『じゃあ、この胸のドキドキの正体は……なに?』
翌日の昼休み。
俺は、珍しく一人窓辺で日光浴をしながら考えていた。
昨日、家に帰ってから日記を書こうとノートを開くけど、胸のドキドキの正体が何なのかしか思いつかない。あと、モヤモヤも。頭の中はその疑問でパンパンだ。そ
だから……書いた。
交換日記のルールは『嘘をつかないこと』だからな。
類ならきっと、この疑問に答えを書いてくれるはず。うん。
あとで、ノート渡そーっと。
よし。このことは、ひとまず忘れよう。
俺は窓辺から立ち上がり、パンパンと自分の頬を叩いた。
幸い、俺にはサッカーがある。
放課後のグラウンドで泥だらけになってボールを追いかけていれば、こんなワケのわからない悩みなんて、汗と一緒に流れて消えていくはずだ。
一応、俺はこれでもサッカー部のムードメーカーなのだ。
レギュラー争いは大変だけど、最近は調子もいい。今日の練習試合のメンバー発表だって、きっと名前を呼ばれるはず。
部活で活躍して、類に「お前、チビのくせにやるじゃん」なんて言わせてみせる。
そうすれば、この変なモヤモヤも晴れて、またいつもの俺に戻れるに決まってる。
「……待ってろよ、類」
カバンの奥にパステルピンクのノートを押し込む。
重い答えは類に預けて、俺は俺の居場所――グラウンドへ向かう準備を始めた。
まさか、あんな結果が待っているとも知らずに。
*
「――よし、今日のミニゲームはここまで! メンバー発表するぞ」
放課後のグラウンド。
顧問の先生の声が響くと、サッカー部の部員たちの間に緊張が走る。
来週行われる、他校との大事な練習試合。その遠征メンバーが発表される。
俺は、泥だらけのユニフォームの裾をギュッと握りしめて、先生の唇を見つめた。
心臓がうるさい。昨日類の前で鳴っていたのとは違う、ヒリヒリした鼓動だ。
「……以上だ。名前を呼ばれなかった奴は、学校で居残り練習。腐らずに次を狙え」
最後まで、俺の名前は呼ばれなかった。
「……っ」
一瞬、視界がぐらりと揺れた。
毎日、誰よりも早くグラウンドに出て、声を出して、居残り練習だって欠かさなかったのに。
「あーあ!マジかよ、俺落選かー!監督、見る目ないな~っ!」
気づけば、俺はいつもの『南沢 友』として笑っていた。
八重歯をのぞかせて、わざとおどけたポーズをとってみせる。
「ドンマイ南沢!次、絶対入るって!」
「おうよ!俺がいない間に、お前らボロ負けしてくんじゃねーぞ!」
チームメイトと肩を叩き合い、笑い声を響かせる。
「全然平気!」
「むしろ居残り練習で、秘密特訓しちゃうからな!」
そんな言葉が、自分の口から滑らかに溢れ出す。
でも、笑えば笑うほど、胸の奥の隙間が冷たく広がっていくのが分かった。
本当は、今すぐどこかに隠れて、この情けない顔を覆ってしまいたい。
そう思いながら、ふと、グラウンドの隅にある校舎の影に視線が向いた。
そこには、帰宅部のはずの類が、フェンスに背を預けて立っていた。
いつものように本を読んでいるわけでもなく、ただじっと、こっちを見ている。
遠くて表情までは分からない。でも、その真っ直ぐな視線が、俺の嘘の笑顔を剥がそうとしているみたいで、俺は慌てて目を逸らした。
……見んなよ。今は、お前にだけは見られたくないんだ……。
練習が終わる頃には、夕闇がグラウンドを飲み込み始めていた。
部室へ戻る途中、フェンスの陰で待っていた類が、無言で俺の前に立ちふさがった。
「……なんだよ類。まだ帰ってなかったのか?」
努めて明るく声をかける。でも、類は何も言わず、俺の顔をじっと見つめている。
その綺麗な瞳に見透かされるのが怖くて、俺はカバンから、無理やりパステルカラーのノートを取り出して、彼の胸元に押し付けた。
「……これ。今日の分、もう書いてあるから。読んどけよな。じゃあ、俺、居残り練習あるから!」
逃げるように背を向けようとした俺の腕を、類の冷たい指先が掴んだ。
「……友」
「なんだよ……あ、もしかして慰めてくれんの?『ドンマイ、チビ』とかさ」
おどけて振り返る俺に、類は一歩近づき、吐き出す息が触れるほどの距離で囁いた。
「……日記に書いたこと、忘れるなよ」
「え……?」
「『嘘はつかない』……お前が、決めたルールだろ」
そう言って、類は掴んでいた俺の腕をゆっくりと離した。
手元に残ったノートを制服のポケットにねじ込むと、彼は一度も振り返らずに校門の方へと歩き出した。
一人残されたグラウンド。
俺は、類に掴まれた腕の残熱をなぞる。
文字なら言える。
でも、声に出したら、きっと壊れてしまう。
俺は唇を噛み締め、誰もいないゴールに向かって、力任せにボールを蹴り込んだ。
*
その夜。
ご飯を食べて風呂に入り、部屋に戻ってきた俺は、もうヘトヘトだった。
ドサッと倒れ込むようにベッドにダイブ。類の言葉が何度も頭の中でリフレインする。
『嘘はつかないこと』
……書く、か……。
