カウンターテナーと十七絃 ~耳に残った呪いの音色を奏でるまで~

 弾き終えた鍵盤から指を浮かせたまま、絃一郎は五線譜とにらめっこしていた。
 三畳半ほどの小さな防音室にいるのは、ぴったり収まったグランドピアノと、その前に座った絃一郎だけ。いくら音を間違えても、同じフレーズを弾き直しても、誰にも文句を言われることはない。
 ふと、背後の扉越しにうっすらと聞こえてくる、沢山の人が廊下を歩く足音や話し声。時計を見れば、午後五時を少し過ぎた頃だった。
 そろそろ来るだろうか。
 と思った直後、ガチャッと大きな音を立てて勢い良く防音ドアが開いた。
「寺方くん! 弾けるようになった?」
「ノックしてくださいっていつも言ってるじゃないですか、永海先輩」
「そうだった。ごめん」
 突然飛び込んできた、ジャージ姿の永海。謝罪の言葉を口にしたというのに、揺れる前髪の間から見える瞳はキラキラと輝いている。きっと、期待の方が上回っているのだろう。
 思った通りだったなぁ、と彼に驚かなくなってきている自分に気が付いて、絃一郎は頬を緩めた。

 永海の伴奏を引き受けてから――声楽部に入部してから、一週間が経った。
 最初の頃は、部員たちに詰め寄られるんじゃないか、なんてビクビクしていたが。この音楽棟にも、ようやく身構えず入れるようになってきた。
 音楽棟は、鈴ヶ丘高校の北側に建つ特別教室棟の一つ。一棟全てが音楽のために作られている、まさに音楽活動の拠点となる場所である。一階には三つの音楽室や今まさに絃一郎がいる個人練習室が、二階にはレッスン室や小さなコンサートホールなどがあり、多くの生徒が音楽に打ち込める充実した設備が揃っている。
 永海と絃一郎が所属する声楽部もまた、ここで日々練習を積んでいる。
 声楽部の練習スケジュールは、まずストレッチやランニングといったウォーミングアップで体をほぐし、その後は合唱班、独唱班、伴奏班という三つのチーム各に別れての練習となる。とはいっても、伴奏しかしない絃一郎には、他の班が行うような発声練習やパート練習が無い。ウォーミングアップが終われば、後はほとんどが個人練習の時間だった。
 それは、独唱しか歌わない――しかも、人と一緒に歌うことを嫌って全て個人で行っている――永海も似たようなものらしい。なので、永海の個人練習が一段落するという午後五時頃になると、こうして絃一郎のところへ顔を見せにくるのがお決まりとなりつつあった。
 ふらっと現れては、助言をくれた後「楽しみにしてる」と言って去っていく。そんな永海の「弾けるようになった?」攻撃に応えるべく、絃一郎は日々ピアノと格闘しているのだった。

 だが、この日の永海は違った。
「それで、どう? できた?」
「まだですって。やっと片手で最後まで通せるようになったくらいで……」
 永海はこれまで、腰を落ち着けることはなかった。なのに、部屋の隅にあったもう一脚のピアノ椅子を引っ張ってきて、絃一郎の右隣に座ったのだ。
「ちょっと聞かせてよ」
「え」
 ギョッとして隣を見れば、少し身を乗り出してこちらを見上げる黒い瞳。何も言わずとも、何の表情もなくとも、その目だけで胸を(おど)らせているのが伝わってくる。
「い、いや、待ってください。まだ両手で弾けないんです、伴奏にすらなってませんよ?」
「なら右手だけでいい」
「それも、とても聞かせられるような出来じゃ……」
「いいから。待てなくなっちゃった。というか、聞きたくなっちゃった。君の音」
「う……」
「ほら、弾いてみて」
 優しい声に促され、絃一郎は渋々ピアノに向き直る。
 意を決し、深く息を吐き、そっと鍵盤の上に右手を置いて。
「……」
 指が動かなかった。
 あれ? どの鍵盤から弾いたらいいんだっけ?
 どうやって、動かしていたんだっけ?
 何度も練習したはずなのに。確かに弾けるようになったはずなのに。永海が聞きたいと言って、隣にいてくれるのに。そう思えば思うほど、頭が真っ白になる。
 うつむいた拍子に、鍵盤の蓋の黒に反射した自分の顔が見えた。土気色だった。緊張しているのがありありと分かる、ひどい顔だ。
 ……本当に緊張だろうか? 指先どころか体の芯まで冷え切って、血の気はとう引いているのに心臓が鳴り止まない、この感覚が?
 そこまで自覚して、やっと気が付く。
 ――怖い。自分の音を誰かに聞かれるのが、たまらなく恐ろしい。永海が隣で聞いていると思うと、途端に震えが止まらなくなる。
「寺方くん」
「は、はい……」
 名前を呼ばれて、ハッと我に返った。
 隣から、もぞ、と身動ぐ音がする。
 見れば、永海がジャージのポケットから黒い巾着袋を取り出していた。その中から出てきたのは、長さ十センチほどの金属製らしい銀色のもの。細長いU字型で、丸くなった部分に柄のようなものがついている。
 永海は、絃一郎の右手を鍵盤の上から引き剝がすと、その柄の部分を握らせた。
「それ、肘で叩いてごらん」
「こ、こうですか?」
「うん、上手。そしたら、耳に当てて」
「はい」
 言われるがまま、U字の先で肘の骨ばったところをトンッと叩き、耳に近付ける。

