そうして迎えた、新入生歓迎会当日。
なかなか鳴り止まない拍手の中、会場を沸かせた声楽部員たちがスポットライトに照らされた体育館の壇上から降りていく。
絃一郎は、観客席最後列のパイプ椅子に座り直して、薄暗い手元に目を凝らした。浮ついた気持ちを抑えるように、チラシに書かれた演奏順を確かめる。
今終わったのは、声楽部のアンサンブル。
次が、いよいよ永海の番だ。
『続いての演奏は――』
待ちに待ったアナウンスに、ハッと顔を上げる。
存在感を独り占めするかのような照明と、つめかけた新入生たちの視線を一身に浴び、堂々とステージに立つ永海。
その隣を見て、あっと声を上げそうになる。
ともにステージに上がり、ピアノの前に座ったのは、見覚えのある小さなお団子頭だった。美作だ。「五万回断られてる」なんて言われていたのに、という考えが脳裏をよぎったが、すぐに思い直す。
違う。美作は、永海と「五万回組んで」いるのだ。
そう思えば、数日前の朝、彼女が腹を立てていた理由も分かるような気がした。彼女もまた、同じステージに立つから。だから、絃一郎のために歌うと宣言した永海に「新入生の子たちみんなのために歌うべき」と反論し、声楽を知らない絃一郎に「伴奏もちゃんと見ること」と啖呵を切ったのだ。
やがて、小さく息を吸う音がして。
♪Lascia ch'io pianga la dura sorte――
静かに語りかけてくるような、優しい旋律。
高く澄んだ声が、柔らかく会場を包み込む。
その瞬間、目が離せなくなる。少しだけ寄せられた眉。吐いた息を撫でるように宙を行き来する手。自分はここで歌っているのだと堂々と輝き、それでいて、どうか聴いてくれと懇願するような。
♪e che sospiri,e che sospiri la libertà!
胸に秘めた感情を乗せるように、より高く、より響き渡っていく歌声。
聞き慣れない言葉の意味は分からない。それでも、言葉一つ一つを噛みしめ、余韻を残しながらゆったりと歌い上げる声は、切実な祈りのように聞こえてくる。
全身の感覚が遠のいていくような心地がした。もし立ち見だったなら、腰が抜けて倒れていたかもしれない。指一本すら動かせない。胸の奥まで響いてくる歌声に、ただ背筋を震わせることしか出来ない。
あぁ、なんて美しいんだろう。
ふと思い出す。
この感覚には覚えがある。いつか、先生の音色に触れ、教えられるがままに筝を弾いていた時と同じ感覚だ。感動というには暴力的すぎて、憧れというには執念深すぎる、体を内側から焼かれるような気持ち――筝が愛しくてたまらない思い。
聞けば分かる。こんなに魂を揺さぶられれば、いやでも分からされてしまう。
同じだ。永海もまた、歌を愛してやまないのだ。
そうして聞き惚れているうちに、いつの間にか、会場には拍手が沸き起こっていた。一礼して舞台袖に消えていく二人。我に返った絃一郎も、慌てて両手を叩く。
口々に何かを言い合う新入生たちのざわめきの中、次の演奏者を告げるアナウンスが始まる。
なんだか名残惜しくて、体育館の後方、演奏を終えた先輩たちが出ていく扉の方に視線を向けた。すると、ふらりと校舎の影の暗がりへ入っていく背中に目が留まる。
絃一郎は音も無く席を立つと、大盛り上がりの会場をそっと抜け出した。
傾いた西日が影を落とす、特別教室棟の裏。
その暗がりの中に追いかけていた背中を見つけて、絃一郎は声をかける。
「永海先輩、お疲れ様です」
「……」
ゾッと肌が震えたのは、吹き抜けた夕暮れの風の肌寒さのせいか。それとも、長めの前髪が浮いたことであらわになった、その顔の生気の無さのせいか。
校内へと続くドアの前の石段に腰かけ、ぐったりとうなだれていた永海は、一呼吸置いてからこちらを向いた。
「あ、あの、大丈夫ですか? すごく顔色が悪いように見えますけど……」
「……平気。ちょっと疲れちゃっただけ」
さも何でもないことのような口振りで言う永海。
そんな訳ないじゃないですか、と思わず出そうになった声の鋭さに気付いて、ぐっと飲み込む。とても平気には思えなくて、けれど、どうたずねたらいいのかも分からなくて、結局何も言えずに黙り込んでしまう。