ベッドから力なく降りて勉強机の前に立つと、カバンの中からノートとシルバーのシャーペンを取り出す。そして、シャーペンを握る指先に力を込めた。
『本当は、悔しかった。俺がマジになるなんて類は笑うかもしれないけど、練習も頑張ってしてたし、俺にしては上出来だったんだ。なのに……努力してもダメなら、練習なんてする意味あるのかよ』
書いているうちに、視界がじわりと滲んだ。
誰も見ていないはずなのに、俺は慌てて手の甲で目をこする。
類のバカ。
『嘘はつかない』なんてルール、作らなきゃよかった。
こんな情けないこと、あいつに教えたくなかったのに。
でも、書き終えてシャーペンを置いたとき、不思議とさっきまで喉の奥に詰まっていた塊が、スッと消えていくのが分かった。
今までは、弱音を吐くのが怖かった。
『明るい南沢』でいなきゃ、みんな俺のそばからいなくなっちゃうんじゃないかって、心のどこかで思っていたから。
でも、類は違う。
俺がどんなにアホなことを書いても、情けない姿を見せても、あいつは呆れながらも隣にいてくれる。
その事実が、今、ものすごく安心する。
誰にも言えない、誰にも見せたくない、本当の俺を知っている人がすぐそばにいる。
ただそれだけのことが、今の俺には、なんだかたまらなく幸せに感じた。
「……あーあ。明日、どんな顔してノート渡せばいいんだよ」
鼻をすすりながら、俺は小さく笑った。
明日になれば、また学校で『サッカー部のムードメーカー』を演じなきゃいけない。
でも、世界中でたった一人、類だけには、俺の嘘がバレている。
それだけで、明日もまた頑張れるような気がした。
*
翌朝。
教室に入り、真っ先に類の席に向かった。
「はいっ、これ」
落ち着いてなんていられなくて、慌て気味にノートを差し出した。
「……ん」
俺がどんな思いで本音を綴ったのか、類が知らないのは当然だ。だけど、いつもと変わらず本を読む涼しげなその態度に、何だか拍子抜けする。
でも、二時限目の授業が始まる前のほんの数分前だった。
「……ほら、返事」
「えっ、もう?」
「……うん。じゃあ」
ノートを俺に返すと、席に戻っていく類。
早く中を見たい。でも、なんて書かれているか怖くてたまらない。
膝の上で何度も手を握り締め、意を決してページをめくった。
「あ……」
めくったページの端が、少しだけ折れ曲がっていた。
類が、これを読みながら指をかけていた跡がある。
そこだけ紙が少し柔らかくなっているのを見て、なんだか類と直接指が触れ合っているような、よく分からないけど、いけないことをしているような背徳感に襲われる。
トクン、と心臓が跳ねる。
俺は震える指先で、新しく綴られた類の文字を追った。
『お前が居残り練習してたの、図書室の窓から見えてたぞ。選んだ顧問の目が節穴なだけだ。気にするな。お前の努力が消えるわけじゃない』
「…………っ」
視界が、一瞬でじわっと滲んだ。
慌ててまばたきをして、溢れそうなものを堪える。
「……なんだよ、それ……」
クラスの誰も、部活の仲間でさえも気づかなかった俺の影の努力。
静かな図書室から、こいつだけはずっと俺を見ていてくれた。
『ドンマイ』なんて軽い言葉より、何万倍も、今の俺にはこの不器用な肯定が刺さった。
胸の奥に広がっていた冷たい隙間が、温かいもので満たされていく。
昨日、一人でゴールにボールを叩き込んでいた時の孤独が、音を立てて溶けていった。
*
休み時間のチャイムが鳴る。
堪えきれなくなって、いつものように、窓側の一番後ろの自分の席で読書をしている類を振り返った。
本当は「ありがとう」って言いたい。でも、喉の奥が熱くて、上手く言葉がまとまらない。
じっと見つめすぎたせいか、類が本から視線を上げた。
俺は何も言わずに席を立ち、類に近づいた。
「……なんだよ。ニヤニヤして気持ち悪い」
「なっ……! うるせーよ! ニヤニヤなんてしてねーし!」
「してる。八重歯、出てるぞ」
「……っ!」
慌てて口元を押さえる。顔が、昨日の比じゃないくらい熱い。
さっきのあんなに優しい言葉が嘘のように、こいつはまたポーカーフェイスに戻っている。
でも、今の俺にはわかる。
このぶっきらぼうな態度の裏側に、どれだけの深い優しさが隠されているか。
「類」
「……なに?」
「やっぱりお前、いいやつだな」
「……は?自覚過剰。早く次の教科書出せ、チビ友」
「なっ……!言ったな、このっ」
類はまた本に視線を戻したけど、その耳の端が、ほんの少しだけ赤くなっていた。
昨日の悔しさは、もうどこにもない。
今はただ、静かにページをめくる顔が眩しくて、まともに見ることができない。でも、ずっと見ていたい。
心臓が、さっきから不整脈どころじゃない騒ぎ方をし始めている。
つかえていたモヤモヤと、この胸の痛いくらいのドキドキの正体。
……俺、まさか……類のこと……?
これが何なのか類に答えを書いてもらうまでもなく。俺はもう、自分の心に嘘をつけなくなっていた。
