カウンターテナーと十七絃 ~耳に残った呪いの音色を奏でるまで~

 横倒しになったまま視線だけを動かせば、入口の襖の前に誰かが立っていた。青の学校指定ジャージを着た、小柄で華奢(きゃしゃ)な男子生徒。確か、青色は二年生の学年カラーだったっけ。
 ……男子生徒?
 あの高く澄んだ声は、どう聞いたって女性の歌声だった。てっきり、歌っていた女子生徒か誰かが声をかけてきたと思ったのだが、違うのだろうか。だとしても、どこから現れたんだ、この人。
 男子生徒は、呆然とする絃一郎の前までやってくると、視線を合わせるように膝をついた。
「え……あ、あの……?」
「……」
 サラリと揺れる、つややかな黒髪。長めの前髪によって、整った鼻筋と切れ長の鋭い目尻に落ちる影。圧さえ感じる真顔。
 黒々とした瞳に見下ろされて、絃一郎は息をのむ。
 端正な顔立ちには似合わない、どこか熱に浮かされた目だった。何かをこらえるように引き結ばれている口元にも、身を乗り出すようにしてこちらを覗き込む姿勢にも、計り知れない情熱が秘められているようで。
 視線がぶつかって、数秒。
 呆気に取られたまま身も起こせないでいると、歌声よりもずっと小さな、かすれ気味の低い声が言う。
「君、名前は?」
「て、寺方……絃一郎です……」
「そう。じゃあ、寺方くん」
「はい」
「僕の伴奏者になってくれない?」
「………………はい?」
 たっぶり時間をかけて、やっと絞り出せたのは間抜けな返事だけ。
 だというのに、たずねられた言葉を飲み込むよりも早く、男子生徒が畳みかけてくる。
「僕の独唱の伴奏。具体的に言うと、声楽部の伴奏班に入ってほしい」
「せ……声楽部?! ちょ、ちょっと待ってください。えぇと……ということは、あなたは声楽部の……?」
「……そういえば名乗ってなかったね」
 上ずった声とともに絃一郎が跳ね起きると、男子生徒はわずかに眉を上げて居住まいを正す。
永海(ながみ)(りつ)。二年E組。声楽部でカウンターテナーをやってる」
「カ、カウンター……?」
「さっきの、聞こえてたでしょ? ああいうやつのこと」
「はぁ……」
 説明が適当すぎやしないか。真顔が怖くて、口には出せないけれど。
 詳しいことは分からないが、ともかく、さっきの歌はこの男子生徒の――永海のものだったらしい。
「じゃあ、永海先輩は、どうして突然……?」
「あぁ、ごめんね、勝手に入って。ここ、静かで歌いやすいからよく来るんだけど、今日はたまたま鍵が開いてたから」
「そ、それも突然で驚きましたけど! そうじゃなくって!」
 問題は、とても信じられないのは、そこではなくて。
「どうして突然、『伴奏者になって』だなんて……俺、声楽のこと全く知りませんし……ま、ましてや、誰かと一緒に演奏するなんて……」
「……もしかして、ピアノ弾いたことない?」
「小さい頃ちょっとだけ習ってましたけど、今は全然……」
「なら大丈夫だね」
「ちっとも大丈夫じゃないですが?!」
 満足そうにうなずく永海。絃一郎はたまらず声を荒らげた。勝手に納得しないでほしい。
「大丈夫。そんなに難しい譜面は頼まないし、僕が教えてあげるから」
「だとしても、俺なんかじゃなくたって……! 伴奏なら、ピアノが上手い人とか声楽の知識がある人とか、そういう人に頼むべきじゃ……!」
「そういう人には片っ端から頼んだけど、駄目だったんだよ。誰とも上手くいかなかった」
「は、はぁっ?!」
「でも、君は違う」
 ずい、と永海が身を乗り出してくる。ピクリともしない仏頂面が思わぬ近さまで近付いてきて、絃一郎は咄嗟(とっさ)に仰け反る。
 息が詰まりそうだった。
 また、この目だ。熱に浮かされたような。何かを必死に求めているような。
「君の演奏を聞いて、一緒に歌いたくなった。君となら歌えると思った。君の伴奏で歌ってみたいと思ったんだ」
「え……」
「だから、どうか、僕だけの伴奏者になってほしい」
 ひどくかすれた、切羽詰まった声。
 その言葉に、背中越しに聞いた彼の歌が脳裏を過ぎった。柔らかで、優しくて、美しい歌声。今の声とは、まるで正反対だ。
 混乱する頭の片隅で、ここへやってきた永海が歌ったのは、ただ「一緒に歌いたくなった」からだったのだろうな、と納得する。……それがどうして「君の伴奏で歌ってみたい」になるのかは分からないけれど。
「ねぇ、お願い」
「そ、そんなこと……言われても……」

