昏い闇の中を、少女は駆けていた。
背後に迫るおぞましい影に、囚われまいと全力で。
「もう無理だよ。黄泉路に迷い込んで、出られるわけない」
隣で涙を流す誰かの手を、励ますように強く握りしめる。
帰れないかもしれない。ここで死ぬかもしれない。分かっていても少女は生を諦めようとはしなかった。闇の向こうにあるはずの光を、見つけられると信じていたから。
少女の行く先に、ぼうっと光る青白い糸が現れる。救いを求めて、少女はその糸へ手を伸ばした。掴むと同時に、ぐんと体が闇の中から引き上げられる。
気づけば少女は、夕暮れの下、一人自分の屋敷の門の前に倒れていた。
屋根の上に止まった一羽の烏に目もくれず、彼女は安堵の涙を流しながら敷地へ入り、庭でなにかを話していた両親の元へ駆け寄った。いつもの通りに、抱きしめながら迎えてくれると信じて。
だが両親は、駆け寄ってきた少女に目を見張り、その右腕に咲いた黒い彼岸花を見て悲鳴を上げた。
――化け物だ、と。
***
夕暮れ時を過ぎ、空が藍色に染まる頃。夕食後の宵宮家の厨房には、食器を洗う音と共に、三人の使用人たちの楽しげな笑い声が響いていた。
「ねえ聞いた? 昨日また一人、死鬼の被害が出たらしいわよ」
「そうでしょうね。黄泉路が開いていたもの。軍人さんたちも間に合わなかったのね」
「感じていたの? さすがは綾野さん。才能がある方は違うわぁ」
焦げ茶の髪を頭の上に結い上げた、綾野と呼ばれた使用人は、他二人の賞賛を浴びて得意げに笑う。
厨房の入り口でその声を耳にした千夜は、既に心の底からその場を離れたい気持ちになっていた。しかし踵を返そうとするも、空になった腹がきゅうと鳴る。自室に置いておいた食料は底を尽きていた。ゆえに厨房に入るしか、食べ物を手に入れる術はない。仕方なしに、千夜は厨房へ足を踏み入れる。
「夕食がまだ来ていないのだけれど」
千夜の言葉にぷつんと使用人たちの会話が途切れた。けれどそれもほんの一瞬。再び彼女たちは、何事もなかったように世間話を再開する。千夜の存在など、まるで気づいていないかのように。
やっぱり、と千夜は内心ため息をつく。使用人に無視されるなど、いつものことだ。
「勝手にもらうわよ」
一声かけて、千夜は羽釜に残った冷や飯を塩で握り、俵の形に整えていく。
本来なら、このような扱いをされる立場ではない。なにせ千夜は使用人でも奴隷でも居候でもなく、この家の女主人なのだから。
代々国に仕える官吏を排出し、特別な力を持つ者が生まれる血筋である宵宮家。その嫡男、宵宮蓮に名家と呼ばれる百瀬家から千夜が嫁いだのは、今から三ヶ月ほど前のこと。しかし互いの家のためとはいえ、本来めでたい行事であるはずの結婚だが、宵宮家に移り住んできた千夜を迎えたのは、結婚に必要な書類と一枚の手紙のみ。肝心の宵宮蓮本人は、千夜の前に姿を現さなかった。
仕事が忙しいのか、それとも別の理由があるからか。明確な理由は知るよしもないが、ともかく彼は一度もこの家に帰っておらず、今日に至るまで千夜は一度も蓮に会ったことがない。手紙も結婚初日以降は途絶えており、交流らしい交流もなかった。この家の主人が花嫁のことをどう思っているのかは、誰から見ても明らかだった。
「そういえば綾野さん。手紙、またいただいたの?」
使用人の一人が発した言葉に、ぴくりと千夜は耳を動かした。
「そうなの。今朝にね。愛してる、なんてたくさん書かれて、本当に旦那様は情熱的だわ」
「きゃあ、素敵!」
色めき立つ使用人たちの会話を、千夜は無心で聞き流す。詳しいことはよく知らないが、どうやら夫は妻の自分をすっかり無視して、使用人と道ならぬ恋をしているらしい。その証拠に、綾野は月に何度も彼から手紙をもらい、その度にこうして恋の話題に花を咲かせている。