校舎裏は静かだった。体育館からもれ聞こえてくるノリの良い音楽も、校舎のあちこちで鳴るウォーミングアップらしい楽器の音も、どれもが遠かった。たった二人、世界から切り取られてしまったのだと錯覚してしまいそうなほどに。
先に口を開いたのは永海だった。
「聞きにきてくれたんだね」
「……はい」
「どうだった?」
「とっても綺麗な歌でした。歌詞は、何て言ってるのかは分からなかったんですけど……」
「だろうね。イタリア語だから」
「ど、道理で……。でも、優しいメロディの中にも、切なさというか、必死さ? みたいなものがあって……切実な思いを歌っているのかなって思いました」
「うん。……ふふ、分かる?」
座ったままの永海が、少し身を乗り出すようにして、コテンと首を傾ける。
その目が細められ、キラキラと光輝いて。引き結ばれていた口が緩み、孤を描いていって。
「さっき歌ったのは『Lascia ch'io pianga』っていう曲。日本語だと……『私を泣かせてください』だったかな。悲しい運命を背負った女の人が、せめて泣かせてください、嘆くことは許してくださいってお願いする歌だよ。綺麗な曲だよね。変ロ長調の響きは悲しさよりも凛とした美しさが際立つけど、フレーズ間のブレスは涙をこらえてるみたいにも思える。途中、ト短調になるところの思いがあふれる感じもたまらなくて、気持ちを込めて歌わずにはいられない曲で」
「え、えぇ……」
小さく体を揺らしながら、力の込もった声で捲し立てる永海。
まだ青白い顔色を吹き飛ばすほどの、弾けんばかりの笑顔だった。眩しすぎる。今までの仏頂面はどこへ行ったのだろう。いや、表情が無かった訳ではないのだが、こんなにも上がった口角を見てしまえばもう無表情だったとしか思えなくなる。
気付けば、苦笑とともに声をもらしていた。
「な、永海先輩は、歌が好きなんですねぇ……」
「うん。好きだよ」
ほとんど独り言だった絃一郎の言葉に、迷いのない声が返ってくる。
「僕は歌が好き。歌うことが大好き。どんな運命を背負わされていたとしても、僕なら『私に歌わせてください』ってお願いするだろうね」
永海は即答した。愛おしいものを語る声で。それなのに、どこか我が身を嘆くような悲しげな笑顔で。
やっぱり、と確信した。
同じだ。永海も、絃一郎も、音楽を愛してやまない。耳に残って離れない「呪いの音色」に、どうしようもないほど焦がれている。……同じなのに、こうも堂々と愛を語れるのか。あんなにも、歌を愛してやまないと叫ぶように歌えるのか。この人は。
「……永海先輩は、どうして歌っているんですか?」
「? 理由なんか無いよ。歌うのに夢中なだけ。――それ以外、僕には何もないから」
力なくつぶやく永海。その口の端が、自分を笑うように小さく持ち上がる。
そんな顔してほしくない、と思った。
この眩しい人に、いつまでもステージに立っていてほしい。心から楽しんで、夢中で歌っていてほしい。そうやって歌える、最後の瞬間が来ないでほしい――いつかの自分と同じように、どうかならないでいて。
そこで不意に、永海が絃一郎の顔を覗き込んだ。そうしてじっと視線を合わせたまま、内緒話をするような声で――まるで絃一郎の胸のうちを見透かしたのような口振りで、永海がささやく。
「君が伴奏してくれれば、もっと夢中になれると思うんだけど」
「分かりました」
「え」
雷に打たれたように、永海の目が見開かれた。
絃一郎は一度目を閉じ、今にも震え出しそうな唇で大きく息を吸った。ハイネックのインナーの喉元をぎゅっと握って、ゆっくりと吐き出して。それから、永海の目を真っ直ぐに見つめ返しながら言う。
「……ステージの上で歌う永海先輩、とっても眩しくて、格好良くて。俺みたいな素人でも何か助けになれるなら、あなたのため頑張ってみたいというか……伴奏者なってあなたの歌を一番近くで聞けたなら、って想像しちゃったというか……。つまり、その……ば、伴奏したいって思わされちゃいました」
頬が熱かった。それでも、顔を背けたくなるのをグッとこらえる。
どうして自分に伴奏を頼んだのかという疑問や、きっと自分なんかには務まらないという不安が払拭された訳ではない。
だが、胸にあふれてくる願いは、それら全てを覆してしまえるだけの動機だった。
