それから練習を続け、さらに二週間ほどが経った、四月下旬。
放課後、日直だった絃一郎は、少し遅れて音楽棟へと向かっていた。
外でのウォーミングアップを終え、音楽棟の入り口のガラス扉を開けると、そこから続く廊下にいた二人の生徒に目が留まる。
一人は、馴染みのあるスラリとした長身の女子生徒。声楽部の小清水だ。
隣には、絃一郎よりも一回り背が高いであろう、体格の良い男子生徒。彼とは面識が無かったが、音楽棟の職員室で先生と話し込んでいる姿を何度か見たことがある。確か、吹奏楽部の近藤だったっけ。
二人は、壁に設けられたホワイトボードを見ながら、険しい顔で何かを話し合っていた。
「お疲れ様です」
「あぁ、お疲れ、寺方くん! 日直ご苦労様」
絃一郎が控えめに声をかけると、こちらを振り返った小清水がニコッと口角を上げる。
「あの、何を見てるんですか?」
「あー……」
物々しい雰囲気に思わずたずねれば、小清水は言葉を探すように視線を彷徨わせる。
すると、隣で腕を組んでいた近藤が先に口を開いた。
「ここ数日、音楽棟で盗難が続いているんだ」
「えっ」
機嫌の悪さがありありと伝わってくる、強い口調だった。
二人の視線の先にある、音楽棟に関わる予定や連絡事項が掲示されているホワイトボード。よく見てみれば、そこに貼られたポスターやプリントの中に、『注意!』の字がデカデカと踊っていることに気が付く。盗難への注意を呼びかける貼り紙だ。
「と、盗難って……?」
「備品や私物が紛失している。特に声楽部内での被害が多いな。幸い、貴重品が無くなったということはないが、見過ごせる問題ではない」
「いやぁ、不甲斐ないよ。監視の目があればと思って、部長や私たち学年リーダーで見回りもしてるんだけど、中々効果が無くてさ」
「あぁ。夏に向けてパートオーデイションが始まる大事な時期だというのに、全く」
「本当にねぇ……」
近藤は顔をしかめ、小清水はため息をついて額に手のひらを当てた。
それから近藤は、鋭い視線を絃一郎へ向けると、説教にも聞こえるような口調で釘を刺す。
「君も、音楽棟に出入りするなら気をつけるように」
「はい。分かりました」
つられて強張った声でうなずいた絃一郎は、少し重くなった足取りで音楽棟の奥へと進んだ。
発声練習が終わると、各々次の練習場所へ向かう大移動が始まる。
絃一郎もまた、楽譜や譜面台を持った声楽部員たちに混ざって、個人練習室の扉がズラリと並んだ廊下を歩いていた。
向かっているのは、廊下の一番奥の角部屋。永海が借りている部屋である。
というのも、空室が無かったのだ。
個人練習室は、職員室で使用記録を記入して鍵を借りれば誰でも利用できるのだが、基本的には先着順。日直などで遅れる場合は、誰かに頼んで確保してもらうか、前もって借りておくのが暗黙の了解――というようなことを、空っぽのキーボックスの前で立ち尽くしていた時に聞かされた。出来ればもう少し早くに知りたかった。
途方に暮れていると、丁度そこへ、発声練習を終えた永海がやってきた。事情を話すと「僕の部屋、一緒に使う?」と誘ってくれたので、お言葉に甘えて居候させてもらうことにしたのだ。
そうして、練習に使うタブレット端末の貸出手続きをするという永海に鍵を渡され、一足先に個人練習室へ向かっていた、その道中。
「……ん?」
ふと、廊下の隅に何かが落ちていることに気が付いた。
廊下の中程にある、二階へ上がる階段の前。降りきった辺りに転がっている、蛍光ピンクの塊。
近付いてみれば、それは人形だった。奇抜な色のモコモコとした毛玉に、眼力の強い目のパーツと黒い細紐の手足。キラキラのラメや真っ赤なリボンでおめかしまでしているところを見るに、きっと誰かのお気に入りの物なのだろう。
……そういえば、これ、どこかで見たような。
記憶を掘り起こしながら拾い上げ、人形の真ん中を親指で押した瞬間。
――プピッ!
