カウンターテナーと十七絃 ~耳に残った呪いの音色を奏でるまで~

 桜の花びらが付いたスニーカーをもたもたと脱ぎながら、絃一郎は大きな欠伸をした。
 朝の鈴ヶ丘高校は賑やかだ。
 元気よく走り抜けていく、朝練習帰りらしい生徒達。廊下で立ち話に花を咲かせる同級生達。どこかから聞こえる楽器の音や歌声は、練習し足りないという抗議の音だろうか。まだまだ布団が恋しい絃一郎には、行き交う誰もが超人に見える。
 そんな彼らの間を縫うようにしながら、絃一郎は「一年C組」の看板が提げられた扉をくぐった。背負っていたボックスリュックを机上に置いて、ひんやりとした椅子の座面に腰を下ろす。
 教室をよく見渡せる、中央一番後ろの座席。ここが絃一郎の席だ。
 入学式からまだ数日しか経っていないのに、朝のホームルーム前の教室はすでに滅茶苦茶だった。みんな誰の席だろうがお構いなしに集まって、思い思いに過ごしている。
 ふあぁ、と、もう何度目かも分からない欠伸が出た。
 こんな騒がしさに囲まれても、眠気はまだ抜けきっていないらしい。重くなってきたまぶたに、いい枕になりそうだなぁこのリュック、なんて思った直後。
「なぁ! 寺方!」
「っ、うわ! びっくりした!」
 ドンッ、と肩に乗る重み。教室の喧騒に負けない、一際大きな声が耳元で響く。
 心臓をバクバクさせながら振り返ってみると、絃一郎の肩をガッシリと鷲掴みにしたのは、左隣の席の島崎(しまざき)だった。
「お、おはよ、島崎」
「っはよ! いや、それどころじゃねぇって!」
「え?」
 ただならぬ様子に、絃一郎は目を丸くする。
 上がった息もそのままに、自分の席に座りもせず、こちらを見下ろす島崎。その顔は困惑しきりで、少し青ざめているようにすら見える。
 いつも綺麗にセットされている茶髪もボサボサだった。肩にかかったエナメルバッグは半開きで、学校指定ジャージの赤い袖が飛び出している。仮入部中だというダンス部の朝練習を終えて、慌てて駆け込んできたのだろうか。
「声楽部の奴らから聞いたんだけど、永海先輩の伴奏することになったってマジ? 何したんだよ?! 音楽棟、大騒ぎになってんだけど!」
「…………はっ?」
 そう(まく)し立てられ、一瞬で眠気が吹き飛んだ。
 大騒ぎ?
 永海先輩の伴奏することになった――と、決まった訳ではない。
 確かに昨日の放課後、お座敷棟に現れた声楽オバケと出会って、どういう訳か伴奏を頼まれた。結局「ちょっと考えさせてください」と言ってその場から逃げてしまったのだけれど。
 それが、どうして大騒ぎに?
 考えただけで嫌な予感がして、絃一郎は片手で口元を隠しながら答える。
「えぇと、そうじゃなくて……まだ返事を待ってもらってるっていうか……。伴奏頼まれたのはマジなんだけど……」
「マ、マジなのか寺方……んでそんなことに?」
「それは俺も知りたい」
 絃一郎だって信じられなくて、本人に理由をたずねている。だが、得られた答えは「寺方くんの伴奏で歌いたいから」だけだった。分かるか、そんな感覚的すぎる説明で。
「で、そ、その、大騒ぎって?」
「声楽部が使ってるレッスン室に人だかりが出来ててな……あっちこっちで悲鳴が上がったり、伴奏班の女子が泣き崩れてたり……そこに居合わせた吹奏楽部が何事だって野次馬してたり、通行の邪魔だって怒ってたり……」
「……」
 事件現場か?
 思い浮かべた音楽棟の様子に眉をひそめると、悩ましげに島崎が続ける。
「ほら、永海先輩ってバケモン……いや、アイドル的な存在だからさ。俺、中学も同じだったんだけど、その頃からバケ……アイドルかってくらい女子のファンがすごくて。寺方も、実際に会って話してんなら、何となく分かるだろ?」
「まぁ……分からなくもないけどさぁ……」
 律儀に言い直す島崎に頬をゆるめつつ、絃一郎は曖昧に首を傾げる。
 女声と聞き間違えてしまうほどの高い声域を持つ、柔らかく澄んだ歌声。切れ長の目をした整った顔立ち。たった一度の放課後をともに過ごしただけでも、アイドル的な存在という表現が大袈裟ではないことは理解できる。
 どうやら永海は、この鈴ヶ丘高校では名前の知れた有名人だったらしい。
「……だとしても、伴奏頼まれただけで騒ぎになるとは思わないって」
「だよな」
 ハハ、と乾いた声で笑った島崎は、そこでようやく自分の席に座った。それから頭の後ろで腕を組んで、ぼんやりと天井に視線を向けながら言う。
「……寺方、しばらくは音楽棟出禁だなぁ」
「はは、そうする……」
「今日の午後、音楽の授業あるけどな……」
「無理じゃん」
 その時だった。
 教室がにわかに騒がしくなる。前方にある入り口近くから、歓声のような叫び声が上がったのだ。
 何事かと顔を向けると、そこには、教室中の視線を釘付けにした女子生徒が一人。
 胸元で綺麗に揃えられた、真っ直ぐな黒髪のロングヘア。胸元のリボンは青。男子生徒とそう変わらないほど背が高く、スカートの下からスラリと伸びる黒いタイツのせいか、その堂々とした立ち姿はさらに細く高く見える。
 女子生徒は、鍛えられた肺活量がありありと分かる良く通る声で、教室に向かって言い放った。
「寺方絃一郎くん、いるかな?」
「ひぇ……」
 喉の奥から蚊の鳴くような声がもれる。
 騒ぎの方から来られてしまうと、もはや逃げ場は無かった。