カウンターテナーと十七絃 ~耳に残った呪いの音色を奏でるまで~

 音楽棟の職員室の前、個人練習室の鍵を返しに行った永海を待ちながら、ぼんやりと廊下に立ち尽くす。
 ……すごかったなぁ、永海先生のピアノレッスン。
 結局、部活終了のチャイムが鳴るまで、永海は絃一郎にピアノを教えてくれた。トリルの弾き方、弾きやすい指の運び方、スラーなどの音の鳴らし方のニュアンス。そういった技術的なことだけではなく、「ここは苦しさを歌ってる部分だから、そんな元気に弾かなくていいよ」だとか、「右手のこのメロディは歌と同じだよ」だとか。どれも一人では気付けなかったことばかりで、絃一郎はずっと目から鱗が落ちるような思いだった。これまでの十倍くらい上手くなった気さえする。
 永海の練習時間を奪ってしまった、申し訳ない気持ちもある。けれど今は、早く伴奏を仕上げて永海に歌ってもらいたいという思いに燃えていた。
 そんなことを思い返しながら、目の前を通り過ぎていく部活終わりの生徒たちを眺めていると、ある女子生徒の一団の中に見覚えのある姿を見つける。
 楽譜らしい本とクリアファイルを持った、青いジャージ姿の小さなお団子頭。美作だ、と思った瞬間、彼女の顔がぐるりとこちらを向いた。
 そうして視線がぶつかると、美作は一緒に居た生徒達と一言二言言葉を交わして別れ、すぐに駆け寄ってくる。
「伴奏ちゃんじゃん! お疲れ様!」
「お、お疲れ様です、美作先輩。あと俺は寺方です」
「じゃあ、てらちゃんね」
「えぇ……?」
 距離を詰め、下からまじまじと見つめてくる美作に、絃一郎は思わず上体を()らして逃げてしまった。気まずい。美作と面と向かって話すのは、「覚悟しときなさいよ!」と啖呵を切られたあの一件以来なのだ。
「てらちゃんさ、新歓来てくれてたって聞いたんだけど。あたしの伴奏もちゃんと見てくれたんでしょうね~?」
「…………正直に答えてもいいですか?」
「どーぞ」
「その、歌もピアノも一緒だったというか、ピアノも歌の一部みたいに聞こえて……正直、永海先輩の歌しか耳に入ってきませんでした」
 本心だった。だがこれでは、約束を守れませんでしたと言っているようなものだ。恐る恐る答えると、美作はグッと唇を巻き込んだしかめっ面で天井を向く。
 あぁ、やっぱりまずかったかな、なんて思い始めた、その時。
「わぁ、褒められちゃったね、貴音」
「み、みじゅー⁈」
 突然、美作が跳ねるように後ろを振り返った。背後から現れた小清水が、その両肩に手を置いたのだ。
 絃一郎も内心驚きながら「お疲れ様です、小清水先輩」と小さく頭を下げれば、小清水は「お疲れ寺方くん!」と爽やかに笑う。
「い、今の、褒め言葉でした? 『伴奏は見れませんでした』って言ってるのと同じじゃ……」
「そうよ? 伴奏っていうのは、そう思わせたら勝ちなんだから。最高の引き立て役でしたなんて言われたら、もうねぇ」
「そうだけど〜〜っ!」
「あはっ、照れてる照れてる」
 頬を膨らませた美作が、今度は小清水の肩を叩く。手加減など全く感じられない音が響いたが、小清水は楽しそうに笑い声を上げるばかりだった。
 痛くないのだろうか……なんて心配していると、その真っ赤な膨れっ面がこちらを向いた。美作は、絃一郎の胸へ人差し指を突き付けると、一息で捲し立てる。
「伴奏見れなかったのは許したげる! 歌を聞かせることが役目だってことは感じてくれたみたいだし! いや、ホントはちゃんと見ててほしかったんだけどっ……! とにかく! りっくんの伴奏になったからには、てらちゃんにも最高の引き立て役になってもらわないと困るワケ! 分かった?!」
「は、はいっ!」
「まぁ、永海の声に引き込まれて他が聞こえなくなるって感覚は、私にも分かるなぁ」