「うわっ、び、びっくりした……」
肩が跳ねた拍子に持っていた楽譜を取り落としそうになって、慌てて抱え直す。どうやら、押すと音が鳴るおもちゃでもあるらしい。
そこで、背後から足音が近付いてきた。
「どうしたの寺方くん」
「あぁ、永海先輩。これ拾ったんです。多分、落とし物だと思うんですけど……」
「ふうん?」
ほら、と人形を掲げてみせれば、不思議そうに首を傾げる永海。
「すみません、ちょっと職員室に届けてくるので、先輩は先に――」
「あ~~っ! あった!」
階段の上の方から降ってきた声に、鍵を渡そうとしていた手が止まる。
ぎょっとして見上げれば、階段の踊り場にいたのは、今まさに一階へ降りようとしている美作だった。
「てらちゃんありがと~っ! 探してたの!」
「美作先輩! これ、先輩のだったんですか?」
「そ! 願いを叶えてくれるおまじない人形のピピくんだよ~」
階段を駆け下りてきた美作は、受け取った人形を喋らせるかのようにプピプピ鳴らしてみせる。
「良かったぁ、てらちゃんが拾ってくれて。今度こそ無くしちゃったかと思った」
「今度こそ? よく無くなるんですか? この人形」
「う~ん、たまにね? 普段は鞄につけてるんだけど気付いたら無くなってて、音楽棟の落とし物ボックスに入ってるの。あたしの付け方が悪いのかな~?」
言われてみれば、と思い出す。この蛍光ピンクが美作の鞄で揺れているのを、いつか見た記憶がある。
そこでふと、やけに隣が静かなことに気が付いた。
「……永海先輩?」
「……」
永海はただ静かに、片肘に手を添え、もう一方の手の指先で唇に触れていた。切れ長な目は考え込むように伏せられている――その一瞬前、それが驚愕に見開かれていたのを、絃一郎は確かに見た。
だが、美作は大して気にする様子もなく、ウキウキと話し始める。
「そうだ、二人は聞いた? 物取り幽霊の噂!」
「……えっ? 幽霊?」
「あぁ、近藤の地雷だね」
永海は表情を変えずにうなずいた。
近藤といえば、あの吹奏楽部の部員だ。ホワイトボードの前で腕を組み、盗難に気をつけるよう釘を刺した男子生徒。
「あいつ、その話すると爆発するみたいに怒るんだよ。『幽霊なんて有り得ない! 犯人が罪から逃れるために流した、根も葉もない噂だ!』って」
「あーね。めっちゃ言ってそ~」
「な、なるほど……」
だから近藤は、あの時機嫌が悪そうだったのか。納得すると同時に、真面目で正義感のある人なのだろうな、と思う。
「ということは、もしかして……」
「そうっ。何でも、今音楽棟で起きてるのはただの盗難じゃなくてねーぇ……。みんなのものを取ってるのは、夜な夜な現われる幽霊だぁ! って噂なの!」
初めは細く弱い声で言い、幽霊の登場に合わせてワッと語気を強めて言う美作。絃一郎はたまらず呻いた。声楽部の肺活量をこんなところで活かさないでほしい。
「そ、そんなまさかぁ……」
「だって、誰も犯人を見た事がないし、起こったタイミングも分かんないし。しかも、人間にはぜ~ったい出来ない不自然な盗難もあるんだよ? そんなの、もうオバケしかないって!」
その嬉々とした声を聞けば聞くほど、自分の顔が引きつっていくのが分かった。
不意に美作が口を閉じ、ニヤリと笑う。
「んふふ。てらちゃん、オバケ怖いんだ?」
「こっ、怖くなんかないです!」
「も~っ、分っかりやすーい!」
悪戯が成功した子供のように笑う美作は、楽しそうに絃一郎の肩をつつく。絃一郎には、甘んじてそれを受け入れるしかなかった。口では否定したが、説得力のない顔になっている自覚はある。
「やめて。寺方くん嫌がってるでしょ」
「えへ。ごめんねてらちゃん。可愛くてつい」
その時、どこか廊下の先の方から美作を呼ぶ声が響いてきた。美作はすぐに笑いを引っ込めると、「じゃっ、練習頑張ってね!」と言い残し慌てて階段を駆け上がっていく。
