放置されたバケモノ妻は、夫の一途な溺愛に気づかない

 本数冊を腕に抱え、千夜は宵宮家の書斎を訪れた。部屋には三方の壁全面に、大きな本棚が置いてある。並べられた本は、ほとんどが常世や黄泉路、黄泉返りについての文献だった。この持ち主である宵宮蓮は、かなりの勉強家らしい。
「まあ、妻は放置しているけれどね」
 つぶやきながら、千夜は持って来た本を棚に返していく。夜と違って昼間は基本的になにもすることがなく、退屈極まりなかった。夜に備えて寝ていることもしばしばだが、そうでない時間はこうして本を借りて読んでいる。使用人たちは、千夜を無視するが、行動を制限することまではしなかった。
 一通り本を返し終えたとき、がらりと背後の襖が開いた。
「あ……奥様。こちらにいらっしゃったのですね」
 やってきたのは、髪を団子状にまとめた小柄な使用人の少女だった。確か名前はハルと言ったか。彼女はおずおずと千夜を見上げて、口を開いた。
「いつもの真綿が届いたので、お呼びしようと」
 真綿は千夜が、毎月頼んでいるものだ。この家に嫁入りをする際に、千夜の方から条件として用意するようとりつけている。この約束が守られないなら、千夜はとっくに家を出ていた。
「あら、ありがとう。取りに行くわ」
「ご案内、します」
 ハルは小さく頭を下げて踵を返した。その後を千夜はついて歩いて行く。玄関先に出ると、腕で抱えられる大きさの籠が置いてあり、その中に真綿が詰まっていた。これだけあれば、今月も安泰だろう。
 千夜が笑みを浮かべていると、ハルが隣で震える声で呟きながら、頭を下げた。
「あの、奥様……ごめんなさい」
「なにが?」
「私たち、いつもあなたを蔑ろにして」
 すっと心の内が冷たくなる。千夜の変化に気付かないまま、ハルは言葉を続けた。
「本当は、したくないんです。他にもそう思っている人はいる。でも……」
「それで言い訳をして、私が許すと思う?」
「……っ」
 ハルはびくりと体を震わせる。その顔には、深い恐れと後悔が浮かんでいる。きっと彼女の謝罪は本物だろう。黄泉返りの女に声をかけるだけでも恐ろしいだろうに、謝ろうとしてくれている。それだけは確かだ。
「……わかったならいいわ。その勇気だけは認めてあげる」
「奥様……」
 ハルは瞳をうるませ千夜を見つめる。そしてなにかを決意したように、口を開いた。
「あの、奥様。実は私、見てしまって――」
「あらハルさん。こんなところでなにを遊んでいるのかしら」
 庭先から別の声がした。振り向くと、綾野とその取り巻き二人が立っている。ハルの方へつかつかと歩み寄ってきた綾野の首には、見覚えのない透明な宝石のついた首飾りがついていた。
「あなたは蔵の掃除があったでしょう。さっさと行ってはどう?」
 綾野に命じられたハルは、顔を真っ青にして逃げるように去って行く。綾野たちは笑いながら、千夜に背を向けた。その存在に気付かないとでも言うように。
「それにしてもこの首飾り、ほんと素晴らしいわ。舶来品の珍しい品だそうよ。旦那様が私に贈ってくださったの。熱烈な愛の言葉が書かれた手紙を添えて」
 綾野は首飾りを弄びながら、わざとらしく大声を上げる。自分が蓮にどれだけ愛されているか、千夜に聞かせようとしているのだろう。いつもの彼女の手口で慣れきっているはずなのに、今日はとてつもなく虚しさを感じる。
 千夜は真綿の籠を手に抱えて自室に戻ると、ミサキが心配そうに声をかけてきた。
「また使用人どもになにかされたの?」
「ま、そんなところ」
 ハルはともかく、綾野が絡むとろくな思いをしない。それは恐らく彼女の性格に加えて、その背景が理由にあるのだろう。
 元々彼女は標人であり、それなりの名家の令嬢だったらしいが、その後実家が莫大な借金を抱えて没落したそうだ。そして彼女の父親が懇意にしていた宵宮家当主――蓮の父親によって、使用人として本邸へ受け入れられたらしい。そして蓮が千夜と結婚し、この別邸に移り住んだすぐ後に、彼女もここに使用人として移ってきたのだという。
 その経緯があるからか、彼女はどうも令嬢だったころの振る舞いが抜けていない。加えて千夜が黄泉返りであるために、彼女は自分が格上だと思い込んでいる節がある。千夜にとっては上下関係などもはやどうでもいいのだが、名家の令嬢として振る舞う人間に慣れていないせいか、綾野が絡んでくると精神的に疲れてしまうのだ。
「大丈夫。綿をもらったから、早く始めてしまいましょう」
 面倒事は楽しみで上書きするに限る。千夜は部屋の隅に置いていた綿繰り機と綿弓、糸車を引き寄せた。
 くるくる、くるくると、千夜は綿繰り機の持ち手を回していく。
 二本の棒の間に真綿の実を挟んで持ち手を回すと、ことりと種が落ちていく。すべてを種と綿により分けると、綿をまとめて綿弓ではじいていった。糸が当たる度に綿が解され柔らかくなっていく。やがて雲のようにふわふわとした柔らかい塊になったところで、千夜はミサキを振り返った。
「羽根、ちょうだい」
「はぁい、どうぞ」
 ミサキから彼の黒い羽根を受け取ると、千夜はそれで綿の塊をなでつける。四往復ほどすると、真っ白だった綿がぼうっと青白い光を帯びるようになった。これで準備は整った。
 ぼんやり光る綿を手に取り、千夜は糸車をカラカラ回して糸を紡いでいく。
 それは黄泉路を閉じるための糸。ミサキに宿った常世の神の力を綿に与え、常世の影響を受けた人間の千夜が紡ぐことで完成するものだ。糸を作れる者が限られていることも、黄泉路を閉じられる人間が他にいない理由の一つだった。
 この糸は黄泉路を閉じるだけでなく、常世から生者を引き戻す道しるべになる。かつて千夜が黄泉路を彷徨ったとき、ミサキが常世に僅かに残されていたこの糸を使って助けてくれたそうだ。ある意味この糸はミサキと同じく、千夜の命を救ってくれた恩人のようなものだった。
 ――そう言えばあの時、誰かが一緒にいた気がする。
 暗闇の中に響く泣き声と、あたたかな手の平の感触が蘇る。しかし十年以上前のことなどはっきり覚えているはずもなく、千夜は思い出すのを諦めた。
 綿がすべて糸に変わると、千夜は糸車から手を離して顔をあげた。ふと目にした文机の上には、乾パンの缶が置かれている。
 そう言えば、あれからヤトはどうしたのだろうか。あれだけ妻を愛している彼のことだ。きっと今頃手紙を書き直し、とっておきの贈り物と共に贈っているに違いない。妻に目もくれず、使用人に高価な首飾りを贈る自分の夫とは違って。
 ――ヤトの妻が、うらやましい。
 直後にはっとして、浮かんだ言葉をかき消した。一体なにを考えているのだろうか。愛など求めないと、決めたはずなのに。
「いいのよ。私には『夜』があるもの」
 そっと紡いだ糸を抱きしめる。そう、自分は求めてはならない。黄泉返りの女であるのに自由な時間を持ち、ヤトに力を認められただけでも僥倖なのだ。それ以上、なにを望むというのか。
 ――優しく誠実なあの軍人が、いずれ自分の悩みを打ち消して、妻と契りを交わして幸せになれるように。
 寂しさに蓋をしながら、千夜はヤトの幸せを願った。