普通なら妻の目の前で不貞の話をするなどあり得ない行為だが、蓮が千夜の元に戻らないことが倫理の枷を緩めているのだろう。加えて綾野は没落したとはいえ、千夜と同じ能力を持つ家の生まれのようで、使用人たちの間で人気が高い。綾野の取り巻きの間では、使用人と名家の嫡男との恋が、一種の憧れのように見えているのだろう。
「このままなら、旦那様は綾野さんに乗り換えるのではなくて?」
「綾野さんの方がふさわしいわよ。だって千夜って女は、ねぇ……」
くすくすと、使用人たちが離れた場所で笑っている。こちらにわざと聞かせようとしている意図がまるわかりで、眉間へ僅かに皺が寄った。綾野はちらと千夜の方に目を向けた後、すぐにそらして勝ち誇ったような顔をした。
「当然よ。あの人は黄泉返りの女でしょう。人の皮を被った化け物なんて、誰からも愛されなくていいの」
――居心地の悪さも限界だ。
千夜はできあがった握り飯を持って、足早に厨房を後にした。
千夜は自室に戻ると、握り飯の皿を文机の上に置いて脱力したように座り込む。
帰らぬ夫の、使用人との不貞。
それだけでも、自分が白い目で見られるには十分過ぎる状況だ。しかし千夜がこの家で蔑ろにされている最大の理由は、それではない。
千夜はそっと、着物の裾から右腕を出した。白く細い腕には、こぶしほどの大きさの、黒い彼岸花のような形をした痣があった。
――黄泉返り。
文明開化を迎えた大日本帝国の中心・帝都。異国から渡ってきた様々な文化に彩られるこの場所は、一方で死者の棲まう世界「常世」と繋がりやすい環境にあった。ゆえに毎晩のように帝都のどこかへ、「黄泉路」と呼ばれる常世へ繋がる黒い穴が開いてしまう。その黄泉路に迷い込み、帰ってきた人間を帝都では「黄泉返り」と呼んでいた。
黄泉返りは男がするのと女がするのとでは意味は異なり、男ではあらゆる災いを打ち払う力を得るが、女では人ではないものになって帰ってくると言われていた。
故に千夜は五歳のころに黄泉返りをしてから、十八の今に至るまで、実の両親をはじめとする周りの人間に疎まれてきた。その果てに、届いた縁談を使って厄介払いのように結婚させられ、宵宮に嫁いで今に至る。
黄泉返りの者は体のどこかに彼岸花の形をした痣が刻まれるため、判別はすぐにできてしまう。だからここに来てすぐは使用人たちも歓迎してくれたが、腕の彼岸花を見られて以降、彼らの態度は一変し存在を無視されるようになってしまった。夫と綾野の不貞が歓迎されているのも、千夜が黄泉返りの女であり、蓮にふさわしくないと思われているのが大きいだろう。
――愛される価値のない化け物。
影で使用人たちにそう呼ばれているのを、千夜は何度も聞いている。
けれどその言葉には、もはや何の感情も抱かなかった。幼い頃から疎まれ続けて十数年。この国で自分が愛されることなど、夢物語でもあり得ないことは理解しきっている。愛をもらうことを、とうの昔に千夜は諦めていた。
心にわだかまりを覚えながら、千夜は握り飯を口に運ぶ。二つ目に手を伸ばした時、縁側の方からばさばさと羽音が聞こえてきた。
顔をあげると、縁側に一匹の烏が止まっていた。黒い艶のある美しい羽根と、かわいらしいつぶらな瞳。だが普通は二本であるはずの足が、目の前の烏には三本ついている。
「相変わらず覇気がない顔をしてるねえ」
烏はくちばしを開いて人語を発した。彼は八咫烏のミサキ。幼い頃に黄泉路に迷い込んだ千夜を助けてくれた命の恩人で、常世を統べる神の使いらしい。黄泉路から帰って以降、ずっと一緒に過ごしていたため、千夜にとっては相棒のような存在になっている。
「しかし、本当に人間って奴は馬鹿ばかりだね。黄泉返りは黄泉返り。女も男も大した違いはないのに、女だけが化け物になると思い込んでさ」
「仕方ないわよ、そういうしきたりだもの」
握り飯に齧り付きながら、千夜は答える。ミサキはふわりと羽ばたいて、千夜の目の前にやってきた。