 ――パタン。

 前触れもなく、入口の襖が閉まった。
 永海と絃一郎は、どちらともなく顔を見合わせる。
「ほ、他に誰か?」
「……いや? 僕たちだけのはずだ」
 首を傾げながら立ち上がった永海は、入口まで行って襖に手をかける。
「……おかしいな」
 だが、開かなかった。込める力を強くしながら何度も横に動かそうとしているが、襖はビクともしない。鍵など無いのだから、開かないなんて有り得ないのに。
 それでも、加勢しなければ、と絃一郎も立ち上がろうとして。
「先輩! 俺も――ぉわっ⁈」
 右足が何かつまずいて、思い切り顔面から転んでしまった。
「寺方くん? 大丈夫?」
 顔を上げれば、引手にぶら下がって有りっ丈の体重を乗せるような不思議な恰好をした永海が、怪訝(けげん)そうにこちらを見ていた。そっちの方が大丈夫じゃなさそうですけど。なんて言おうとしたが、急激に冷えていく体がそれを許さなかった。
 右の足首に触れている冷たいもの。
 絃一郎の足を引き留めている、ヒヤリとした何か。
 硬直した体を無理矢理動かすように、ゆっくりと、ゆっくりと首をひねって足元を見る。
 畳の上に伸びた自身の足。置かれたままの筝。その向こうから伸びている白い何か――畳と畳の間のごくわずかな隙間から生えている、生気のない白い腕が一本。
「っ……!!」
 絃一郎は声にならない悲鳴を上げた。
 やっぱり出るじゃん、オバケ!
 このお座敷棟の玄関を開けた時から、そうだろうとは思っていた。はっきりと姿は見えなくても、気配を感じていたから。
 けれど、信じたくなかったのだ。「幽霊のせいで筝曲部が廃部になった」だなんて。あの親切な先生に真相を確かめるまでは信じないと、「いない、出ない、気のせいだ」と、何度も自分に言い聞かせていたのに。
 その時、絃一郎の体がトンッと揺れた。
 畳の下から突き上げるような小さな衝撃。まるで、畳の下から何かが這い出てくるみたいな。そう思った直後、視線の先で畳の隙間から白い腕がもう一本、にゅうぅっと伸びてくる。
 ――ぺた、ぺた。
 手探りしているかのように、畳の上を這いまわる手。
 ――ぺた。ぺたペた、ぺた。
 だんだんと近付いてくる手に、絃一郎はたまらず身を引いた。
「ひぃ……っ!」
「……寺方くん?」
 どこか不安げに名前を呼ばれ、少しずつ冷静さを失っていく頭で思う。
 あぁ、見えてないんだ、永海には。
「せ、せんぱ……!」
 上手く声が出ない。きっと呼吸も上手く出来ていない。全身の震えのせいか、喉がひきつっていて思うように動かない。
 その時。

 ――テン。

 唐突に鳴った、水面を跳ねる雫の音のようにも思える、不思議な低い音。
 動き回る白い手の指先が、置かれていた筝の弦に触れたのだ。
 あ、と思った、次の瞬間。
「離して」
 鋭い(やいば)のような声だった。永海の声だ。
 驚いて振り返ると、永海は引手にぶら下がった変な体勢のまま、真剣な眼差しでこちらを見て――いや、違う。視線の先にいるのは絃一郎ではない。筝だ。
「聞こえなかった? 離してって言ったの」
 追い打ちをかけるように、永海が言う。
 その一言で、絃一郎の足首を掴んでいた冷たさがフッと消えた。
 と同時に、バンッと襖が全開になった。勢いを殺しきれなかった永海の体が吹き飛び、畳に落ちた頭が派手な音を立てる。
「うっ」
「永海先輩! 大丈夫ですか⁈」
「……畳って柔らかいんだね」
「そ、それは何より……!」
 血相を変え、慌てて駆け寄る絃一郎。が、永海はのっそりと起き上がって、自身の後頭部を一撫でしただけだった。やっぱり適当というか、何というか。
 ひとまず胸を撫で下ろした絃一郎は、筝の方へと視線を向ける。
 白い手のひらは、もうどこにも見当たらなかった。
「先輩、今のって……」
「何だったんだろうね?」
 相変わらず感情の読めない顔で言う永海に、絃一郎は目を丸くする。
「えっ、でも、永海先輩の声で消えたんですよ。何か、こう……えいや~! って追い払ってくださったんじゃ……」
「ふうん? やっぱり、僕たちの他に誰かいたんだ」
「は、え、あっ」
 納得しきりの永海の声で気が付いた。
 しまった。墓穴を掘った。これでは「自分は幽霊が見えます」と自白しているのと同じだ。
()()()()から、もしかしてと思って。良かったね、言うことを聞いてくれる人で」
「え? え、えぇと……はい、ありがとうございました。本当に助かりました……。けど、先輩には何も見えてなかったんですよね? 誰もいなかったのに、どうして……?」
「そうだね。僕の目では誰もいなかった。でも、君の目もそうだとは限らないでしょう」
「は……――」
 さも当然のように言われた言葉に、二の句が継げなくなる。
 だからといって、正直に言える訳もなかった。「そうなんです、ここ、オバケが出るみたいなんですよ」なんて言ったところで、一体誰が信じてくれるだろう。
 絃一郎が答えあぐねていると、目を輝かせた永海が前のめりに近付いてきて。
「ところで寺方くん」
「はい」
「伴奏のお願いの返事、もらってもいいかな」
 ……さてはこの人、声楽オバケだな?