たん、たんと、靴の鳴る軽快な音が響く。家々の屋根の上を伝いながら、千夜は夜を駆けていた。文明開化の波が押し寄せる大正の帝都の街並みは、江戸から続く古い家屋と、レンガ造りの異国風の建物が混在している。だが街は暗く静かで、外を出歩く者は一人もいない。
足に軽く力を入れ、屋根を蹴る。ちりんと髪飾りの鈴が鳴る間に、三軒先の屋根の上まで到達した。黒い衣を纏って駆ける千夜の姿は、夜の空を裂いて飛ぶ烏のようだ。
常人では考えられないこの身体能力は、黄泉返りをしてから手に入れたものの一つだった。ミサキ曰く、黄泉路に流れる常世の空気は生者に影響を与えるらしく、この身体能力もそれが原因だろうだ。だから化け物になる話も、間違ってはいないのかもしれない。
「黄泉路が開いた場所は?」
「この先。もうお出ましよ」
地上に視線を落とすと、大通りの向こうに蠢く影の群れが目に入った。一つ一つの影は人の形をしているが、近づくほどに全く別の存在だと気付かされる。
赤く光る目。鋭い牙。枯れ木のような細い腕。でっぷりと太った腹。
――死鬼。毎夜帝都に現れる、常世の住人。死者の魂だ。
死鬼たちは黄泉路を通ってこちらに現れ、夜の帝都をさまよい歩く。生に焦がれる彼らは、生きている者を見つけると、その体を喰い、奪ってしまうのだ。消滅はさせられるが、それができるのは特別な者だけ。ゆえに普通の人間は、日が沈んだら家の外に出ないことが帝都での暗黙の了解となっていた。
死鬼がいるということは、目的地である黄泉路は近い。だが千夜は、死鬼と戦う力は持ち合わせていなかった。それを知るミサキは、心配そうに横目を向けてくる。
「今日は一段と数が多いね。あの向こうまで行けそう、千夜?」
「大丈夫でしょう。もうじき彼らが来るから――ああほら」
後方から、ばらばらと足音が聞こえてきた。軍服に身を包んだ、五人ほどの集団が駆けてくる。先頭には先導役の女が一人。その後ろには男が四人。男たちは死鬼の姿を認めると、腰の軍刀を抜いて死鬼に斬りかかった。彼らが二、三度刀を振るうと、死鬼はざあっと砂粒になって消えていく。
彼らは「狩人」と呼ばれる、死鬼を倒す力を持つ男たちだ。彼らは個体ごとに場所が異なる死鬼の急所が見えており、そこを対死鬼用の刀で切り払うことで消滅させる。死鬼に脅かされるこの帝都には、なくてはならない存在だった。
狩人たちを先導していたのは「標人」と呼ばれる。黄泉路が開いた場所を察知する力を持つ女で、死鬼をいち早く討伐するために狩人と行動を共にする者が多い。
狩人の男と、標人の女――この両者が助け合うことで、死鬼討伐は成り立っている。能力の強さは様々だが、この場にいるのは陸軍に所属し毎夜帝都の治安を守っている精鋭だ。彼らに任せておけば、死鬼の群れもすぐに片付いてしまうだろう。
千夜は屋根を一つ飛び越えて、群れの先を見つめる。通りの端、夜闇の向こうに人一人分が通れる大きさの黒い穴――黄泉路があった。
――見つけた。
千夜は懐から、持って来た糸巻きを取り出した。千夜も黄泉路を感知できる「標人」だ。だがそれとは別に、もう一つ、自分にしかできない役割がある。
地上へ降り、死鬼と戦う狩人たちの横をすり抜けて、千夜は黄泉路へまっすぐ向かう。糸巻きから青白い糸を引っ張り出すと、頭のかんざしを引き抜いた。そして裁縫で使う針と糸のように、かんざしの根元に糸を巻き付け、適当な長さで噛みきった。
黄泉路はもう、目と鼻の先。手を伸ばせば、届く距離だ。
だがそのとき――闇の向こうから新たな死鬼が現れる。
「ァアアアア!!」
「――っ!」
死鬼は千夜の体を求め、大口を開いて襲いかかってくる。咄嗟に後方へ避けようとするも、間に合わない。
その牙が千夜の腹に届く――その直前。
横から颯爽と現れた黒髪の軍人が、死鬼の体を斬り払った。
「ガァアアア!!」
死鬼は悲鳴を上げながら、砂となって消えていく。
軍人は「行け」と促すように黒曜の瞳を向けてきた。
従うように、千夜は黄泉路に駆け寄る。糸を巻き付けたかんざしを強く握り、それを黒い穴の端に針のように突き刺した。