「千夜はこのままでいいの? 逃げるなら手を貸すけど。こっちの事情に付き合ってもらてるんだし」
「別に構わないわ。どうせどこも同じだもの」
大日本帝国にいる以上、自分が大事にされることはない。家を出ようと身分を隠して仕事を探したこともあったが、黄泉返りを理由に断られてばかりだった。それを考えれば、雨風しのげて最低限の食事が手に入る今の立場は悪くはない。
「それに放置してくれるなら、それだけ自由な時間が増えるってことでしょう。むしろありがたいわ」
千夜の役目を考えるなら尚更、と。そう思いながら、握り飯の残りを口の中に放り込む。
不意に、きぃいいんと、耳鳴りが聞こえてきた。ばっと北東の方角に目を向ける。遠く離れた場所から身の毛がよだつような気配を感じた。
ミサキが声を低くしながら訪ねてくる。
「開いたんだ」
「ええ。『仕事』の時間だわ」
千夜は頷くと、箪笥の中から黒い着物、薄青の糸が巻かれた糸巻きを取り出した。着ている浅黄色の着物を脱いで、黒い振袖と袴を穿く。長い黒髪を頭の上に結い上げて、鈴のついたかんざしで止めると、ちりんと清らかな音を立てた。口布をつけて顔を隠すと、全身黒い烏のような出で立ちになる。糸巻きを懐に忍ばせた千夜は、ミサキの方を振り向いた。
「いつもの、よろしく」
ミサキは答えるように自らの羽根を引き抜き、宙に放り投げる。たちまち羽根は人の形をとり、浅黄色の着物を着た千夜にそっくりな姿に変わった。千夜が『仕事』に行っている最中、これが身代わりとなってくれる。
準備を終えた千夜は、縁側に出て革のブーツを履く。見上げると、空には三日月が昇っていた。薄雲に隠されたそれは、ぼんやりとした不気味な光を放っている。
静謐な夜の空気に混じり、この世の者ではない、おぞましい気が千夜の体を絡め取る。常人では感じ取れないその気配に、千夜は薄く微笑んだ。
「いい夜じゃない」
「不謹慎だね」
呆れるミサキの横で、千夜は思い切り地を蹴った。
背後に迫るおぞましい影に、囚われまいと全力で。
「もう無理だよ。黄泉路に迷い込んで、出られるわけない」
隣で涙を流す誰かの手を、励ますように強く握りしめる。
帰れないかもしれない。ここで死ぬかもしれない。分かっていても少女は生を諦めようとはしなかった。闇の向こうにあるはずの光を、見つけられると信じていたから。
少女の行く先に、ぼうっと光る青白い糸が現れる。救いを求めて、少女はその糸へ手を伸ばした。掴むと同時に、ぐんと体が闇の中から引き上げられる。
気づけば少女は、夕暮れの下、一人自分の屋敷の門の前に倒れていた。
屋根の上に止まった一羽の烏に目もくれず、彼女は安堵の涙を流しながら敷地へ入り、庭でなにかを話していた両親の元へ駆け寄った。いつもの通りに、抱きしめながら迎えてくれると信じて。
だが両親は、駆け寄ってきた少女に目を見張り、その右腕に咲いた黒い彼岸花を見て悲鳴を上げた。
――化け物だ、と。
***
夕暮れ時を過ぎ、空が藍色に染まる頃。夕食後の宵宮家の厨房には、食器を洗う音と共に、三人の使用人たちの楽しげな笑い声が響いていた。
「ねえ聞いた? 昨日また一人、死鬼の被害が出たらしいわよ」
「そうでしょうね。黄泉路が開いていたもの。軍人さんたちも間に合わなかったのね」
「感じていたの? さすがは綾野さん。才能がある方は違うわぁ」
焦げ茶の髪を頭の上に結い上げた、綾野と呼ばれた使用人は、他二人の賞賛を浴びて得意げに笑う。
厨房の入り口でその声を耳にした千夜は、既に心の底からその場を離れたい気持ちになっていた。しかし踵を返そうとするも、空になった腹がきゅうと鳴る。自室に置いておいた食料は底を尽きていた。ゆえに厨房に入るしか、食べ物を手に入れる術はない。仕方なしに、千夜は厨房へ足を踏み入れる。
「夕食がまだ来ていないのだけれど」