ひたすらに愛を叫ぶ、あなたの歌を聞いていたい。夢中で歌って、堂々と輝くあなたでいてほしい。
そのための力になりたい。
「だから……伴奏、俺にやらせてもらえませんか」
「…………えっ?!」
その言葉が絃一郎の口から絞り出た途端、永海の良く通る素っ頓狂な声が校舎裏に響き渡った。
「ちょっ、ちょっと待ってて!!」
聞いたこともないほど声を上ずらせた永海が、校内へと続くドアの中へ転がり込んでいく。
そんな大きな声も出せたのか。いや、当然か。体育館でマイクも使わずあの歌声だったんだから。普段がカッスカスなだけで。
なんて頭の片隅で思いながら、バタバタと遠ざかっていく足音を呆然と聞いていると、数十秒も経たずにそれが戻ってくる。
今にもつんのめって倒れそうな勢いで戻ってきた永海は、ドアから飛び出してくるやいなや、絃一郎の胸にクリアファイルを押し付けた。
「これ、伴奏譜!」
「えっ」
「もし伴奏してもらえるなら、どの曲にしようかなって、ずっと考えてて! やっぱり、今一番力を入れてる曲にしようと思う!」
「えっ」
髪を振り乱したまま、満面の笑みで言う永海。
気圧された絃一郎が、されるがままに受け取ったクリアファイルを見る。そこには、沢山の音符とアルファベットが並ぶ、綺麗に製本された五線譜が入っていた。一番上には『Star vicino』の文字。読めない。
「よろしくね! 寺方くん!」
「…………こ、こちらこそ、よろしくお願いします」
ぴょんぴょんと小さく飛び跳ねる永海に、口の端が引きつっていることを自覚しながら頭を下げる。
受け取った五線譜に目を落とした絃一郎は、この人の愛は凄まじいな、と早々に不安を覚えたのだった。
そういう訳で、永海の伴奏をすることになった、その翌日。
「寺方くん! 弾けるようになった?」
「……」
唖然とする。
唐突に名前を呼ばれて廊下へ出てみれば、そこには永海が立っていた。ソワソワとかかとを弾ませながら、目を輝かせてこちらを見ている。
帰りのホームルームが終わった教室で、さあ今日から声楽部の練習に参加するんだ、頑張らなくちゃ、と気持ちを奮い立たせていた矢先のことである。
絃一郎は状況が飲み込めず、しばらくその場に立ち尽くした。やがて、目の前の声楽オバケが伴奏を求めてやって来たことを理解すると、額に手を当てて天を仰いだ。
「……そんな昨日の今日で弾けるようになる訳ないじゃないですか」
なかなか鳴り止まない拍手の中、会場を沸かせた声楽部員たちがスポットライトに照らされた体育館の壇上から降りていく。
絃一郎は、観客席最後列のパイプ椅子に座り直して、薄暗い手元に目を凝らした。浮ついた気持ちを抑えるように、チラシに書かれた演奏順を確かめる。
今終わったのは、声楽部のアンサンブル。
次が、いよいよ永海の番だ。
『続いての演奏は――』
待ちに待ったアナウンスに、ハッと顔を上げる。
存在感を独り占めするかのような照明と、つめかけた新入生たちの視線を一身に浴び、堂々とステージに立つ永海。
その隣を見て、あっと声を上げそうになる。
ともにステージに上がり、ピアノの前に座ったのは、見覚えのある小さなお団子頭だった。美作だ。「五万回断られてる」なんて言われていたのに、という考えが脳裏をよぎったが、すぐに思い直す。
違う。美作は、永海と「五万回組んで」いるのだ。
そう思えば、数日前の朝、彼女が腹を立てていた理由も分かるような気がした。彼女もまた、同じステージに立つから。だから、絃一郎のために歌うと宣言した永海に「新入生の子たちみんなのために歌うべき」と反論し、声楽を知らない絃一郎に「伴奏もちゃんと見ること」と啖呵を切ったのだ。
やがて、小さく息を吸う音がして。
♪Lascia ch'io pianga la dura sorte――
静かに語りかけてくるような、優しい旋律。
高く澄んだ声が、柔らかく会場を包み込む。
その瞬間、目が離せなくなる。少しだけ寄せられた眉。吐いた息を撫でるように宙を行き来する手。自分はここで歌っているのだと堂々と輝き、それでいて、どうか聴いてくれと懇願するような。
♪e che sospiri,e che sospiri la libertà!