ちくちく、ちくちくと。かんざしを引き、糸を通し、裁縫のように黄泉路を縫い合わせていく。糸が進むごとに黒い黄泉路は徐々に閉じていく。端にかんざしを挿して引き抜いた時、黄泉路は完全に夜の闇の中に溶けて消えていった。
黄泉路を縫い止め、閉じ、現世と常世の繋がりを断つ。
それは黄泉返りをした時に手に入れた、もう一つの力だった。十まで成長した時にその力を常世の神に見いだされた千夜は、ミサキを通じて帝都に開く黄泉路を閉じてほしいと頼まれたのだ。常世の神としても、死鬼たちをこちらに逃がしてしまうのは不本意らしい。それ以降、千夜は毎夜人知れずミサキと共に夜を駆け、黄泉路を閉じて回っている。
だがこの役目を担うのは、決して善意からではなかった。
黄泉返りをし、化け物呼ばわりされて虐げられる日々。だが夜を駆けている時だけは、あらゆるしがらみから解放され、自由になれる気がするのだ。特に飛躍的に上がった身体能力は、普段は決して表に出さないように務めている。ゆえになにも気にせず存分に走れるのは、気分がよかった。昼間の使用人たちからの扱いも、この時間のお陰で忘れられる。
動く理由くらい、自分勝手でもいいだろう。そもそも自分を化け物呼ばわりする他者を、守ってやろうなんて気は起こらない。
昼間の綾野を思い出して顔をしかめていると、後ろから声がかかった。
「相変わらず素晴らしい技術だな、イザナ殿」
振り向くと、先ほど千夜を助けてくれた、黒髪に黒曜の瞳を持つ精悍な軍人が立っていた。見慣れたその顔に、千夜は深く頭を下げる。
「ヤト隊長。先ほどはありがとうございました」
「構わない。イザナ殿の力には我々も助けられているからな」
彼は陸軍所属の狩人だ。ヤトと周りに呼ばれているが、狩人は仕事の際に偽名を使う慣習があるので、本名は別にあるだろう。歳は恐らく二十前半。三ヶ月ほど前に黄泉路を閉じに行った先で出会い、以降何度か顔を合わせている。千夜と出会った頃に一つの部隊を任されるようになったらしく、毎夜忙しそうに帝都を駆けずり回っていた。
ちなみにイザナは千夜の偽名。万が一素性を知られ、面倒事に発展するのを避ける為に使っている。
「しかしイザナ殿の技はやはり惜しい。他の者に伝授できたりしないのだろうか。多くの者が使えるようになれば、より帝都は安全になるだろうに」
「前にも申しあげたと思うのですが、残念ながらこの技は私にしか使えないのです。諦めてください」
「む……なら、イザナ殿が軍に来るというのは? 君が仲間であれば、心強い」
「ふふ、お断りします。軍なんて柄ではありませんから」
千夜は勧誘を受け流しながらくすくす微笑む。お互い夜ごとに顔を合わせ、その度にこうして会話する中で、千夜とヤトの間には信頼が生まれていた。
ヤトは純粋に千夜の力を認め、一人の人間として正しく接してくれる。ヤトは千夜が黄泉返りだと知らないゆえの態度だろうが、それでも彼との会話は宵宮家での扱いで疲れ切った心を癒やしてくれた。
「それにもし軍に入るにしても、恐らく私の一存では決められないかと」
「両親か? それなら、私が取り入るが」
「いえ、夫です。さすがに配偶者には話を通さなければならないでしょう」
「えっ」
ヤトが頓狂な声を上げ、まじまじと千夜を見つめてきた。
「君は……結婚していたのか」
「ええ、これでも一応人妻なのです。もっとも結婚して以来、夫は一度も家に帰って来ないので、私は自由にさせていただいているのですが。ひどい夫ですよね」
「…………」
冗談めかして言ったつもりだが、なぜか突然ヤトの表情が固まった。顔を青くし、額からは冷や汗を垂らしている。夫に放置されている千夜の境遇に引いてしまったのかと思ったが、それにしては様子がおかしい。
「ヤト隊長? どうかされました?」
「……そう、だな……やはり、そういうのは、よくない……よな」
「は? なにがですか」
「い、いや……夫が帰ってこない話だ……それには思うところが、あるというか……」
「どういう意味です」
「実は私も……君の夫と、同じようなことをしていて……」
「…………」