その足音が聞こえなくなったところで、永海が言う。
「近藤の言う『犯人が流したカモフラージュのための噂』っていうのも一理あるとは思うけど。寺方くんは、そうは思ってないよね?」
「……そうですね」
内心を見透かされたようで、絃一郎は小さくうなずいた。
有り得ない出来事や存在しないものを幽霊だと思う気持ちは、絃一郎にも理解できる。あの日から――筝の前に座る先生を見ていながら、誰もいないと嘘をついた日から、ずっと。
だが、絃一郎にとって、幽霊は有り得る出来事で存在するものだ。そうでなければ、先生と過ごした日々も、この身を焼くような筝への思いも無かったことになってしまう。
「じゃあ、寺方くんは幽霊の仕業だと思う?」
「うーん、どうでしょう……」
そう聞かれると、素直にうなずけなかった。
それでも、「もし幽霊の仕業だとしたら」と考えた時、胸にモヤモヤとした感情が湧いてくることだけははっきりと分かる。
「……犯人が幽霊かどうかは分からないです。でも、実際に物が無くなっている部員さんがいるので……きっとその人たちは、幽霊だなんて言われても困るというか、納得出来ないというか……」
「だろうね」
「なので、ちゃんと犯人が分かって、無くなった物が持ち主に返ってくればいいなって思います」
「うん。そうだね」
永海は、かすかに口角を上げてうなずいた。それから、どこか遠くを見上げながら言う。
「誰かの意思によって盗難が行われてるのは確かだ。犯人が人間だろうと、幽霊だろうとね」
いやに確信めいた声。
つられて絃一郎も視線を上げるが、そこには踊り場の窓の向こうに広かる夕焼け空があるだけだった。四角いアルミサッシの額縁には暗い紫色の雲が浮かぶばかりで、すぐそこまで来ているはずの星の輝きはまだ見えない。
それでも、何か見えやしないと探していたから。
「その誰かが、早く返してくれるといいんだけど」
ボソリと声がした時、隣で永海がどんな顔をしていたのか、絃一郎には分からなかった。
放課後、日直だった絃一郎は、少し遅れて音楽棟へと向かっていた。
外でのウォーミングアップを終え、音楽棟の入り口のガラス扉を開けると、そこから続く廊下にいた二人の生徒に目が留まる。
一人は、馴染みのあるスラリとした長身の女子生徒。声楽部の小清水だ。
隣には、絃一郎よりも一回り背が高いであろう、体格の良い男子生徒。彼とは面識が無かったが、音楽棟の職員室で先生と話し込んでいる姿を何度か見たことがある。確か、吹奏楽部の近藤だったっけ。
二人は、壁に設けられたホワイトボードを見ながら、険しい顔で何かを話し合っていた。
「お疲れ様です」
「あぁ、お疲れ、寺方くん! 日直ご苦労様」
絃一郎が控えめに声をかけると、こちらを振り返った小清水がニコッと口角を上げる。
「あの、何を見てるんですか?」
「あー……」
物々しい雰囲気に思わずたずねれば、小清水は言葉を探すように視線を彷徨わせる。
すると、隣で腕を組んでいた近藤が先に口を開いた。
「ここ数日、音楽棟で盗難が続いているんだ」
「えっ」
機嫌の悪さがありありと伝わってくる、強い口調だった。
二人の視線の先にある、音楽棟に関わる予定や連絡事項が掲示されているホワイトボード。よく見てみれば、そこに貼られたポスターやプリントの中に、『注意!』の字がデカデカと踊っていることに気が付く。盗難への注意を呼びかける貼り紙だ。
「と、盗難って……?」
「備品や私物が紛失している。特に声楽部内での被害が多いな。幸い、貴重品が無くなったということはないが、見過ごせる問題ではない」
「いやぁ、不甲斐ないよ。監視の目があればと思って、部長や私たち学年リーダーで見回りもしてるんだけど、中々効果が無くてさ」
「あぁ。夏に向けてパートオーデイションが始まる大事な時期だというのに、全く」
「本当にねぇ……」
近藤は顔をしかめ、小清水はため息をついて額に手のひらを当てた。