胸に秘めた感情を乗せるように、より高く、より響き渡っていく歌声。
聞き慣れない言葉の意味は分からない。それでも、言葉一つ一つを噛みしめ、余韻を残しながらゆったりと歌い上げる声は、切実な祈りのように聞こえてくる。
全身の感覚が遠のいていくような心地がした。もし立ち見だったなら、腰が抜けて倒れていたかもしれない。指一本すら動かせない。胸の奥まで響いてくる歌声に、ただ背筋を震わせることしか出来ない。
あぁ、なんて美しいんだろう。
ふと思い出す。
この感覚には覚えがある。いつか、先生の音色に触れ、教えられるがままに筝を弾いていた時と同じ感覚だ。感動というには暴力的すぎて、憧れというには執念深すぎる、体を内側から焼かれるような気持ち――筝が愛しくてたまらない思い。
聞けば分かる。こんなに魂を揺さぶられれば、いやでも分からされてしまう。
同じだ。永海もまた、歌を愛してやまないのだ。
そうして聞き惚れているうちに、いつの間にか、会場には拍手が沸き起こっていた。一礼して舞台袖に消えていく二人。我に返った絃一郎も、慌てて両手を叩く。
口々に何かを言い合う新入生たちのざわめきの中、次の演奏者を告げるアナウンスが始まる。
なんだか名残惜しくて、体育館の後方、演奏を終えた先輩たちが出ていく扉の方に視線を向けた。すると、ふらりと校舎の影の暗がりへ入っていく背中に目が留まる。
絃一郎は音も無く席を立つと、大盛り上がりの会場をそっと抜け出した。
傾いた西日が影を落とす、特別教室棟の裏。
その暗がりの中に追いかけていた背中を見つけて、絃一郎は声をかける。
「永海先輩、お疲れ様です」
「……」
ゾッと肌が震えたのは、吹き抜けた夕暮れの風の肌寒さのせいか。それとも、長めの前髪が浮いたことであらわになった、その顔の生気の無さのせいか。
校内へと続くドアの前の石段に腰かけ、ぐったりとうなだれていた永海は、一呼吸置いてからこちらを向いた。
「あ、あの、大丈夫ですか? すごく顔色が悪いように見えますけど……」
「……平気。ちょっと疲れちゃっただけ」
さも何でもないことのような口振りで言う永海。
そんな訳ないじゃないですか、と思わず出そうになった声の鋭さに気付いて、ぐっと飲み込む。とても平気には思えなくて、けれど、どうたずねたらいいのかも分からなくて、結局何も言えずに黙り込んでしまう。
校舎裏は静かだった。体育館からもれ聞こえてくるノリの良い音楽も、校舎のあちこちで鳴るウォーミングアップらしい楽器の音も、どれもが遠かった。たった二人、世界から切り取られてしまったのだと錯覚してしまいそうなほどに。
先に口を開いたのは永海だった。
「聞きにきてくれたんだね」
「……はい」
「どうだった?」
「とっても綺麗な歌でした。歌詞は、何て言ってるのかは分からなかったんですけど……」
「だろうね。イタリア語だから」
「ど、道理で……。でも、優しいメロディの中にも、切なさというか、必死さ? みたいなものがあって……切実な思いを歌っているのかなって思いました」
「うん。……ふふ、分かる?」
座ったままの永海が、少し身を乗り出すようにして、コテンと首を傾ける。
その目が細められ、キラキラと光輝いて。引き結ばれていた口が緩み、孤を描いていって。
「さっき歌ったのは『Lascia ch'io pianga』っていう曲。日本語だと……『私を泣かせてください』だったかな。悲しい運命を背負った女の人が、せめて泣かせてください、嘆くことは許してくださいってお願いする歌だよ。綺麗な曲だよね。変ロ長調の響きは悲しさよりも凛とした美しさが際立つけど、フレーズ間のブレスは涙をこらえてるみたいにも思える。途中、ト短調になるところの思いがあふれる感じもたまらなくて、気持ちを込めて歌わずにはいられない曲で」
「え、えぇ……」
小さく体を揺らしながら、力の込もった声で捲し立てる永海。
まだ青白い顔色を吹き飛ばすほどの、弾けんばかりの笑顔だった。眩しすぎる。今までの仏頂面はどこへ行ったのだろう。いや、表情が無かった訳ではないのだが、こんなにも上がった口角を見てしまえばもう無表情だったとしか思えなくなる。
気付けば、苦笑とともに声をもらしていた。
「な、永海先輩は、歌が好きなんですねぇ……」
「うん。好きだよ」
ほとんど独り言だった絃一郎の言葉に、迷いのない声が返ってくる。
「僕は歌が好き。歌うことが大好き。どんな運命を背負わされていたとしても、僕なら『私に歌わせてください』ってお願いするだろうね」
