二月十四日。
世間じゃ『バレンタイン』なんて言って、街中が甘い匂いに包まれてキラキラしてるらしいけど。
俺が通う私立笹竹男子高校に限っては、そんなの都市伝説だ。ここにあるのは『青春』じゃなくて、手に負えないレベルの野郎どもの暴走祭り。ただそれだけ。
女子の目がないっていうのは、本当に恐ろしい。ここでは『カッコつける』とか『常識』なんて言葉はとっくに絶滅してて、もはや法律も先生も関係ない、ただの弱肉強食の世界(スラム街)と化していた。
一年前のバレンタインの日。
廊下を歩けば、うちのサッカー部の主将が「俺の魂の手作りだぁあ!」なんて叫びながら、真っ黒に焦げたダークマターみたいな塊――チョコ、なんだよね?
これを、涙目の後輩の口に無理やりねじ込んでいるのを見かけた。
下駄箱を開ければ、期待してたラブレターなんて一枚もなくて、出てくるのは飲みかけのプロテインとか、なぜか煮干しの詰め合わせ。
……ねえ、誰が喜ぶのこれ?
男子の友情、重すぎ。不気味すぎ。
極めつけは昼休み。
購買部では、この時期限定の『超・濃厚爆弾チョコパン』を奪い合って、受験目前の三年生たちが「糖分補給じゃあああ!」って鬼の形相で暴動を起こしていた。パン一個のためにそこまでやる!? もはや大昔の合戦か何かの映像を見てる気分だった。
女子がいないからこそ、男同士でバレンタインをネタにして、ふざけ倒して、無茶して笑いを取る。それがこの学校の、不毛すぎる『お決まり』なんだって、俺も今までは一緒に笑ってた。
でも……。
今の俺――南沢 友(みなみさわ とも)は、そんなお祭り騒ぎに入る気なんて一ミリも起きなかった。放課後の教室。オレンジ色の夕日が切なく差し込む中、俺は自分の机に顔を伏せて、本日百回目くらいの溜息をついていた。
「……虚しい。死ぬほど、虚しいよぉ」
口から出た言葉は、暖房でカラカラの空気に吸い込まれて消えた。自慢の茶髪をぐしゃぐしゃに掻きむしる。普段なら「プロテインチョコ最高!」なんて一緒に踊ってるはずの俺が、今は自分でもわかるくらい、死んだ魚のような目をしてる。
原因は、今朝の登校中だ。俺は、見てはいけない『異世界』を見てしまった。
駅を降りて、隣にある共学の高校の前を通ったときのこと。そこには、うちの学校には逆立ちしたって存在しない『奇跡』が転がっていたんだ。
校門の前で、白い息を吐きながら、一生懸命に小さな袋を差し出す女の子。それを受け取る男の子は、耳まで真っ赤にして頭をかいて、もうニヤニヤが止まらないって感じ。
そこには間違いなく、キラキラで、甘酸っぱくて、瑞々しいピンク色の空気が流れてた。二人だけの世界が、そこにはあったんだ。
「……あんなの、不公平すぎるだろっ」
ひるがえって、俺の周りはどうだ。
教室の隅じゃジャージ姿の奴らがプロレスごっこ。黒板の隅には『リア充爆破しろ』なんて物騒な落書き。
俺だって、あんな風に女の子とまでは贅沢言わないから、もっとこう、心が通い合うような、ドキドキするような、瑞々しいやり取りがしたいんだよ!
高校二年生。
青春ど真ん中のはずなのに、俺の胸の中で、何かがパチンと弾けた。このカサカサに乾ききった男子校の砂漠に、一輪の花を咲かせてやる。その情熱だけで、俺は立ち上がった。
カバンから、昨日死ぬほど恥ずかしい思いをしてゲットした『ブツ』を取り出す。駅ビルのファンシーショップで、女子中学生たちの「え、あの人、一人で何選んでるの……?」っていう冷たい視線に一時間も耐えて選んだ、最高にパステルカラーなノート。
表紙には、黒のマジックで、俺の決意をドカンと書いておいた。
『友情の証! ~純情育成・交換日記~』
昼休み、俺は全校生徒に宣言するつもりで、教室のど真ん中でノートを掲げた。
「みんな! 男だけの暴力的なバレンタインはもう終わりだ! このノートで、俺たちの枯れ果てた友情を、瑞々しく、しっとりと綴り合おうじゃないか!」
返ってきたのは、一瞬のシーンとした沈黙……からの大爆笑。
「友、お前ついに頭イカれたか?」
「日記とか女子かよw しかもそのノート、ピンクって!おい!」
「そんなの書いてる暇あったら筋トレしようぜ。ほら、プロテイン飲む?」
全滅……。
一人残らず、俺のロマンチックな提案に乗る奴はいなかった。
みんな、このカオスな現状に満足しちゃってるんだ。瑞々しさなんて、筋肉の前には無力だってか……ちくしょー!
