お座敷棟。「筝曲部」の札が掲げられた、質素な八畳の和室。
ほんのりと香るイグサの匂いと、障子から差し込む西日の温かさに包まれながら、絃一郎は筝爪をつけた右手を弦の上で踊らせる。
――シャン、シャン、テン。
その時、どこからか物音がした。
だが、気にも留めずに夢中で十七絃を弾き続けて……それが、お座敷棟の引き戸が開く音だったことにやっと気が付く。
ハッと我に返った絃一郎は、そこで手を止めた。
直後。
「やっぱりここにいた」
「ウワァ――――ッ⁈」
背後から聞こえた声に、飛び上がった体が畳の上を転がる。
横倒しになったまま視線だけを動かせば、入口の襖の前に立っていたのは、見慣れた黒髪のジャージ姿で。
「な、永海先輩……!」
「はい、これ、伴奏譜。早く渡したくて、届けに来ちゃった」
「え? あぁ、前に話してた……」
和室に入ってくるなり、永海は満面の笑みで隣までやってきた。そうして膝をつくと、ずいっとクリアファイルを絃一郎の胸に押し付ける。
次の舞台で歌う曲の伴奏譜だ。
風鈴祭を終え、数週間。
あの日、晴れ舞台に立った永海は、無事にこれからも歌を続けることを認められた。
声楽部の一員として、彼らとともに、心の内が聞こえる苦痛に耐えることなく歌うことが出来たのだ。
耳に触れた絃一郎の願いが届いたのか、それとも、先生の力を借りることが出来たのか。真相は分からない。……絃一郎は、その両方なのだろうと思っている。
だが、どうやら、耳の呪いが解けたのは一時的なものだったらしい。
歌が終わり、絃一郎の声が元に戻ったかと思えば、永海の耳もまた元に戻ってしまっていたのだ。もう一度耳を撫でさえすればいいのだが、「これからも伴奏は寺方くんがいい」という永海に頼まれ、絃一郎はこうして伴奏を続けている。
絃一郎は、永海の伴奏者として、そして筝曲部の十七絃奏者として、これからも舞台に立つのだろう。
……塚路にも、いつか見てもらえるだろうか。
あれから、塚路には連絡がつかない。絃一郎の前に現れなくとも、せめて、あの人懐っこい笑みでいてくれればいいのだが。
陰った思いで新たな伴奏譜に目を落としていた絃一郎は、ふと顔を上げた。
「……そういえば、永海先輩と初めてここで会った時、俺の演奏に合わせて歌ってましたよね?」
「あぁ、そうだったね」
「あれ、ずっと不思議に思ってたんですよ。初めて聞く曲なのに、どうして歌えたんですか?」
「? どうしても何も、即興だけど」
「お、おぉ……流石です……」
眉一つ動かさず答える永海。が、何か思い至ったのか、小さく息をのむ音がした。
「……でも、耳に残ってたのかもしれないね」
「耳に?」
「そう。僕の先祖が、呪われるほど愛した曲だったんでしょう? だから……まぁ、今思えばだけど」
自身の耳に触れた永海が、柔らかく微笑む。
そうかもしれない、と絃一郎も思った。
「ねぇ、永海先輩」
「なぁに」
「……良かったら、歌ってくれませんか。えぇと、題名とか、分からないんですけど」
「うん。いいよ」
言い終えるのも待たず、迷いなくうなずいた永海に、たまらず口角が上がった。
絃一郎は、左手を弦に乗せ、右手を構えた。
左手を弦に乗せ、右手を構える。そして、小さく息を吸って――。
ほんのりと香るイグサの匂いと、障子から差し込む西日の温かさに包まれながら、絃一郎は筝爪をつけた右手を弦の上で踊らせる。
――シャン、シャン、テン。
その時、どこからか物音がした。
だが、気にも留めずに夢中で十七絃を弾き続けて……それが、お座敷棟の引き戸が開く音だったことにやっと気が付く。
ハッと我に返った絃一郎は、そこで手を止めた。
直後。
「やっぱりここにいた」
「ウワァ――――ッ⁈」
背後から聞こえた声に、飛び上がった体が畳の上を転がる。
横倒しになったまま視線だけを動かせば、入口の襖の前に立っていたのは、見慣れた黒髪のジャージ姿で。
「な、永海先輩……!」
「はい、これ、伴奏譜。早く渡したくて、届けに来ちゃった」
「え? あぁ、前に話してた……」
和室に入ってくるなり、永海は満面の笑みで隣までやってきた。そうして膝をつくと、ずいっとクリアファイルを絃一郎の胸に押し付ける。
次の舞台で歌う曲の伴奏譜だ。
風鈴祭を終え、数週間。
あの日、晴れ舞台に立った永海は、無事にこれからも歌を続けることを認められた。
声楽部の一員として、彼らとともに、心の内が聞こえる苦痛に耐えることなく歌うことが出来たのだ。
耳に触れた絃一郎の願いが届いたのか、それとも、先生の力を借りることが出来たのか。真相は分からない。……絃一郎は、その両方なのだろうと思っている。
だが、どうやら、耳の呪いが解けたのは一時的なものだったらしい。
歌が終わり、絃一郎の声が元に戻ったかと思えば、永海の耳もまた元に戻ってしまっていたのだ。もう一度耳を撫でさえすればいいのだが、「これからも伴奏は寺方くんがいい」という永海に頼まれ、絃一郎はこうして伴奏を続けている。
絃一郎は、永海の伴奏者として、そして筝曲部の十七絃奏者として、これからも舞台に立つのだろう。
……塚路にも、いつか見てもらえるだろうか。
あれから、塚路には連絡がつかない。絃一郎の前に現れなくとも、せめて、あの人懐っこい笑みでいてくれればいいのだが。
陰った思いで新たな伴奏譜に目を落としていた絃一郎は、ふと顔を上げた。
「……そういえば、永海先輩と初めてここで会った時、俺の演奏に合わせて歌ってましたよね?」
「あぁ、そうだったね」
「あれ、ずっと不思議に思ってたんですよ。初めて聞く曲なのに、どうして歌えたんですか?」
「? どうしても何も、即興だけど」
「お、おぉ……流石です……」
眉一つ動かさず答える永海。が、何か思い至ったのか、小さく息をのむ音がした。
「……でも、耳に残ってたのかもしれないね」
「耳に?」
「そう。僕の先祖が、呪われるほど愛した曲だったんでしょう? だから……まぁ、今思えばだけど」
自身の耳に触れた永海が、柔らかく微笑む。
そうかもしれない、と絃一郎も思った。
「ねぇ、永海先輩」
「なぁに」
「……良かったら、歌ってくれませんか。えぇと、題名とか、分からないんですけど」
「うん。いいよ」
言い終えるのも待たず、迷いなくうなずいた永海に、たまらず口角が上がった。
絃一郎は、左手を弦に乗せ、右手を構えた。
左手を弦に乗せ、右手を構える。そして、小さく息を吸って――。