千夜の言葉にぷつんと使用人たちの会話が途切れた。けれどそれもほんの一瞬。再び彼女たちは、何事もなかったように世間話を再開する。千夜の存在など、まるで気づいていないかのように。
やっぱり、と千夜は内心ため息をつく。使用人に無視されるなど、いつものことだ。
「勝手にもらうわよ」
一声かけて、千夜は羽釜に残った冷や飯を塩で握り、俵の形に整えていく。
本来なら、このような扱いをされる立場ではない。なにせ千夜は使用人でも奴隷でも居候でもなく、この家の女主人なのだから。
代々国に仕える官吏を排出し、特別な力を持つ者が生まれる血筋である宵宮家。その嫡男、宵宮蓮に名家と呼ばれる百瀬家から千夜が嫁いだのは、今から三ヶ月ほど前のこと。しかし互いの家のためとはいえ、本来めでたい行事であるはずの結婚だが、宵宮家に移り住んできた千夜を迎えたのは、結婚に必要な書類と一枚の手紙のみ。肝心の宵宮蓮本人は、千夜の前に姿を現さなかった。
仕事が忙しいのか、それとも別の理由があるからか。明確な理由は知るよしもないが、ともかく彼は一度もこの家に帰っておらず、今日に至るまで千夜は一度も蓮に会ったことがない。手紙も結婚初日以降は途絶えており、交流らしい交流もなかった。この家の主人が花嫁のことをどう思っているのかは、誰から見ても明らかだった。
「そういえば綾野さん。手紙、またいただいたの?」
使用人の一人が発した言葉に、ぴくりと千夜は耳を動かした。
「そうなの。今朝にね。愛してる、なんてたくさん書かれて、本当に旦那様は情熱的だわ」
「きゃあ、素敵!」
色めき立つ使用人たちの会話を、千夜は無心で聞き流す。詳しいことはよく知らないが、どうやら夫は妻の自分をすっかり無視して、使用人と道ならぬ恋をしているらしい。その証拠に、綾野は月に何度も彼から手紙をもらい、その度にこうして恋の話題に花を咲かせている。
普通なら妻の目の前で不貞の話をするなどあり得ない行為だが、蓮が千夜の元に戻らないことが倫理の枷を緩めているのだろう。加えて綾野は没落したとはいえ、千夜と同じ能力を持つ家の生まれのようで、使用人たちの間で人気が高い。綾野の取り巻きの間では、使用人と名家の嫡男との恋が、一種の憧れのように見えているのだろう。
「このままなら、旦那様は綾野さんに乗り換えるのではなくて?」
「綾野さんの方がふさわしいわよ。だって千夜って女は、ねぇ……」
くすくすと、使用人たちが離れた場所で笑っている。こちらにわざと聞かせようとしている意図がまるわかりで、眉間へ僅かに皺が寄った。綾野はちらと千夜の方に目を向けた後、すぐにそらして勝ち誇ったような顔をした。
「当然よ。あの人は黄泉返りの女でしょう。人の皮を被った化け物なんて、誰からも愛されなくていいの」
――居心地の悪さも限界だ。
千夜はできあがった握り飯を持って、足早に厨房を後にした。
千夜は自室に戻ると、握り飯の皿を文机の上に置いて脱力したように座り込む。
帰らぬ夫の、使用人との不貞。
それだけでも、自分が白い目で見られるには十分過ぎる状況だ。しかし千夜がこの家で蔑ろにされている最大の理由は、それではない。
千夜はそっと、着物の裾から右腕を出した。白く細い腕には、こぶしほどの大きさの、黒い彼岸花のような形をした痣があった。
――黄泉返り。
文明開化を迎えた大日本帝国の中心・帝都。異国から渡ってきた様々な文化に彩られるこの場所は、一方で死者の棲まう世界「常世」と繋がりやすい環境にあった。ゆえに毎晩のように帝都のどこかへ、「黄泉路」と呼ばれる常世へ繋がる黒い穴が開いてしまう。その黄泉路に迷い込み、帰ってきた人間を帝都では「黄泉返り」と呼んでいた。
黄泉返りは男がするのと女がするのとでは意味は異なり、男ではあらゆる災いを打ち払う力を得るが、女では人ではないものになって帰ってくると言われていた。