「それ~~っ! そうだけどね~~?! りっくん、えっぐいカウンターテナーだもん! むしろ聞かないってのが無理だけどねぇ⁈」
 納得した顔で言う小清水に、美作も勢いそのままにうなずく。
 そこでふと、気になっていた疑問を思い出した。
「そういえば、カウンターテナーって何なんですか?」
「……んん? りっくんから説明は?」
 絃一郎が首を横に振ると、美作は「も~っ、ま~た説明サボってる!」と顔を覆った。小清水は腕を組んでため息をついた。
「カウンターテナーっていうのは、永海の声域のことよ」
「高くてキラキラしてるのがソプラノ~、低くてどっしりしてるのがアルト~、っていうのと一緒!」
「あぁ、合唱のパート分けみたいな」
「そう! 女声と同じくらい高い音域で歌う男声をそうやって呼ぶの」
 美作によれば、裏声などを駆使して女声のアルトやメゾソプラノと同じくらいの音域で歌うのが一般的だが、永海はソプラノの音域まで出せるのだそうだ。だから「えっぐい」訳か。
「そういう難しい歌い方だから、ウチにはりっくんしかいないワケ。だから、てらちゃんには頑張ってもらわないといけないワケ!」
「は、はいぃ……!」
「こら、プレッシャーかけないの。――っと、噂をすれば」
 小清水が受付用の小窓から中を覗き込むように体を(かたむ)けると、ほとんど同時に職員室の扉が開く。
「お待たせ」
 職員室から出てきた永海は、小走りで絃一郎の隣までやってきた。「やっほー、りっくん」「お疲れ様」と手を振る二人には「お疲れ」と声をかける。
「ごめんね寺方くん、来月のレッスン確認してたら時間かかっちゃった」
「レッスン?」
「うん。声楽部には、校外から歌を教えに来てくれる講師の先生たちがいて、それぞれレッスンを受けてるんだよ」
「そうそう! あたしたち合唱班は毎週土曜日がレッスンの日!」
「僕の場合は木曜日。まぁ、独唱班は先生の予定に合わせて変更になることも多いけど」
 そこまで話すと、永海は持っていたメモ帳に視線を落とした。
「それで、来月、ゴールデンウイーク明けの木曜日にレッスンがあるから。そこまでには弾けるようになろうね」
「…………ちょ、ちょっと待ってください」
 絃一郎は、咄嗟に口元を右手で覆って、広げた左手を顔の前に出した。
 今、ゴールデンウイーク明けまでに――つまり、あと一か月もしないで弾けるように、って言ったか?
「そりゃあ、伴奏を引き受けたからには、レッスンを受けるとかステージに立つとか、そういうこともあるだろうと覚悟はしてましたけど……。その、ゴ、ゴールデンウィーク明けまでっていうのは……?」
「あぁ、寺方くんにお願いしたのは九月の大会で歌う曲だから。全部で三曲あるから、まずは一曲、五月中には仕上げてもらって……言ってなかったっけ?」
「聞いてませんよ⁈」
 全部初耳だった。いやそんなほずは、と信じられない思いで記憶を遡ってみるが、思い出すのは歌について熱く語る永海の姿ばかり。やっぱり言われた記憶は無い。どう考えたって聞いていない。
 今日の演奏を思い返す。
 まだ片手しか弾けていない。伴奏と呼ぶには程遠く、永海が歌うことすらもなかった。
 ……これを、あと一か月で?
 絃一郎が戦々恐々としていると、小清水が永海の肩に手を置いて諭すような口振りで言う。
「永海、その説明サボる癖、絶対直した方がいい。寺方くんが可哀そうだよ?」
「……どうやったら直ると思う?」
「いい方法は思い浮かばないわね。貴音はどう?」
「歌以外のこと考えられるようになったら直ると思う。だからもうぶっちゃけ諦めてる」
「……」
「が、頑張って練習しますね……」
 すっかり(しぼ)んでしまった気持ちを奮い立たせて、絃一郎は頼りないガッツポーズを作ってみせる。
 今はまだ、伴奏者未満だけれど。最高の引き立て役になれるように。自身の弾いた鍵盤の音に重なった歌が、その輝きを増していけるように。