カウンターテナーと十七絃 ~耳に残った呪いの音色を奏でるまで~

 ――十七絃を弾いている。
 弦の上を楽しそうに躍る筝爪。揺れる藤色の袖。この着物は、先生の。
 そう思った絃一郎は、視界に映る柔らかな白い手が、自身の肩から伸びていることに気が付いた。まるで、先生が見ている景色を盗み見ているような、不思議な感覚だった。
 ふと、光が差した。
 スッと開いた、目の前の襖。
 そこには、小柄で華奢な、黒い艶やかな髪の美しい青年が立っていた。彼は静かに息を吸うと、高く澄んだ声で歌い始める。
 永海だ――いや、違う。よく似てはいるが、永海ではない。
 先生は驚きながらも、青年の歌声に応えるように筝を弾いた。たちまち、胸の内が温かさでいっぱいになる。嬉しい。楽しい。胸が弾んで、翼を得た心が今にも飛び出してしまいそうな思い。
 それから、歌と筝を奏で合うだけの逢瀬が、繰り返し視界に映し出されていった。そのたびに胸を満たしていた温かな思いが、もっとまろやかで、少し切ない、愛おしさへと変わっていくのが分かって、絃一郎はようやく気が付く。
 これは、先生の思い出だ。青年と過ごした、大切な時間の記憶だ。
 やがて、襖の外に見える季節が一周した頃、青年が言った。
「貴方の声を聞かせてくれないか。貴方は『芸事に優れた女性の美しい楽器の音色』が神様になった存在だから、声を持たないことは分かっているんだけど……。それでも、貴方と話してみたい。どうか、貴方の心の内を聞かせてほしい」
 すると、先生は両手を伸ばして、青年の耳を優しく包み込んだ。
 その手が弦の上へ戻り、テン、と弾いた瞬間、青年の目が喜び一色に見開かれて。
「! き、聞こえる……!」
 そうして重なり合った歌と筝の、楽しそうな音色といったら!
 ……だが、その日を境に、青年が姿を見せる日は減っていった。
 ある日、怒りの形相をした男たちがやってきた。
「お前が、あいつの耳を呪ったんだろう! あいつの歌声を妬んで……!」
「お前のところに通うようになってから、あいつの耳はおかしくなったんだ! もう誰とも歌えなくなったんだぞ! この、祟り神め!」
 あぁ、違うのに。
 ただ、心の内を聞いてほしかっただけなのに。
 封じ込められた暗い筝の中、頬に冷たいものが伝っていく。
 辛い。悲しい。彼に会いたい。
 寂しい。恋しい。彼を苦しませたかった訳じゃない。
 ただ、側でずっと、歌っていてほしかっただけ――。

 ――ふと気が付くと、絃一郎は祖母の離れにいた。
 障子窓から差し込む、昼下がりの熱気。柔らかなイグサの匂い。座敷に置かれた十七絃と、正座をする藤色の着物姿の先生。いつかの日のままの光景だ。
 違うのは、先生が、声もなく涙を流していることだけ。
 その姿を正面から見つめながら、絃一郎は自身の耳に触れた。
「先生は、彼の歌が……彼のことが、大好きだったんですね。大好きだったからこそ、心の内が聞こえる耳を贈った……」
 袖で目尻を拭った先生が、こくん、と小さくうなずく。
 あの青年は、永海の先祖だったのだろう。
 彼は、鈴鳴様の――先生の怒りを買って、祟られたのではなかった。もう二度と歌えなくなるように、耳を呪われたのではなかった。
 ただ、先生の声が聞きたかっただけだったのだ。きっと彼も、先生のことが大好きだったから。
「……ただ、側にいて、愛したかっただけだったんですね」
 口に出してから、同じだ、と思う。
 絃一郎だってそうだ。
 ひたすらに愛を叫ぶ、永海の歌を聞いていたい。何かに縛られ、苦しむことなく、ずっと夢中で歌っていてほしい。
 そうして、大好きな人の側にいられたなら――。
 ――そうだ。永海の側に戻らなければならない。声楽部のステージの時間が迫っていたはずだ。もうすぐ、永海の晴れ舞台が始まってしまう。
 思い出した瞬間、どこからか絃一郎を呼ぶ声が聞こえた。
 襖の向こうからだ。きっと、あの声の方に行けば戻れる。根拠は無かったが、疑いようもなくそう確信した。
 立ち上がった絃一郎は、うつむく先生へ、そっと手を差し出した。
「良ければ、先生も一緒に来ませんか」
「……?」
 顔が上がって、いっぱいに涙を溜めた目が絃一郎を見上げる。
 それを見た時、胸に突っかかっていた何かが、すっと取れたような心地がした。
 あぁ、やっぱり、先生は先生だ。こんなにも愛にあふれた、絃一郎に愛を教えてくれた人だ。
 ぽろ、と、また一つ頬を伝って落ちていく雫。つられて、絃一郎の目頭にも熱が集まっていく。それをぐっとこらえながら、絃一郎は目一杯笑ってみせた。
「俺と一緒に、永海先輩の歌を聞いてみませんか。先生が愛した歌とは、きっと違うでしょうけど……。愛さずにはいられない歌だってことは、俺が保証しますから」
 その言葉に、先生がおずおずと手を伸ばす。
 差し出した絃一郎の手に、筝爪をつけた柔らかな手が触れた。
 瞬間、肌と肌との境界線が消えた。
 自分を形作る輪郭がぼやけ、二つだった体温が一つに溶け合う。ぐちゃぐちゃに混ざって、どちらのものか分からなくなる。
 不思議な感覚だった。少しだけ感じた恐ろしさはすぐに消え、自身を飲み込んでいく心地よさに身を委ねる。
 そんな奇妙な心地のまま、絃一郎の意識は、声が聞こえる方へと吸い込まれて……。

