放置されたバケモノ妻は、夫の一途な溺愛に気づかない

 満月の下、密やかな帝都の小道に、ぐううと情けない音が鳴る。
「……お腹が空いたわ」
 その日最後の黄泉路を閉じたばかりの千夜は、げんなりしながら腹をさすった。
 今日は食事の残りが手に入らず、朝からなにも食べていないのだ。千夜を無視する使用人たちも、なにかの拍子で蓮にばれてしまわないよう、千夜が食べるの量も考えて毎回の食事を作っていたようだが、今日は見積もりを間違えたらしい。
 黄泉路を閉じる仕事は体力を使う。動いていれば、それだけ腹が減るのもしかたがない。
 近くの家の屋根に留まっていたミサキが、千夜の横に羽ばたいてくる。
「僕がささっと近くの山まで飛んで、木の実でも探してこようか。どうせ今日も、あれが相談にくるんでしょ? しばらく帰れないなら、辛いと思うけど」
「まあ……そうでしょうね。ならお願いするわ」
 ミサキは「わかった」と飛び去っていった。
 入れ替わるように、軍服を着た人影が現れる。
「こんばんは、イザナ殿。探したよ」
「ヤト隊長。死鬼討伐はもうよろしいのですか」
「ああ、全て消滅させた。黄泉路は君がすべて閉じてくれたから、新たな死鬼もやってこない」
 ヤトはにこやかな笑みを浮かべた後、懐から紙を取り出した。
「今日は、手紙を見てもらえる約束だっただろう」
「……立ち話もなんですから。ひとまず、場所を移しましょう」
 千夜はため息をついて地面を蹴り、近くの家の屋根の上に飛び乗った。屋根瓦の上に腰掛けると、ヤトも続いて登ってくる。毎夜の死鬼討伐の賜物か、彼の身体能力は千夜と同じかそれ以上だった。
 彼は千夜の隣に腰を降ろし、千夜に紙を差し出してくる。
「明日妻に送ろうとしている内容なのだが……どうだろうか」
 丁寧に四つ折りにされたその紙を、千夜は複雑な思いで見つめる。
 一週間前にヤトから相談に乗ってほしいと頼まれて以来、千夜はこうして毎夜ヤトに妻と関係を保つための助言をしていた。今日は毎週送っているという手紙の内容に、問題がないかを見る約束をさせられている。曰く今まで彼は、一度も妻から返事をもらったことがないらしいのだ。
「まともな助言ができるか、わかりませんよ」
 千夜はため息まじりに紙を受け取ると、開いて中身を読んでみる。そして、絶句した。
 ――愛している。
 ――いつも君を想っている。
 ――会えない自分を許してほしい。
 ――そのときが来たら、君を思い切り愛したい。
 甘く熱烈な言葉の数々が、手紙の中に惜しみなく記されている。あまりの思いの大きさに、千夜はしばらく閉口してしまった。まさか毎度、このような手紙を送っているのだろうか。
「ど、どうだろうか。正直な気持ちを書いているつもりなのだが」
 ヤトは頬を掻きながら、千夜に問い掛けてくる。さすがに目の前で読まれると恥ずかしいのか、耳が僅かに赤かった。
 千夜は愛の言葉がちりばめられた手紙の内容をもう一度眺め、これまで聞いたヤトと妻の話を頭の中に思い浮かべる。
「ええと。確かあなたは、結婚してから奥様と会っていないのですよね」
「ああ、そうだな」
「結婚前に会われたことは?」
「……小さい頃……十年以上前に一度」
「そのことを、奥様は知って?」
「…………気づいて、いないかもしれない」
「なら駄目ですね」
「うっ」
 ヤトはしゅんとした顔で俯いた。
「何故だ……こんなにも愛を伝えているのに」
「あなたがいくら奥様のことを愛していても、奥様にとってのあなたは全く知らない人間だからです」
 もし自分が彼の妻の立場なら、知らない人間にどれだけ甘い言葉を囁かれても、愛される理由がわからなければ、どう受け取っていいかわからないと思う。加えて手紙の内容に反し、自分の元に帰ってこない日々が続けば、書かれた言葉も信じられないだろう。返事が来ないのも、それゆえかもしれない。
「そ、それはそうかもしれない。盲点だったな……」
 千夜の意見を聞いたヤトは、額を抑えながら真面目に落ち込んでいる。
