ルミナス ― 境界の均衡者

東京スカイツリー最上階。

夜景が広がる。

窓の向こうに無数の光。

歓声。

スマートフォンのシャッター音。

その瞬間。

――空気が裂けた。

音はない。

だが空間が縦に歪む。

黒い亀裂が、夜空に走る。

望の瞳がわずかに細まる。

次の瞬間。

男性の身体が横にずれた。

遅れて、血が噴き出す。

悲鳴。

だが誰も何が起きたのか理解できない。

「な、なに……?」

女性の腕が、何もない空間で断たれる。

見えない刃。

何かがいる。

だが見えない。

パニックが爆発する。

人が押し合い、転び、叫び、出口へ殺到する。

床に尻餅をつく小さな子供。

親とはぐれ、立てない。

その背後。

空気が歪む。

ゆっくりと、悪意が近づく。

望が動く。

子供の前に滑り込む。

抱き寄せる。

その瞬間。

見えない刃が振り下ろされる。

火花。

ノクスが受け止める。

金属ではない。

空間干渉の衝撃。

衝撃波が床を震わせる。

ガラスが軋む。

子供が泣き叫ぶ。

「大丈夫だ」

望の声は低く、落ち着いている。

腕で子供を庇いながら、視線は歪みを捉える。

黒い影が輪郭を持ち始める。

角。

裂けた翼。

歪んだ口。

上級悪魔。

「管理者か……」

空気が重い。

圧がある。

リリアは動かない。

ただ静かに見上げる。

金色の瞳が、亀裂の奥を見る。

「ほう」

低く、冷たい声。

「上級が境界規定を破るか」

悪魔が笑う。

「王は認めぬ」

空間が震える。

再び刃が走る。

望は子供を抱えたまま回転する。

床を蹴る。

人間の速度ではない。

ノクスが銃形態へ。

引き金。

圧縮された境界弾が放たれる。

悪魔の肩が弾ける。

だが再生する。

「遅い」

悪魔の声。

見えない刃が望の背を狙う。

リリアの声が響く。

「望よ」

一瞬。

空間が凍る。

悪魔の動きが鈍る。

王の圧。

ほんの一瞬の拘束。

望が子供を安全圏へ投げる。

転がるように床を滑らせる。

そして踏み込む。

ノクスが刃へ変形。

黒い光が縦に走る。

空間ごと断つ。

悪魔の翼が裂ける。

絶叫。

だがまだ核が残る。

悪魔が吠える。

「我らは認めぬ……!」

リリアの金色が深くなる。

圧が増す。

空気が震える。

「愚か者が」

望が踏み込む。

ノクスを逆手に持ち替える。

刃が悪魔の胸へ。

核へ。

一閃。

空間が裂け、悪魔の中心が崩壊する。

絶叫が歪み、霧散する。

亀裂が閉じる。

静寂。

残るのは悲鳴と混乱。

人間には事故にしか見えない。

望は子供の元へ戻る。

抱き上げる。

「怪我はないか」

子供は泣きながら頷く。

遠くで母親の叫び声。

再会。

抱き合う。

リリアが歩み寄る。

「境界規定を破るとはな」

望が低く言う。

「挑発だ」

「あるいは宣戦布告」

夜景は変わらない。

だが、世界の裏で線が引かれた。

退屈は終わった。

本格的に。

スカイツリー最上階。

パニックは続いている。

泣き声。
叫び声。
血の匂い。

だが“悪魔”はもういない。

救急隊が到着する。

警備員が動く。

人間の目に見えるのは、不可解な切断事故。

ガラスは割れていない。

凶器もない。

説明のつかない惨状。

望は静かに状況を見渡す。

生存者。
重傷者。
即死。

救えなかった者が数人。

「……」

リリアは無言。

金色の瞳が冷たい。

「助からぬ者は」

「無理だ」

望は短く答える。

時間は戻らない。

蘇生はしない。

均衡は保つが、奇跡は起こさない。

それがルミナスの規律。

子供が母親に抱きしめられている。

だが、見てしまった。

見えない刃。

歪む影。

理解はできていないが、恐怖は刻まれている。

リリアが言う。

「植えるか」

「ああ」

望は子供の前にしゃがむ。

優しく目を見る。

「怖かったな」

子供は震えながら頷く。

望の指先が、子供のこめかみに触れる。

微弱な干渉。

記憶の縫合。

悪魔は消える。

代わりに――

“刃物を持った男が暴れた”という記憶へ。

恐怖は残す。

だが、理解できる形に変える。

子供の呼吸が落ち着く。

「……大丈夫だ」

母親が何度も頭を下げる。

望は立ち上がる。

リリアが言う。

「人間は、目に見える悪人を欲する」

「そうだ」

「見えぬものでは納得せぬ」

「だから用意する」

望はスマートフォンを取り出す。

短い番号を押す。

数秒で繋がる。

「俺だ」

無機質な声。

「スカイツリー案件、上級一体排除」

沈黙。

「被害者複数。犯人が必要だ」

向こうが理解する。

望は続ける。

「日本の悪魔召喚に関わった収容者がいるな」

一瞬の間。

「……はい」

「あれを使え」

冷たい声。

「人格は壊れているが、構わん」

リリアは静かに聞いている。

「記憶を事件と統一性を持たせろ」

「刃物による無差別殺傷」

「映像も整合性を取れ」

向こうの声が淡々と返す。

「承知しました」

通話が切れる。

夜景は変わらない。

だが数時間後には、

ニュースが流れる。

“精神錯乱の男による凶行”

“動機は不明”

“単独犯”

人間は納得する。

リリアが言う。

「冷酷じゃな」

「均衡だ」

「罪人を使うとは」

「利用価値があるなら使う」

望は空を見る。

もう裂け目はない。

「……次はない」

低い声。

リリアが小さく笑う。

「望」

「なんだ」

「退屈は終わったな」

望は答えない。

サイレンが夜に響く。

そしてルミナスは、静かに痕跡を消していく。