ルミナス ― 境界の均衡者

暖簾が揺れ、夜風が流れ込む。

寿司屋の温かい空気から一歩外へ出た瞬間、
街の冷えた湿気が肌に触れた。

リリアは満足げに小さく息を吐く。

「悪くなかった」

「九割戻ったんだろ」

「完全ではない」

望は財布をしまい、淡々と言う。

「戻るぞ」

空間転移の準備に入ろうとした、その時。

リリアが動かない。

「……どうした」

「嫌じゃ」

即答だった。

望の水色の瞳が、わずかに細まる。

「何だと」

「我は帰らぬ」

金色の瞳が夜を映す。

「しばらく日本で遊ぶのじゃ」

沈黙。

遠くで車の音がする。

望は冷静に言う。

「境界が緩んでいる」

「知っておる」

「なら戻るべきだ」

「だから残る」

リリアは楽しそうに笑う。

「面白い匂いがする」

望は数秒、思考を巡らせる。

境界値0.8%低下。

素人召喚。

本来応じない低級の押し出し。

偶然にしては微妙だ。

だが緊急ではない。

「……三日だ」

リリアの瞳が輝く。

「ほう?」

「三日だけだ。それ以上は戻る」

「短いのう」

「妥当だ」

リリアは満足げに頷いた。

「よい」

一歩、望に近づく。

「お主も遊べ」

「仕事だ」

「堅い男じゃ」

「誰のせいだ」

くすりと笑う。

その笑いが、ふと止まる。

「望」

「なんだ」

「あの男」

望の視線が僅かに動く。

「寿司屋のか」

「うむ」

金色の瞳が、夜の奥を見透かすように細まる。

「混ざっとるな」

空気が変わる。

望の表情が一瞬で引き締まる。

さきほどまでの柔らかさは消える。

「……何が」

「血じゃ」

リリアは淡々と言う。

「しかもかなり濃い」

思考が走る。

境界異常。

素人召喚。

偶然の連鎖か。

「異界側か」

低い声。

完全に仕事の顔。

だが、リリアはあっさり笑う。

「案ずるな」

「何?」

「力はない」

あまりに軽い。

「ただの血の混ざり者じゃ」

望は目を細める。

「自覚は」

「なかろう」

「危険性は」

「今は皆無」

リリアはくるりと回る。

金髪が夜に弧を描く。

「我らが触れれば、目覚めるやもしれぬがな」

望は理解する。

刺激になる。

均衡を崩しかねない。

「……放置だな」

「うむ」

リリアは楽しげに言う。

「海の匂いがする」

望の眉が僅かに動く。

「人魚か」

「おそらく」

沈黙。

夜は何事もなく流れている。

だが見えない層で、確かに揺れている。

「今は関わらぬ」

望が言う。

「三日だ」

「分かっておる」

リリアが横に並ぶ。

「混ざり者は放っておけ」

「そうする」

二人は歩き出す。

銀と金の影が、街灯の下に伸びる。

退屈は終わり始めている。

境界は、静かに揺れている。

そして日本に、真祖が残ることになった。

三日間。

それが偶然で終わるかどうかは、まだ誰も知らない。