千夜の夫と同じこと。つまり結婚しておいて、一度も妻と会っていないということだ。
千夜は気まずそうに視線を横にそらすヤトの顔をじっとと見上げる。美しく整った、生真面目そうな面差し。狩人の部隊を率いる、名誉ある立場。それでも千夜は、口を開かずにはいられなかった。
「大変失礼ながら、一言よろしいでしょうか」
「……な、なんだろうか」
「最低男。不義理。甲斐性なし」
「うぐっ。一言では……」
「黙ってください。妻を放置するなど男性の風上にも置けません。どんな立場の者だろうとそれは同じ。自分がしていることの愚かさを顧みることです」
「…………返す言葉もない」
ヤトは肩をがっくりと下げ、すっかり消沈してしまった。だが千夜の知ったことではない。夫に放置された妻が、周りからどんな目を向けられるか。その苦しみから逃げるために自ら感情をなくしていく感覚がどのようなものか。夫は知ろうともしないのだから。
千夜が怒るべき相手は別にいる。だが同じことをしていたのなら、ヤトの妻も今頃苦しんでいるだろう。それを思えば、言ってやらねば気が済まなかった。
「私に構っていないで、今すぐ奥様に会いに行ってください。さあ、早く」
「それは……できないのだ」
「はぁ? 腑抜けですか」
「ち、違う。会えない理由があるのだ。妻は標人だから、狩人の私が会えば契らねばならなくなる。上官にもそう、命令されているから」
狩人と標人は、特別な繋がりを持つことができる。両者が結婚して契りを交わせば、互いに離れていても相手と意思疎通や感覚共有ができるようになるのだ。標人は感知した黄泉路を遠隔で狩人に伝え、狩人は標人の声に導かれながら死鬼を狩る。それが本来の死鬼討伐の形なのだ。
故に結婚した狩人と標人は、早急に契ることが求められている。千夜も本来なら夫であり狩人の蓮と、とっくに契っていなければならないのだが、彼が帰らないため保留になっていた。
「仕事がやりやすくなるでしょう。いいことなのでは?」
「いや……今はまだ妻と契るわけにはいかない。理由は詳しくは言えないのだが」
ヤトは深刻な面持ちで頭を抑える。その様子に、千夜はため息をついて怒りを逃した。どうやら彼には、なにか事情があるらしい。それを知らないまま糾弾し続けるのは、公平ではない気がした。
「それなら仕方ないかもしれませんが、あまり放置すると愛想を尽かされますよ」
「や、やはりそうなのだろうか。使用人たちには彼女が不自由しないよう言い聞かせているし、部下には様子を見に行かせているし、手紙も週に一度送っているのだが……」
「少なくとも私は、顔も知らない夫のことなど、どうでもよくなっています」
千夜に手紙は送られてこないが、少しは焦ってもらった方がいい。そう思いながら告げると、ヤトは顔を真っ青にして首を振った。
「そ、それは困る。会うことはできないが、私はあの人を心底愛しているのだ。苦労してようやく見つけ出したのに……出て行かれたくない」
そして彼は必死な目をこちらに向けてきた。
「頼む、イザナ殿。仕事の後で構わない。妻と同じ境遇の者として、私の相談に乗ってくれないか。代わりに君の夫の愚痴聞きでもなんでもしよう」
「え、ええ……?」
目の前で深く頭を下げるヤトに、千夜は困惑してしまう。
妙な展開になってしまった。まさか仕事仲間のような彼から、恋愛相談を持ちかけられるなんて。だが、今まで人を愛したことも愛されたこともない自分に務まるはずがない。
「私には無理です。他の人に頼んでください」
「頼れるのは君だけなのだ。どうか受けてくれ」
拒否しようとしても、ヤトは引き下がろうとしなかった。
正直うまくできる気はしない。別の誰かに話を持ちかけた方がいいのではと思う。だが彼には黄泉路を閉じる時に世話になっているし、先ほどは命を助けてもらった。なにより彼の妻の気持ちをわかってやれるのは――自分のような女しかいないのかもしれない。
「……わかりました。どうしてもというなら」
「感謝する! では明日から、頼んだぞ!」
ヤトは安堵の笑みを浮かべて礼を言うと、夜の街へ消えていった。
一人残された千夜の肩に、ミサキが舞い降りてくる。