それから近藤は、鋭い視線を絃一郎へ向けると、説教にも聞こえるような口調で釘を刺す。
「君も、音楽棟に出入りするなら気をつけるように」
「はい。分かりました」
つられて強張った声でうなずいた絃一郎は、少し重くなった足取りで音楽棟の奥へと進んだ。
発声練習が終わると、各々次の練習場所へ向かう大移動が始まる。
絃一郎もまた、楽譜や譜面台を持った声楽部員たちに混ざって、個人練習室の扉がズラリと並んだ廊下を歩いていた。
向かっているのは、廊下の一番奥の角部屋。永海が借りている部屋である。
というのも、空室が無かったのだ。
個人練習室は、職員室で使用記録を記入して鍵を借りれば誰でも利用できるのだが、基本的には先着順。日直などで遅れる場合は、誰かに頼んで確保してもらうか、前もって借りておくのが暗黙の了解――というようなことを、空っぽのキーボックスの前で立ち尽くしていた時に聞かされた。出来ればもう少し早くに知りたかった。
途方に暮れていると、丁度そこへ、発声練習を終えた永海がやってきた。事情を話すと「僕の部屋、一緒に使う?」と誘ってくれたので、お言葉に甘えて居候させてもらうことにしたのだ。
そうして、練習に使うタブレット端末の貸出手続きをするという永海に鍵を渡され、一足先に個人練習室へ向かっていた、その道中。
「……ん?」
ふと、廊下の隅に何かが落ちていることに気が付いた。
廊下の中程にある、二階へ上がる階段の前。降りきった辺りに転がっている、蛍光ピンクの塊。
近付いてみれば、それは人形だった。奇抜な色のモコモコとした毛玉に、眼力の強い目のパーツと黒い細紐の手足。キラキラのラメや真っ赤なリボンでおめかしまでしているところを見るに、きっと誰かのお気に入りの物なのだろう。
……そういえば、これ、どこかで見たような。
記憶を掘り起こしながら拾い上げ、人形の真ん中を親指で押した瞬間。
――プピッ!
「うわっ、び、びっくりした……」
肩が跳ねた拍子に持っていた楽譜を取り落としそうになって、慌てて抱え直す。どうやら、押すと音が鳴るおもちゃでもあるらしい。
そこで、背後から足音が近付いてきた。
「どうしたの寺方くん」
「あぁ、永海先輩。これ拾ったんです。多分、落とし物だと思うんですけど……」
「ふうん?」
ほら、と人形を掲げてみせれば、不思議そうに首を傾げる永海。
「すみません、ちょっと職員室に届けてくるので、先輩は先に――」
「あ~~っ! あった!」
階段の上の方から降ってきた声に、鍵を渡そうとしていた手が止まる。
ぎょっとして見上げれば、階段の踊り場にいたのは、今まさに一階へ降りようとしている美作だった。
「てらちゃんありがと~っ! 探してたの!」
「美作先輩! これ、先輩のだったんですか?」
「そ! 願いを叶えてくれるおまじない人形のピピくんだよ~」
階段を駆け下りてきた美作は、受け取った人形を喋らせるかのようにプピプピ鳴らしてみせる。
「良かったぁ、てらちゃんが拾ってくれて。今度こそ無くしちゃったかと思った」
「今度こそ? よく無くなるんですか? この人形」
「う~ん、たまにね? 普段は鞄につけてるんだけど気付いたら無くなってて、音楽棟の落とし物ボックスに入ってるの。あたしの付け方が悪いのかな~?」
言われてみれば、と思い出す。この蛍光ピンクが美作の鞄で揺れているのを、いつか見た記憶がある。
そこでふと、やけに隣が静かなことに気が付いた。
「……永海先輩?」
「……」
永海はただ静かに、片肘に手を添え、もう一方の手の指先で唇に触れていた。切れ長な目は考え込むように伏せられている――その一瞬前、それが驚愕に見開かれていたのを、絃一郎は確かに見た。
だが、美作は大して気にする様子もなく、ウキウキと話し始める。
「そうだ、二人は聞いた? 物取り幽霊の噂!」
「……えっ? 幽霊?」
「あぁ、近藤の地雷だね」