 ♪――……

 小さな音が聞こえた。今にも消えてしまいそうなのに、たった一音、揺らぐことのない音。
 叩かれたU字が震えて鳴っているのだ、とすぐに分かった。
「……聞こえたね?」
「はい」
「じゃあ、ドの二つ下の、白い鍵盤を押してみて」
 耳の側にある右手はそのままに、左手で言われた鍵盤を押す。
 瞬間、耳元のかすかな音が、より大きく鳴り出したような気がした。
「同じ音……」
「そう。ラの音」
 その混じり気の無い音に聞き入った。
 (まぶた)を下ろし、小さく息を吐く。
 すると、不思議と身も心も温かくなっていく心地がした。浅くなっていた呼吸も、早鐘(はやがね)を打っていた心臓も、静かに穏やかになっていく。
「……」
「落ち着いた?」
 目を開けば、目の前にこちらを覗き込む永海の顔。そのわずかに寄せられた眉を見て、絃一郎はようやく彼の意図を察した。
「……はい。落ち着きました」
「なら良かった」
「すみません、聞きたいって言っていただいたのに……なんか、頭が真っ白になっちゃって」
「気にしなくていい。僕もたまにやることだから」
「永海先輩が?」
 思わぬ答えに目を丸くする。どんな大舞台でも顔色一つ変えない、緊張とも恐怖とも無縁な人に見えるのに。
 永海は、こともなげに首を縦に振った。
「うん。それは音叉(おんさ)っていう、楽器の音を合わせるのに使う道具なんだけど……僕にとっては、お守りみたいなものかな。この音を聞けば落ち着いて歌えるから、いつも持ち歩いてるんだよ」
「確かに、とっても気持ちが落ち着く音でした」
「でしょ?」
 そんな話をしていたらまたあの音が聞きたくなって、絃一郎はもう一度音叉を鳴らした。うん、やっぱり落ち着く。今なら練習の成果が出せそう。……ちゃんと弾けるかは、また別の問題だけれど。
 すると、隣から「ふふ」と小さな笑い声が聞こえた。
「良かったらそれ、あげるよ」
「え、いいんですか?」
「勿論。寺方くんには気持ちを落ち着けて、しっかり伴奏してもらわないと」
「うっ」
「それに、僕には君がいれば必要ないからね」
「? それって、どういう――」
 絃一郎が言い終えるのを待たず、永海が前のめりに近付いてくる。表情の読めない美貌。それに似合わない、期待に満ちた眼差し。何度も見たはずなのに、すぐ隣に座っているせいでこれまで一度も無かったほど近く――鼻先が触れそうなほど近くまで迫ったその圧に、たまらず言葉に詰まってしまって。
「じゃあ、改めて弾いてみよっか」
「お、お手柔らかに、お願いします……」
 絃一郎は苦笑いを浮かべながら、うなずく他なかった。