「なんだか面白そうなことになってるね」
「本当に」
不安と困惑を吐き出すように、千夜は大きくため息をついた。
足に軽く力を入れ、屋根を蹴る。ちりんと髪飾りの鈴が鳴る間に、三軒先の屋根の上まで到達した。黒い衣を纏って駆ける千夜の姿は、夜の空を裂いて飛ぶ烏のようだ。
常人では考えられないこの身体能力は、黄泉返りをしてから手に入れたものの一つだった。ミサキ曰く、黄泉路に流れる常世の空気は生者に影響を与えるらしく、この身体能力もそれが原因だろうだ。だから化け物になる話も、間違ってはいないのかもしれない。
「黄泉路が開いた場所は?」
「この先。もうお出ましよ」
地上に視線を落とすと、大通りの向こうに蠢く影の群れが目に入った。一つ一つの影は人の形をしているが、近づくほどに全く別の存在だと気付かされる。
赤く光る目。鋭い牙。枯れ木のような細い腕。でっぷりと太った腹。
――死鬼。毎夜帝都に現れる、常世の住人。死者の魂だ。
死鬼たちは黄泉路を通ってこちらに現れ、夜の帝都をさまよい歩く。生に焦がれる彼らは、生きている者を見つけると、その体を喰い、奪ってしまうのだ。消滅はさせられるが、それができるのは特別な者だけ。ゆえに普通の人間は、日が沈んだら家の外に出ないことが帝都での暗黙の了解となっていた。
死鬼がいるということは、目的地である黄泉路は近い。だが千夜は、死鬼と戦う力は持ち合わせていなかった。それを知るミサキは、心配そうに横目を向けてくる。
「今日は一段と数が多いね。あの向こうまで行けそう、千夜?」
「大丈夫でしょう。もうじき彼らが来るから――ああほら」
後方から、ばらばらと足音が聞こえてきた。軍服に身を包んだ、五人ほどの集団が駆けてくる。先頭には先導役の女が一人。その後ろには男が四人。男たちは死鬼の姿を認めると、腰の軍刀を抜いて死鬼に斬りかかった。彼らが二、三度刀を振るうと、死鬼はざあっと砂粒になって消えていく。
彼らは「狩人」と呼ばれる、死鬼を倒す力を持つ男たちだ。彼らは個体ごとに場所が異なる死鬼の急所が見えており、そこを対死鬼用の刀で切り払うことで消滅させる。死鬼に脅かされるこの帝都には、なくてはならない存在だった。
狩人たちを先導していたのは「標人」と呼ばれる。黄泉路が開いた場所を察知する力を持つ女で、死鬼をいち早く討伐するために狩人と行動を共にする者が多い。
狩人の男と、標人の女――この両者が助け合うことで、死鬼討伐は成り立っている。能力の強さは様々だが、この場にいるのは陸軍に所属し毎夜帝都の治安を守っている精鋭だ。彼らに任せておけば、死鬼の群れもすぐに片付いてしまうだろう。
千夜は屋根を一つ飛び越えて、群れの先を見つめる。通りの端、夜闇の向こうに人一人分が通れる大きさの黒い穴――黄泉路があった。
――見つけた。
千夜は懐から、持って来た糸巻きを取り出した。千夜も黄泉路を感知できる「標人」だ。だがそれとは別に、もう一つ、自分にしかできない役割がある。
地上へ降り、死鬼と戦う狩人たちの横をすり抜けて、千夜は黄泉路へまっすぐ向かう。糸巻きから青白い糸を引っ張り出すと、頭のかんざしを引き抜いた。そして裁縫で使う針と糸のように、かんざしの根元に糸を巻き付け、適当な長さで噛みきった。
黄泉路はもう、目と鼻の先。手を伸ばせば、届く距離だ。
だがそのとき――闇の向こうから新たな死鬼が現れる。
「ァアアアア!!」
「――っ!」
死鬼は千夜の体を求め、大口を開いて襲いかかってくる。咄嗟に後方へ避けようとするも、間に合わない。
その牙が千夜の腹に届く――その直前。
横から颯爽と現れた黒髪の軍人が、死鬼の体を斬り払った。
「ガァアアア!!」
死鬼は悲鳴を上げながら、砂となって消えていく。
軍人は「行け」と促すように黒曜の瞳を向けてきた。
従うように、千夜は黄泉路に駆け寄る。糸を巻き付けたかんざしを強く握り、それを黒い穴の端に針のように突き刺した。
ちくちく、ちくちくと。かんざしを引き、糸を通し、裁縫のように黄泉路を縫い合わせていく。糸が進むごとに黒い黄泉路は徐々に閉じていく。端にかんざしを挿して引き抜いた時、黄泉路は完全に夜の闇の中に溶けて消えていった。