それから数時間。
放課後になって、みんな部活や遊びに消えていった。静まり返った教室。俺は、最後の一人にすべてを賭けることにした。
机に突っ伏したまま、隣の席をチラ見する。そこには、窓からの夕日を浴びながら、静かに本を読んでる奴がいた。
「……なぁ類、この世界から『愛』って消えちゃったのかな?」
返ってきたのは、ページをめくる乾いた音と、耳が凍りそうな低い声。
「……お前の脳みそと一緒に消えたんじゃないか。それより静かにしろ、今いいところだ」
中学からの親友、深瀬 類(ふかせ るい)。一ミリも顔を上げずに答える横顔は、ムカつくくらいに整ってる。長いまつ毛が頬に影を作ってて、本を持つ指先まで冷たい美しさがあるっていうか。いつ見ても『超絶イケメン』だけど、中身は驚くほど可愛げがない。
「ひどい! 俺の脳みそは今、バレンタインっていう重大事件を前にフル回転中なの! 知ってるだろ、類! あと一週間もすれば、この校舎は地獄なんだぞ!?」
「知ってる。去年はお前の下駄箱にプロテインの粉がぶちまけられてて、掃除が大変だったからな」
「そう! あの不毛な文化を変えたいんだよ! 悲しいじゃん! 俺はもっと瑞々しい、甘酸っぱいやり取りがしたいの!」
俺はガタッ! と勢いよく立ち上がった。勢い余って八重歯が唇に当たってちょっと痛かったけど、今は無視。カバンから、あのパステルカラーのノートを類に突き出すのが最優先だ。
「そこでこれだ! 名付けて『第1回・男子校バレンタイン撲滅、および純情育成・交換日記作戦』!」
「……さて、帰るか」
「待て待て待てーい! 置いてくなよ類! 全員に断られて、もうお前しかいないんだよ!」
入り口まで歩き出した類を、俺は必死に追いかけた。類は足を止めて、ゴミを見るような目で俺を振り返った。
「……お前、本当に暇すぎ。なんで俺が男と、しかもアホなお前と日記なんて書かなきゃいけないんだよ」
「いいじゃん、減るもんじゃないし!な?いいだろ?」
「……」
「なぁなぁ、俺たち高二だよ!?せっかくのアオハルなのに、こんな潤いのない学校生活はもう嫌なんだよぉ!」
切実な心の叫びをぶつけて、俺はその勢いで強引に類の制服のポケットに、ぎゅむっとノートをねじ込んだ。
類は、信じられないものを見るみたいにポケットと俺の顔を交互に見て「はぁ……」と深いため息をついた。
「……一言でも、いいんだな」
「もちろん! あ、『死ね』とか『バカ』とかはダメだからね?あと、重要なのは『嘘はつかない』こと」
「……ふーん。じゃあ『チビ』は?」
「ん~? 俺がそんなの許すと思ってんのかなぁ? 類くん?」
「……善処する。あと、先帰る。買いたいものあるから」
「え? じゃあ、俺も行く!」
「いい。お前がいると気が散る」
「なんだよ、それ!」
ほらな、中身は驚くほど可愛くない。
でも俺は、こいつのこういうとこ嫌いじゃない。じゃれ合いみたいなもので、本気で言ってないって分かってるからだ。だって、親友だし。
「……また明日な、友」
「あ、うん。またあした」
ボソッと呟いて歩き出す類の耳が、夕日のせいなのか、それとも寒いせいなのか、ほんの少しだけ赤く見えた。
*
「うぅ……さむっ……」
類よりちょっと遅れて校舎を出た俺は、マフラーを鼻までぐるぐるに巻いた。
二月の風は刺さるように冷たい。日が沈みかけると、さっきまでの太陽の温もりなんて一瞬で消えて、寒さが余計に身に染みる。
日記……類なら、きっと書いてくれるよな。
口が悪くてクールで、徹底的に愛想がない類。学校で、類が俺以外の誰かとつるんでるところなんて、中学の頃から一度も見たことがない。
でも、あいつは俺のくだらない冗談を無視しないで、必ずツッコミを入れてくれる。勉強を教えてくれるのも、愚痴を聞いてくれるのも、いつだって俺にだけだ。
なんだかんだ言って、あいつ、俺にだけは心を開いてくれてる――なーんて。
俺の自惚れなのかもだけど。
冷えた指先をポケットに突っ込んで、俺は歩くスピードを上げた。吐き出す息は真っ白で、鼻の奥がツンとする。
でも、明日、あいつがどんな顔をして、どんな言葉をあのノートに書いてくるのか。
それを想像するだけで、冷え切ってた身体の真ん中に、ぽっと小さな火が灯ったみたいに温かくなった。