永海は即答した。愛おしいものを語る声で。それなのに、どこか我が身を嘆くような悲しげな笑顔で。
やっぱり、と確信した。
同じだ。永海も、絃一郎も、音楽を愛してやまない。耳に残って離れない「呪いの音色」に、どうしようもないほど焦がれている。……同じなのに、こうも堂々と愛を語れるのか。あんなにも、歌を愛してやまないと叫ぶように歌えるのか。この人は。
「……永海先輩は、どうして歌っているんですか?」
「? 理由なんか無いよ。歌うのに夢中なだけ。――それ以外、僕には何もないから」
力なくつぶやく永海。その口の端が、自分を笑うように小さく持ち上がる。
そんな顔してほしくない、と思った。
この眩しい人に、いつまでもステージに立っていてほしい。心から楽しんで、夢中で歌っていてほしい。そうやって歌える、最後の瞬間が来ないでほしい――いつかの自分と同じように、どうかならないでいて。
そこで不意に、永海が絃一郎の顔を覗き込んだ。そうしてじっと視線を合わせたまま、内緒話をするような声で――まるで絃一郎の胸のうちを見透かしたのような口振りで、永海がささやく。
「君が伴奏してくれれば、もっと夢中になれると思うんだけど」
「分かりました」
「え」
雷に打たれたように、永海の目が見開かれた。
絃一郎は一度目を閉じ、今にも震え出しそうな唇で大きく息を吸った。ハイネックのインナーの喉元をぎゅっと握って、ゆっくりと吐き出して。それから、永海の目を真っ直ぐに見つめ返しながら言う。
「……ステージの上で歌う永海先輩、とっても眩しくて、格好良くて。俺みたいな素人でも何か助けになれるなら、あなたのため頑張ってみたいというか……伴奏者なってあなたの歌を一番近くで聞けたなら、って想像しちゃったというか……。つまり、その……ば、伴奏したいって思わされちゃいました」
頬が熱かった。それでも、顔を背けたくなるのをグッとこらえる。
どうして自分に伴奏を頼んだのかという疑問や、きっと自分なんかには務まらないという不安が払拭された訳ではない。
だが、胸にあふれてくる願いは、それら全てを覆してしまえるだけの動機だった。
ひたすらに愛を叫ぶ、あなたの歌を聞いていたい。夢中で歌って、堂々と輝くあなたでいてほしい。
そのための力になりたい。
「だから……伴奏、俺にやらせてもらえませんか」
「…………えっ?!」
その言葉が絃一郎の口から絞り出た途端、永海の良く通る素っ頓狂な声が校舎裏に響き渡った。
「ちょっ、ちょっと待ってて!!」
聞いたこともないほど声を上ずらせた永海が、校内へと続くドアの中へ転がり込んでいく。
そんな大きな声も出せたのか。いや、当然か。体育館でマイクも使わずあの歌声だったんだから。普段がカッスカスなだけで。
なんて頭の片隅で思いながら、バタバタと遠ざかっていく足音を呆然と聞いていると、数十秒も経たずにそれが戻ってくる。
今にもつんのめって倒れそうな勢いで戻ってきた永海は、ドアから飛び出してくるやいなや、絃一郎の胸にクリアファイルを押し付けた。
「これ、伴奏譜!」
「えっ」
「もし伴奏してもらえるなら、どの曲にしようかなって、ずっと考えてて! やっぱり、今一番力を入れてる曲にしようと思う!」
「えっ」
髪を振り乱したまま、満面の笑みで言う永海。
気圧された絃一郎が、されるがままに受け取ったクリアファイルを見る。そこには、沢山の音符とアルファベットが並ぶ、綺麗に製本された五線譜が入っていた。一番上には『Star vicino』の文字。読めない。
「よろしくね! 寺方くん!」
「…………こ、こちらこそ、よろしくお願いします」
ぴょんぴょんと小さく飛び跳ねる永海に、口の端が引きつっていることを自覚しながら頭を下げる。
受け取った五線譜に目を落とした絃一郎は、この人の愛は凄まじいな、と早々に不安を覚えたのだった。
そういう訳で、永海の伴奏をすることになった、その翌日。
「寺方くん! 弾けるようになった?」
「……」
唖然とする。
唐突に名前を呼ばれて廊下へ出てみれば、そこには永海が立っていた。ソワソワとかかとを弾ませながら、目を輝かせてこちらを見ている。
帰りのホームルームが終わった教室で、さあ今日から声楽部の練習に参加するんだ、頑張らなくちゃ、と気持ちを奮い立たせていた矢先のことである。
絃一郎は状況が飲み込めず、しばらくその場に立ち尽くした。やがて、目の前の声楽オバケが伴奏を求めてやって来たことを理解すると、額に手を当てて天を仰いだ。
「……そんな昨日の今日で弾けるようになる訳ないじゃないですか」
