先だ。
「しっかりしなさい! あなたたちの隊長が死んでもいいのですか!?」
 その叱咤にはっと正気を取り戻した彼らは、慌てて包帯を千夜の元に運んで来た。
 千夜はヤトの上半身を脱がせ、脇腹の傷を圧迫する。出血はひどいが、幸い内臓までは届いていないようだ。千夜は水筒の水で怪我を洗い、包帯を巻いていく。
「迷惑をかけてすまない、イザナ殿……」
「どうしてあそこで止まったのですか。戦場で隙を見せるなど、自殺行為でしょう!」
「声が、うるさかったのだ」
 曰くヤトはかつての黄泉返りの影響で、夜になると頭の中に死鬼たちの声が響いてくるようになったという。とはいえ元々は時たまささやき声が聞こえる程度で生活に支障はなかったが、隊長となり、より多くの死鬼を消すようになった三ヶ月前から、強く症状が現れるようになったらしい。
 生をうらやむ死鬼のおぞましい声に、彼は狂いそうになりながらも毎夜耐えていたそうだ。だがこの夜は、頭が割れそうなほどの声が聞こえ、我慢しきれなかったらしい。
「そんなこと、どうしていままで黙っていたのですか」
「かつて同じ症状のあった黄泉返りの男は、精神を病んだ記録がある。故にもしも誰かに気付かれれば、私は跡継ぎを外されてしまうかもしれない……それだけは避けなければならなかった。あの人の夫であり続けるためにも」
 そこまで告げて、ヤトは辛そうに顔をゆがめる。
「だがこの声のせいで、私はあの人と契れなくなった。契れば感覚共有で、この声をあの人にまで聞かせてしまうことになる。訓練すれば制御できると言うが、それまであの人が耐えられるかどうか……」
「だから、奥様を拒絶していたのですか」
「……ああ」
 声を消す方法を探したが、一向に見つからなかったらしい。ゆえにやむを得ず家に帰るのを、やめざるをえなかったそうだ。
「私はあの人に……負担をかけたくないのだ」
 脇腹に包帯を巻きながら、千夜は唇を噛みしめる。妻を大事にしたいというヤトの気持ちは理解できる。だが彼は毎夜死鬼と戦う軍人なのだ。死と隣り合わせの戦いに身を置く彼は、いつ命を落としてもおかしくない。
「……それなら、会いに行って事情を話すべきです」
 千夜は俯きながら呟いた。包帯を巻く手に僅かに力がこもる。
「相手の心持ちもそうですが、今日のようなことが繰り返されてしまうかもしれない。今夜は私がいたから助かりましたが、次があればどうなるか」
「だが上官の命令で、帰れば契らなければならなくなる。そうすれば彼女は……」
「それでもです。あなたは愛している方が今、どんな顔をしているかも見ずに死んでもいいのですか」
 死体が残ればまだましだが、黄泉路に引き込まれれば存在ごとこの世から消えてしまう。もしも自分がヤトの妻なら、手紙や贈り物をくれた夫が、顔も見ないうちにいなくなり、死んだことにされてしまうなんて耐えられない。
「今まで相談を受けてきて、よくわかりました。あなたは私の夫とは違う。正しく愛を伝えられる人です。だから帰って、二人で話し合ってください。これが今できる、私の最大の助言です」
 ヤトは大きく目を見開いた。その瞳から、一筋の涙がこぼれ落ちる。やがてゆっくり頷いたヤトに、千夜はそっと微笑んだ。
 欠けた月が、二人を静かに照らしていた。