永海は表情を変えずにうなずいた。
近藤といえば、あの吹奏楽部の部員だ。ホワイトボードの前で腕を組み、盗難に気をつけるよう釘を刺した男子生徒。
「あいつ、その話すると爆発するみたいに怒るんだよ。『幽霊なんて有り得ない! 犯人が罪から逃れるために流した、根も葉もない噂だ!』って」
「あーね。めっちゃ言ってそ~」
「な、なるほど……」
だから近藤は、あの時機嫌が悪そうだったのか。納得すると同時に、真面目で正義感のある人なのだろうな、と思う。
「ということは、もしかして……」
「そうっ。何でも、今音楽棟で起きてるのはただの盗難じゃなくてねーぇ……。みんなのものを取ってるのは、夜な夜な現われる幽霊だぁ! って噂なの!」
初めは細く弱い声で言い、幽霊の登場に合わせてワッと語気を強めて言う美作。絃一郎はたまらず呻いた。声楽部の肺活量をこんなところで活かさないでほしい。
「そ、そんなまさかぁ……」
「だって、誰も犯人を見た事がないし、起こったタイミングも分かんないし。しかも、人間にはぜ~ったい出来ない不自然な盗難もあるんだよ? そんなの、もうオバケしかないって!」
その嬉々とした声を聞けば聞くほど、自分の顔が引きつっていくのが分かった。
不意に美作が口を閉じ、ニヤリと笑う。
「んふふ。てらちゃん、オバケ怖いんだ?」
「こっ、怖くなんかないです!」
「も~っ、分っかりやすーい!」
悪戯が成功した子供のように笑う美作は、楽しそうに絃一郎の肩をつつく。絃一郎には、甘んじてそれを受け入れるしかなかった。口では否定したが、説得力のない顔になっている自覚はある。
「やめて。寺方くん嫌がってるでしょ」
「えへ。ごめんねてらちゃん。可愛くてつい」
その時、どこか廊下の先の方から美作を呼ぶ声が響いてきた。美作はすぐに笑いを引っ込めると、「じゃっ、練習頑張ってね!」と言い残し慌てて階段を駆け上がっていく。
その足音が聞こえなくなったところで、永海が言う。
「近藤の言う『犯人が流したカモフラージュのための噂』っていうのも一理あるとは思うけど。寺方くんは、そうは思ってないよね?」
「……そうですね」
内心を見透かされたようで、絃一郎は小さくうなずいた。
有り得ない出来事や存在しないものを幽霊だと思う気持ちは、絃一郎にも理解できる。あの日から――筝の前に座る先生を見ていながら、誰もいないと嘘をついた日から、ずっと。
だが、絃一郎にとって、幽霊は有り得る出来事で存在するものだ。そうでなければ、先生と過ごした日々も、この身を焼くような筝への思いも無かったことになってしまう。
「じゃあ、寺方くんは幽霊の仕業だと思う?」
「うーん、どうでしょう……」
そう聞かれると、素直にうなずけなかった。
それでも、「もし幽霊の仕業だとしたら」と考えた時、胸にモヤモヤとした感情が湧いてくることだけははっきりと分かる。
「……犯人が幽霊かどうかは分からないです。でも、実際に物が無くなっている部員さんがいるので……きっとその人たちは、幽霊だなんて言われても困るというか、納得出来ないというか……」
「だろうね」
「なので、ちゃんと犯人が分かって、無くなった物が持ち主に返ってくればいいなって思います」
「うん。そうだね」
永海は、かすかに口角を上げてうなずいた。それから、どこか遠くを見上げながら言う。
「誰かの意思によって盗難が行われてるのは確かだ。犯人が人間だろうと、幽霊だろうとね」
いやに確信めいた声。
つられて絃一郎も視線を上げるが、そこには踊り場の窓の向こうに広かる夕焼け空があるだけだった。四角いアルミサッシの額縁には暗い紫色の雲が浮かぶばかりで、すぐそこまで来ているはずの星の輝きはまだ見えない。
それでも、何か見えやしないと探していたから。
「その誰かが、早く返してくれるといいんだけど」
ボソリと声がした時、隣で永海がどんな顔をしていたのか、絃一郎には分からなかった。