黄泉路を縫い止め、閉じ、現世と常世の繋がりを断つ。
それは黄泉返りをした時に手に入れた、もう一つの力だった。十まで成長した時にその力を常世の神に見いだされた千夜は、ミサキを通じて帝都に開く黄泉路を閉じてほしいと頼まれたのだ。常世の神としても、死鬼たちをこちらに逃がしてしまうのは不本意らしい。それ以降、千夜は毎夜人知れずミサキと共に夜を駆け、黄泉路を閉じて回っている。
だがこの役目を担うのは、決して善意からではなかった。
黄泉返りをし、化け物呼ばわりされて虐げられる日々。だが夜を駆けている時だけは、あらゆるしがらみから解放され、自由になれる気がするのだ。特に飛躍的に上がった身体能力は、普段は決して表に出さないように務めている。ゆえになにも気にせず存分に走れるのは、気分がよかった。昼間の使用人たちからの扱いも、この時間のお陰で忘れられる。
動く理由くらい、自分勝手でもいいだろう。そもそも自分を化け物呼ばわりする他者を、守ってやろうなんて気は起こらない。
昼間の綾野を思い出して顔をしかめていると、後ろから声がかかった。
「相変わらず素晴らしい技術だな、イザナ殿」
振り向くと、先ほど千夜を助けてくれた、黒髪に黒曜の瞳を持つ精悍な軍人が立っていた。見慣れたその顔に、千夜は深く頭を下げる。
「ヤト隊長。先ほどはありがとうございました」
「構わない。イザナ殿の力には我々も助けられているからな」
彼は陸軍所属の狩人だ。ヤトと周りに呼ばれているが、狩人は仕事の際に偽名を使う慣習があるので、本名は別にあるだろう。歳は恐らく二十前半。三ヶ月ほど前に黄泉路を閉じに行った先で出会い、以降何度か顔を合わせている。千夜と出会った頃に一つの部隊を任されるようになったらしく、毎夜忙しそうに帝都を駆けずり回っていた。
ちなみにイザナは千夜の偽名。万が一素性を知られ、面倒事に発展するのを避ける為に使っている。
「しかしイザナ殿の技はやはり惜しい。他の者に伝授できたりしないのだろうか。多くの者が使えるようになれば、より帝都は安全になるだろうに」
「前にも申しあげたと思うのですが、残念ながらこの技は私にしか使えないのです。諦めてください」
「む……なら、イザナ殿が軍に来るというのは? 君が仲間であれば、心強い」
「ふふ、お断りします。軍なんて柄ではありませんから」
千夜は勧誘を受け流しながらくすくす微笑む。お互い夜ごとに顔を合わせ、その度にこうして会話する中で、千夜とヤトの間には信頼が生まれていた。
ヤトは純粋に千夜の力を認め、一人の人間として正しく接してくれる。ヤトは千夜が黄泉返りだと知らないゆえの態度だろうが、それでも彼との会話は宵宮家での扱いで疲れ切った心を癒やしてくれた。
「それにもし軍に入るにしても、恐らく私の一存では決められないかと」
「両親か? それなら、私が取り入るが」
「いえ、夫です。さすがに配偶者には話を通さなければならないでしょう」
「えっ」
ヤトが頓狂な声を上げ、まじまじと千夜を見つめてきた。
「君は……結婚していたのか」
「ええ、これでも一応人妻なのです。もっとも結婚して以来、夫は一度も家に帰って来ないので、私は自由にさせていただいているのですが。ひどい夫ですよね」
「…………」
冗談めかして言ったつもりだが、なぜか突然ヤトの表情が固まった。顔を青くし、額からは冷や汗を垂らしている。夫に放置されている千夜の境遇に引いてしまったのかと思ったが、それにしては様子がおかしい。
「ヤト隊長? どうかされました?」
「……そう、だな……やはり、そういうのは、よくない……よな」
「は? なにがですか」
「い、いや……夫が帰ってこない話だ……それには思うところが、あるというか……」
「どういう意味です」
「実は私も……君の夫と、同じようなことをしていて……」
「…………」
千夜の夫と同じこと。つまり結婚しておいて、一度も妻と会っていないということだ。