 これまで相談を聞いてきて、ヤトの妻を想う気持ちは本物であることはよくわかった。だが彼は真面目で誠実なのに、変なところで言葉が足りなかったり、伝えるべきことを伝えていなかったりする。その不器用さが彼の妻との間に、誤解やすれ違いを起こしている予感がした。
「まあ、理解していただけただけ、マシでしょう。これから挽回できる余地はありますし」
「本当か! まだ会うことはできないが……それでも間に合うか!?」
「確実に、とは言えませんが。可能性はあるかと」
 ヤトは千夜の夫と違って、会えないなりに妻を気遣い、思いを伝えようとする意思がある。伝え方さえ直していけば、今よりかは、いい関係が築けるかもしれない。
「そもそもどうして、幼い頃に会ったきりの奥様を、そこまで愛しているのですか」
「あの人は……私を変えてくれたのだ」
 今の振る舞いからは考えられないが、幼い頃のヤトは泣いてばかりの臆病者だったという。狩人として生まれ、剣の訓練を受けていたものの、向かってくる相手が怖くてまともに打ち合いができず、師範にさえ呆れられていたそうだ。
「そんな中、私はよみ……いや、とある危険に巻き込まれてな。そのとき一緒にいたのが彼女だった」
 ヤトより幼いはずの彼女は、怯えて無理だと泣いていたヤトの手を引き、必死に生きる道を探していたのだという。そのお陰で、ヤトは生きて危険を脱したらしい。
「気づいた時には、彼女の姿は消えていた。助かった私は、自分の弱さに打ちひしがれたよ。自分より小さかった背中に寄り掛かって、なにもしなかったのだから。ゆえにそのとき誓ったのだ。弱さを捨てて強くなり……今度は彼女を、守れるようになりたいと」
「なら、その頃から奥様を?」
「ああ。狩人として胸を張れるようになったら、彼女を迎えに行こうと思っていた。とはいえ、名前も素性も知らないまま別れてしまったからな。僅かな情報から本人を見つけ出すのに、随分と苦労したよ」
 ヤトは夜の帝都を見つめて、優しげな笑みを浮かべている。きっと妻のことを思い出しているのだろう。会えないながらも幼い頃から妻だけを想い続けていたヤトの一途さと、そんな風に愛されている彼の妻を想うと、なんだか胸が苦しくなる。蓮は果たしてヤトのように、少しでも自分を思ってくれているだろうか。
 捨て去ったはずの感情が蘇りそうになり、千夜は振り払うように口を開いた。
「……なら、改めて昔の話を手紙に書いてください。そうすれば奥様も思い出してくれるかもしれませんから」
「わかった。やってみよう。だが突然伝えても、信じてもらえるだろうか。さっきの話だと、既に不審がられているかもしれないのだろう」
「もちろん、謝罪の言葉は必要ですよ。それでも不安なら……今までとは違うことをしてみるのはどうでしょう。例えば、手紙と一緒に贈り物をするとか」
 千夜の提案に、ヤトは首をひねっている。
「贈り物、か……難しいな。なにを贈ればいいのだろう」
「あなたが選んだものならなんでも。誠意が伝わればいいのですから。一生懸命選んだ品を添えて贈れば、奥様もいままでの手紙と違うとわかって、心を傾けてもらえるかも。時間はかかるかもしれませんが、根気よく続けてください」
「なるほど……」
 ヤトはしばし顎に手を当て難しい顔をしていたが、やがて頬を緩めて頷いた。
「そうだな。明日、街でなにか見繕ってみよう。感謝する。イザナ殿」
「いえ。お役に立てたならよかったです」
 千夜はヤトに微笑んだのち、表情を消して夜の帝都に目を向ける。ヤトの妻への思いに触れる度、自分の状況を思い出してしまって、心の中がひどくざわついた。その理由は、おおよそ見当が付いているが、わかってはいけない気がする。
 不意に空からばさりと羽音が聞こえ、千夜の目の前に風呂敷の包みが降りてくる。ミサキが食べ物を持って帰ってきたのだ。
「お待たせ、取ってきたよ」
「ありがとう。いただくわ」
 包みを受け取り、中を開くと、赤いスモモが三つほど入っていた。口布の下で齧り付くと、甘酸っぱい果汁が口に広がっていく。空腹と渇きがほんの少しだけ満たされた。