「寺方くん!」
「……っ!」
 呼ばれるがまま、まぶたが開く。
 永海先輩、と呼び返そうとした声は、苦しげな呼吸音になっただけだった。それでも、こちらを覗き込む永海の顔はほころび、安堵の笑みが広がっていく。
「あぁ、本当に良かった、気が付いて……大丈夫? 急に襖が開いたと思ったら、君が部屋の真ん中に倒れてたんだよ。苦しそうな声が聞こえてたから、すごく心配して……」
 そこは、見慣れた八畳の和室だった。恐ろしい白い腕も、不気味な気配も、もうどこにも無い。どうやら、鈴鳴様を引き離して封じるという儀式を止め、ちゃんと永海の側に戻ってこられたようだ。
 そこでふと、小さな声が聞こえた。スピーカー越しの、焦ったような声。それが、畳の上に転がった永海のスマートフォンから聞こえる美作と小清水の声だと気が付いて、ぼんやりしていた意識が覚醒する。
 そうだ。永海のステージが。
 次の瞬間、絃一郎は、ほとんど無意識に両手を伸ばしていた。
「……」
「寺方くん……?」
 手のひらで、永海の耳を優しく包み込む。
 どうか、あなたの苦しみに終わりが来ますように。
 呪われた耳を克服し、愛してやまない歌とともに晴れ舞台に立てますように!
 そうして、その手で頬を撫でた時、永海の目が絶望一色に見開かれて。
「寺方くん、君、声は?」
「……」
「ねぇ、返事して」
「……」
「お願いだっ……声、聞かせてよ! ねぇ……!」
「……」
 すがりつくように手首を握られて、絃一郎は苦笑する。
 分かってるくせに、と思う。
 絃一郎の口から出るのは、もう吐息だけだった。喉元にある温かな感覚が、この体は先生と一緒になったのだという確信が、声を失ったことを教えてくれている。
 だが、今更声なんか無くたっていいだろう。息遣い。鼓動。それさえあれば。
「……~~っ!」
 永海は言葉にならない声を上げると、倒れたままの絃一郎をぎゅっと抱きしめた。それから、スマートフォンを何か操作して、何度もこちらを振り返りながら和室を出ていく。
 やがて、耳元から騒がしい声が聞こえてきた。
 そこに置かれていたのは、絃一郎のスマートフォンだった。画面を見れば、通話中の文字。相手は、永海だ。
 何かを口々に言い合う声。それから、「最高のステージにするぞ!」という号令と、威勢のいい「おうっ!」の返事。
 しばらく静寂の後、歌声が響いた。
 声楽部のステージが始まったのだ。
 会場を包み、際限なく広がっていく、美しい声の重なり。盛り上がっていく手拍子。
 その全ての音の上を、高く澄んだ声が、はるか彼方の空を突き破る矢のように飛んでいった。
 あぁ、永海の歌だ。
 心ごと、全身が揺さぶられる心地がした。
 自然と目尻からこぼれ落ちた水滴もそのままに、絃一郎は目を閉じて、その歌に聞き入った。