故に千夜は五歳のころに黄泉返りをしてから、十八の今に至るまで、実の両親をはじめとする周りの人間に疎まれてきた。その果てに、届いた縁談を使って厄介払いのように結婚させられ、宵宮に嫁いで今に至る。
黄泉返りの者は体のどこかに彼岸花の形をした痣が刻まれるため、判別はすぐにできてしまう。だからここに来てすぐは使用人たちも歓迎してくれたが、腕の彼岸花を見られて以降、彼らの態度は一変し存在を無視されるようになってしまった。夫と綾野の不貞が歓迎されているのも、千夜が黄泉返りの女であり、蓮にふさわしくないと思われているのが大きいだろう。
――愛される価値のない化け物。
影で使用人たちにそう呼ばれているのを、千夜は何度も聞いている。
けれどその言葉には、もはや何の感情も抱かなかった。幼い頃から疎まれ続けて十数年。この国で自分が愛されることなど、夢物語でもあり得ないことは理解しきっている。愛をもらうことを、とうの昔に千夜は諦めていた。
心にわだかまりを覚えながら、千夜は握り飯を口に運ぶ。二つ目に手を伸ばした時、縁側の方からばさばさと羽音が聞こえてきた。
顔をあげると、縁側に一匹の烏が止まっていた。黒い艶のある美しい羽根と、かわいらしいつぶらな瞳。だが普通は二本であるはずの足が、目の前の烏には三本ついている。
「相変わらず覇気がない顔をしてるねえ」
烏はくちばしを開いて人語を発した。彼は八咫烏のミサキ。幼い頃に黄泉路に迷い込んだ千夜を助けてくれた命の恩人で、常世を統べる神の使いらしい。黄泉路から帰って以降、ずっと一緒に過ごしていたため、千夜にとっては相棒のような存在になっている。
「しかし、本当に人間って奴は馬鹿ばかりだね。黄泉返りは黄泉返り。女も男も大した違いはないのに、女だけが化け物になると思い込んでさ」
「仕方ないわよ、そういうしきたりだもの」
握り飯に齧り付きながら、千夜は答える。ミサキはふわりと羽ばたいて、千夜の目の前にやってきた。
「千夜はこのままでいいの? 逃げるなら手を貸すけど。こっちの事情に付き合ってもらてるんだし」
「別に構わないわ。どうせどこも同じだもの」
大日本帝国にいる以上、自分が大事にされることはない。家を出ようと身分を隠して仕事を探したこともあったが、黄泉返りを理由に断られてばかりだった。それを考えれば、雨風しのげて最低限の食事が手に入る今の立場は悪くはない。
「それに放置してくれるなら、それだけ自由な時間が増えるってことでしょう。むしろありがたいわ」
千夜の役目を考えるなら尚更、と。そう思いながら、握り飯の残りを口の中に放り込む。
不意に、きぃいいんと、耳鳴りが聞こえてきた。ばっと北東の方角に目を向ける。遠く離れた場所から身の毛がよだつような気配を感じた。
ミサキが声を低くしながら訪ねてくる。
「開いたんだ」
「ええ。『仕事』の時間だわ」
千夜は頷くと、箪笥の中から黒い着物、薄青の糸が巻かれた糸巻きを取り出した。着ている浅黄色の着物を脱いで、黒い振袖と袴を穿く。長い黒髪を頭の上に結い上げて、鈴のついたかんざしで止めると、ちりんと清らかな音を立てた。口布をつけて顔を隠すと、全身黒い烏のような出で立ちになる。糸巻きを懐に忍ばせた千夜は、ミサキの方を振り向いた。
「いつもの、よろしく」
ミサキは答えるように自らの羽根を引き抜き、宙に放り投げる。たちまち羽根は人の形をとり、浅黄色の着物を着た千夜にそっくりな姿に変わった。千夜が『仕事』に行っている最中、これが身代わりとなってくれる。
準備を終えた千夜は、縁側に出て革のブーツを履く。見上げると、空には三日月が昇っていた。薄雲に隠されたそれは、ぼんやりとした不気味な光を放っている。
静謐な夜の空気に混じり、この世の者ではない、おぞましい気が千夜の体を絡め取る。常人では感じ取れないその気配に、千夜は薄く微笑んだ。
「いい夜じゃない」
「不謹慎だね」
呆れるミサキの横で、千夜は思い切り地を蹴った。