 すももを食べる千夜と、その隣に降り立ったミサキを、ヤトはじっと見比べている。
「いつ見ても、烏が喋るのは慣れないな」
「失礼だな。烏だってしゃべったっていいでしょ。それに僕は、普通の烏じゃないし」
 千夜に相談するようになってから、ヤトは必然的にミサキとも関わるようになっていた。初めは三本足の喋る烏に驚いて大声をあげていたが、今では普通に話せる程度にはなっている。
「……そうだな。それはすまなかった」
 ヤトはミサキへ律儀に頭を下げる。こういうところも真面目なのだなと感心していると、ヤトはこちらを振り向いてきた。
「ところで、なぜイザナ殿は果物を? いつもは夜食など食べていないだろう」
「……今日は特別、お腹が空いたので」
 千夜は目線をそらしながらごまかした。事情を知られて余計な気を遣われたくない。だが思いに反してミサキがあっさり口を開いた。
「家で食事が用意されていなかったせいでねー」
「ちょっとミサキ!」
 慌てて遮ったが、既に時遅し。ヤトの眉間には深い皺が刻まれていた。
「食事が、用意されなかった……?」
「い、いえ。作るのを忘れてしまったという話です」
「それならミサキ殿はわざわざ『用意される』とは言わないだろう。まさか君は嫁いだ先で、使用人に……」
 怒りを滲ませるヤトに、千夜は観念して俯いた。
「……仕方ないのです。あなたとは違って、夫は結婚して以来、私に手紙一つ寄越しませんし。それに……他の理由もありますから」
「君が……黄泉返りだからか」
 言い当てられて、千夜は思わず顔をあげる。
「知って、いたのですか」
「以前あなたが黄泉路を閉じた時に、右腕の彼岸花を見てしまったからな」
「恐ろしいとは、思わないのですか。私は女の黄泉返りなのに」
「特には。私には、黄泉返りの知識も多少はあるつもりだからな」
 ヤトはそう言って、詰め襟の首の部分を緩めた。首元に、黒い彼岸花が浮かんでいる。千夜の右腕にある花と同じ――黄泉返りをした証だ。
「世間では黄泉返りの扱いに男と女で差があるが、それは黄泉路で受けた常世の影響が、狩人としての役割をこなすにあたり、利があるからだ。様々な文献を辿ってみると、男女の間に違いはない。むしろ男の中にも黄泉返りをして人が変わり、狂って死んだ者もいる。それを理解していない者たちが、この国にはあまりに多すぎるのだ。黄泉という死地に迷い込み、生きて戻ってきたのなら、賞賛するべきことなのに」
「だから、恐れないと」
「ああ。むしろ、尊敬するよ。周りから理不尽な扱いを受けているだろうに、黄泉路を閉じて帝都を守ってくれているなんて」
 千夜の胸がじんわりと熱くなる。黄泉返りを知ってもなお、化け物と呼ばずに尊重してくれた人間は初めてだった。決して帝都の人間のためにやっていた訳ではないが、それでも今までのすべてが報われたような心地になる。
「まったく、こんなにも素晴らしい人なのに、君の夫は一体なにを……いや、それは私が言えたことではないな」
 ヤトは怒りを収めて自嘲すると、軍服の胸ポケットから小さな缶を取り出した。
「軍で配給されている乾パンだ。万が一黄泉路に迷い込んだ時にと備えたものだから、腹持ちがいいし保存もきく。よければもらってくれ」
「そ、そんな。悪いですよ。あなたの奥様にも」
 彼の妻を差し置いて、自分がヤトからものをもらうなど申し訳なさすぎる。だが彼は、引き下がってはくれなかった。
「イザナ殿には私をはじめ、隊の全員が助けられている。だからこれは、私の隊からの感謝の気持ちだ。きっと私の妻も……それくらいなら許してくれるだろう」
「……では、ありがたく」
 おずおずと手を伸ばし、乾パンの缶を受け取った。冷たいはずの缶なのに、何故か涙が出るほどの温かさを感じる。目の奥から、熱いものがこみ上げてきた。零れないようにと必死になって堪えていると、横から柔らかな声が聞こえてくる。
「本当に困ったら、言うといい。私が助けになろう」
「……ありがとう、ございます」
 ――この人に愛されている妻は幸せね。
 もらった缶を見つめながら、千夜はひっそりそう思った。