二時間目。
さっきから、目の前の黒板がぐにゃぐにゃと歪んで見える。
……ヤバい。マジで、ヤバいぞこれ……。
朝、類に会ったときは、あんなに元気だったはずなのに。
上履きを隠される嫌がらせから類が助けてくれたときは、アドレナリンがドバドバ出ていて気づかなかった。でも、一度安心しちゃったせいか、今になって猛烈な体調不良が俺を襲ってきている。
頭がふわふわして、まるで雲の上を歩いているみたいだ。
隣の席では、類がいつも通り涼しい顔でペンを動かしている。その横顔があまりに綺麗で、見ているだけで心臓がバクバクする……いや、これは恋とかじゃなくて、完全に風邪に風邪だと思う。
「……っくしゅん!」
うっ……うぅ……。
ダメだ……ここで倒れたら、類に「チビのくせに無理するからだ」ってバカにされる……!
そう思って必死に背筋を伸ばそうとしたけど、身体が言うことを聞かない。
気づけば俺は、隣に座っている類の制服の袖を、すがるようにギュッと掴んでいた。
「……友?」
類がこっちを見た。その低い声が、熱でぼーっとした頭に心地よく響く。
……あ、ダメだ。
この声、この匂い、好きだ。
「……るい、なんか、世界が回ってる……」
気づいた時には、俺の身体は類の方へと倒れ込んでいた。
俺の視界が急激に傾いて、そのまま類の肩に頭がぶつかった。
あ、やべ。汚しちゃう。
プロテインの粉、まだついてるかも。
そんな失礼なことを考えながらも、類の体温が意外と高いことに驚いていた。いつもは氷みたいにクールなくせに、触れると、あいつもしっかり生身の人間なんだってことが伝わってくる。
「おい、友。しっかりしろ」
類の、焦ったような声が聞こえる。
ガタッと椅子が鳴る音がして、次の瞬間には、類の大きな手が俺の額に置かれていた。
「……っ、熱いな」
「……へへ、類の手、つめたくて気持ちいい……」
俺がヘラヘラと力なく笑うと、類は一瞬だけ表情を強張らせた。
それから、俺の腰を支えて強引に立ち上がらせる。
「先生、南沢の体調が悪いので、保健室に連れて行きます」
類は先生の返事も待たずに、俺の腕を自分の肩に回した。
クラスの奴らが「おお?」とか「大丈夫か?」とかザワついているのが聞こえるけど、今の俺にはそれを振り返る余裕なんて一ミリもない。
廊下に出ると、類はさらに力を込めて俺を引き寄せた。
ほとんど抱きかかえられるような形になって、俺の心臓はさらにうるさくなる。
「……歩けるか」
「……うん。なんとか。ごめん、類……」
「謝るな。お前が無理して学校に来た理由なんて、大体想像がつく」
類の声が、いつもより低くて、少しだけ不機嫌そうに聞こえた。
「……類に…会いたくて、むり…した……」
廊下を歩く足音が、静かな校舎に響く。
一歩、歩くごとに、類の制服から柔軟剤の匂いと、あいつ自身の匂いが混ざり合って鼻をくすぐる。
苦しいはずなのに、なんだかすごく安心している自分に驚く。
たどり着いた保健室のドアを、類は片手で静かに開けた。
運がいいのか悪いのか、養護教諭の先生の姿はない。
「……ここに座れ」
類は一番奥のベッドに俺を座らせた。
白いシーツが、窓からの光を反射して眩しい。
類は無言のまま、ぐるりとベッドを囲むようにカーテンを閉めた。
一瞬で、世界が切り取られた。
狭いカーテンの向こう側。俺と、類だけの密室。
類が俺の目の前に膝をついて、じっと俺の顔を覗き込んできた。
「友」
「……なに?」
「さっき、俺に会いたくて無理したって言ったよな」
あ……え?
俺、なんか言っちゃった……?