千夜は気まずそうに視線を横にそらすヤトの顔をじっとと見上げる。美しく整った、生真面目そうな面差し。狩人の部隊を率いる、名誉ある立場。それでも千夜は、口を開かずにはいられなかった。
「大変失礼ながら、一言よろしいでしょうか」
「……な、なんだろうか」
「最低男。不義理。甲斐性なし」
「うぐっ。一言では……」
「黙ってください。妻を放置するなど男性の風上にも置けません。どんな立場の者だろうとそれは同じ。自分がしていることの愚かさを顧みることです」
「…………返す言葉もない」
ヤトは肩をがっくりと下げ、すっかり消沈してしまった。だが千夜の知ったことではない。夫に放置された妻が、周りからどんな目を向けられるか。その苦しみから逃げるために自ら感情をなくしていく感覚がどのようなものか。夫は知ろうともしないのだから。
千夜が怒るべき相手は別にいる。だが同じことをしていたのなら、ヤトの妻も今頃苦しんでいるだろう。それを思えば、言ってやらねば気が済まなかった。
「私に構っていないで、今すぐ奥様に会いに行ってください。さあ、早く」
「それは……できないのだ」
「はぁ? 腑抜けですか」
「ち、違う。会えない理由があるのだ。妻は標人だから、狩人の私が会えば契らねばならなくなる。上官にもそう、命令されているから」
狩人と標人は、特別な繋がりを持つことができる。両者が結婚して契りを交わせば、互いに離れていても相手と意思疎通や感覚共有ができるようになるのだ。標人は感知した黄泉路を遠隔で狩人に伝え、狩人は標人の声に導かれながら死鬼を狩る。それが本来の死鬼討伐の形なのだ。
故に結婚した狩人と標人は、早急に契ることが求められている。千夜も本来なら夫であり狩人の蓮と、とっくに契っていなければならないのだが、彼が帰らないため保留になっていた。
「仕事がやりやすくなるでしょう。いいことなのでは?」
「いや……今はまだ妻と契るわけにはいかない。理由は詳しくは言えないのだが」
ヤトは深刻な面持ちで頭を抑える。その様子に、千夜はため息をついて怒りを逃した。どうやら彼には、なにか事情があるらしい。それを知らないまま糾弾し続けるのは、公平ではない気がした。
「それなら仕方ないかもしれませんが、あまり放置すると愛想を尽かされますよ」
「や、やはりそうなのだろうか。使用人たちには彼女が不自由しないよう言い聞かせているし、部下には様子を見に行かせているし、手紙も週に一度送っているのだが……」
「少なくとも私は、顔も知らない夫のことなど、どうでもよくなっています」
千夜に手紙は送られてこないが、少しは焦ってもらった方がいい。そう思いながら告げると、ヤトは顔を真っ青にして首を振った。
「そ、それは困る。会うことはできないが、私はあの人を心底愛しているのだ。苦労してようやく見つけ出したのに……出て行かれたくない」
そして彼は必死な目をこちらに向けてきた。
「頼む、イザナ殿。仕事の後で構わない。妻と同じ境遇の者として、私の相談に乗ってくれないか。代わりに君の夫の愚痴聞きでもなんでもしよう」
「え、ええ……?」
目の前で深く頭を下げるヤトに、千夜は困惑してしまう。
妙な展開になってしまった。まさか仕事仲間のような彼から、恋愛相談を持ちかけられるなんて。だが、今まで人を愛したことも愛されたこともない自分に務まるはずがない。
「私には無理です。他の人に頼んでください」
「頼れるのは君だけなのだ。どうか受けてくれ」
拒否しようとしても、ヤトは引き下がろうとしなかった。
正直うまくできる気はしない。別の誰かに話を持ちかけた方がいいのではと思う。だが彼には黄泉路を閉じる時に世話になっているし、先ほどは命を助けてもらった。なにより彼の妻の気持ちをわかってやれるのは――自分のような女しかいないのかもしれない。
「……わかりました。どうしてもというなら」
「感謝する! では明日から、頼んだぞ!」
ヤトは安堵の笑みを浮かべて礼を言うと、夜の街へ消えていった。
一人残された千夜の肩に、ミサキが舞い降りてくる。
「なんだか面白そうなことになってるね」
「本当に」
不安と困惑を吐き出すように、千夜は大きくため息をついた。