類の手が、俺の頬をそっとなぞる。
冷たいはずの指先が、今は焼けるように熱く感じる。
頭がぼーっとして、もう建前なんてどこかに飛んでいっちまった。
熱のせいで、口が勝手に滑る。
俺は震える手で、目の前にいる類のシャツの胸元を、ぎゅっと握りしめた。
「……類、俺、お前のことが……す、き……」
気づいたばかりの俺の類への気持ち。でもたぶん、ずっと心にあったこの気持ちが、震える声と一緒にこぼれ落ちた。
それを口にした瞬間、世界が止まった気がした。
「……気づいてたよ」
「え……?」
類の声が、すぐ耳元で響いた。
類は俺の頬を包んでいた手を滑らせ、俺の後頭部をぐいっと引き寄せた。
「お前が俺を見る目が、ただの親友のそれじゃないことくらい……俺も好きだよ、友……ずっと前から好きだった」
「る、い……?」
気づいた時には、逃げ場はなくなっていた。
類がベッドに片膝をつき、俺をシーツに押し倒すようにして覆いかぶさってくる。
背中に感じるベッドの柔らかさと、目の前に迫る類の威圧感。
心臓が、耳元で警鐘を鳴らすみたいにドクドクと暴れている。
おいおいおい! 近い! 近いって! 類、お前、何するつもり……!
俺の頭の中は、パニック状態で真っ白になった。
類は俺の両手首を掴むと、そのままシーツに押しつけた。
逃げられない。類の、意外と強い腕の力に、俺はただ翻弄されるしかなかった。
「……逃げるなよ、友。お前から言い出したんだ」
類の顔が、一気に近づいた。
鼻先が触れ、お互いの熱い吐息が混じり合う。
……あ、これ……絶対、キスされるやつだ……。
拒絶する暇なんてなかった。
重なったのは、驚くほど熱くて、強引な唇。
「ん……っ!?」
頭の中が、真っ白な閃光で塗りつぶされた。
あいつの唇は、見た目のクールさとは裏腹に、驚くほど強欲だった。
吸い込まれるような、深い、深い、支配的なキス。
……るい、の、ばか……熱い、熱いって……!
俺は熱のせいか、類のキスのせいか分からない真っ赤な顔で、シーツの中に潜り込むしかなかった。
類の清潔な石鹸の匂いが、俺の五感を支配する。
俺は、ただただ唇に触れられるその感覚に身を委ねるしかなかった。
熱で朦朧とした意識が、さらに加速させていく。
「……ふはっ、る、い……まって……っ」
ようやく唇が離れたとき、俺は酸素を求めて激しく肩を上下させていた。
視界がチカチカして、類がどんな顔をしているのか直視できない。
「……友」
すぐ耳元で、類が囁く。
あんなに深くされたのに、あいつの声は少しだけ震えていて、それが余計に俺の胸を締め付けた。
「お前はもう、逃げられないからな」
「……っ、そんなの……言われなくても、わかってるよ……」
消え入りそうな声で答えるのが精一杯だった。
類は俺の額に、自分の額をそっと預ける。それだけで、俺の心臓はまたうるさく跳ね上がる。
すると、類は俺をベッドに押し倒したまま、何を血迷ったか自分のカバンに手を伸ばした。
取り出したのは――あの、パステルピンクのノートだ。
「え、ちょっと……類!? こんな時にそれ出すの!?」
「今すぐ書かないと……俺たちの、新しい関係を」
類は無表情のまま、でも耳の先を真っ赤に染めて、ペンを走らせる。
サラサラ、という音が、静かな保健室に響く。
書き終えると、類は黙ってそのページを俺の目の前に突き出した。
『本日の記録:二月十四日。俺たちは親友を卒業した。今日から、南沢友は俺の恋人だ。』
….…っ、うわあああああ!!
文字にされると、殺傷能力が百倍くらいに跳ね上がる。
俺は思わず、枕に顔を埋めて叫びたくなった。
「消せ! 今すぐ消せ! 恥ずかしすぎて、明日からこれに何も書けなくなるだろ!」
「嘘はつかないのがルールだ……それとも、今のキスは親友としてだったのか?」
類が、意地悪そうな笑みを浮かべて俺の顔を覗き込んでくる。
……だめだ、こいつ。絶対にわざと言ってる。
クールな王子様だと思ってたのに、中身はとんでもない独占欲の塊だったらしい。
「……わかったよ! 書けばいいんだろ、書けば!」
俺は類からペンをひったくると、震える手でそのすぐ下に書き殴った。
『追記:類が強引すぎて、熱が上がりそう。……責任、取れよ。バカ類。』
書き終えてノートを閉じ、類の胸に押し付ける。
類は一瞬、きょとんとした顔をした後、ふっと柔らかく笑った。
「……ああ。一生かけて、責任取るよ」
そう言って俺を抱きしめる類の腕には、もう親友の頃のような遠慮なんて、これっぽっちも残っていなかった。
