人気のない、特別教室棟の裏。
もう少し静かなところに行こう、と歩き出した永海が辿り着いたのは、いつか絃一郎が伴奏をやると宣言した場所だった。
風鈴祭の最中にあっても、ここには、二人を世界から切り離してくれる静けさがある。
賑わう人々の声も、校内各所のステージから聞こえる音楽も、遠くからかすかに届くだけ。辺りには、少しずつ傾き始めた影が作る暗がりがあるだけだ。
永海は、校内へと続くドアの前にある石段へ腰かけると、ぐるりと辺りを見渡した。
「寺方くん、いる?」
「はい」
隣へ座った絃一郎は、口で答えながらも音叉を鳴らす。
たちまち、永海の顔がこちらへ向いた。その口元が安堵したようにホッと緩んで、やっぱり絃一郎のことは見えないのだな、と思う。
どうやら、そんな内心が聞こえたらしい。
「僕の目には、寺方くんの姿は見えてない。声も聞こえない。ただ、心の内だけが聞こえるから、隣にいることは分かるよ。……残念だけど」
「……いえ。ここにいるって分かってくださっただけで、十分ですから」
答えてから、言っても聞こえないんだった、と思い直す。
だが永海は、まるで絃一郎の言葉が聞こえているかのように、こくこくと首を縦に振った。
「……うん。やっぱり、ここにいるのが寺方くんだよね。さっきのは、寺方くんじゃなかったんだ」
絃一郎が演奏を終えた後。ジャムステージ脇のテントへ駆けつけた永海は、倒れた絃一郎の様子を見て、言いようのない違和感を覚えたのだという。その感覚の正体を確かめるため、テントに戻ってきてくれたらしい。
「そうしたら、寺方くんはどこにもいないのに、僕を呼ぶ音がして……それが、寺方くんの心の内の音だって気付いた」
「よく分かりましたね」
「前に君が言っていた通り、怖いとか助けてとか、そういうのでめちゃくちゃだったから、すぐに分かったよ」
何てことだ。情けなさすぎる。
「きっと今、寺方くんの体の中にいるのは、鈴鳴様なんだろう。だから聞こえるようになったんだろうね。今まで君の音を聞こえないようにしてくれていた鈴鳴様と、離れ離れになったから」
「……っ」
「君の身に何が起きたのかも、その時聞こえたよ。どうにか、元の体に戻れればいいんだけど……。……塚路っていうのは、あの、金髪のやんちゃそうな男だよね?」
「はい……」
あの時、絃一郎の肩を叩いたのは塚路だった。あの衝撃がきっかけだったとすれば、彼が何かしたと考えるのが自然だろう。だが、どうして塚路が。
そんな考えを巡らせながら、音叉を鳴らす。
すると永海は、何も言わずにうつむいた。やがて、片手で口元を隠し、その肘をもう片方の手で撫でながら、ゆっくりと話し始める。
「……小清水が、鈴鳴神社の資料を調べてくれていたでしょう。どうして寺方くんの中に鈴鳴様がいるのか、手掛かりを探すために」
「はい。奉納演奏の時、そう仰ってましたね」
「調べて分かったことのうち、君には決して言わないよう口止めされていたことが、一つある。きっと、ショックを受けるだろうからって」
「えっ?」
絃一郎が素っ頓狂な声を上げても、永海は気にも留めず話し続ける。まぁ、聞こえていないのだから当然なのだが。
「鈴鳴様がいたご神体の筝が無くなったのは、七年前。その年の夏祭り、筝と三味線の奉納演奏をした団体が一つだけあった。その準備や搬入の時、筝がすり替わった……というのが、鈴鳴様がいなくなった原因として考えうる限り一番現実的で、可能性が高いそうだ」
「そ、そんなことが……」
「その団体というのが『寺方八重子邦楽教室』だ」
「は?」
頭を殴られたような心地だった。
その、名前は。祖母の――。
「前に、筝を始めたきっかけを教えてくれた時、君は『祖母が邦楽教室をやっていた』と言っていたよね」
「え、ま、待ってください。そ、そんなことっ」
気付けば絃一郎は、声を荒らげて立ち上がっていた。
分かっている。この制止の声が、永海には届かないなんてことは。
それでも、叫ばすにはいられない。
「塚路という人も、教室の門下生なんだよね。もしも彼が、その奉納演奏に関わっていたとしたら」
「待って、お願い、待ってくださいっ……! いや、いやだ、聞きたくない……!」
「彼こそが……ご神体の筝をすり替え君に弾かせて、君の中に鈴鳴様を閉じ込めた、犯人ということになる」
「……っ~~!」
やり場のない思いに任せた叫びは、声にならなかった。
絃一郎は知っている。覚えている。忘れるものか。
七年前――絃一郎が先生と出会い、初めて十七絃筝を弾いた、八歳の夏。
夏祭りの次の日、祖母の家へ筝を運び込んでいたのは、塚路だった。筝を弾いてみないかと誘ったのも、筝を持ち帰ってもいいと取り計らってくれたのも、全部。全部、全部、絃一郎の中に先生を閉じ込めるためだった――?
「やっぱ、キミんとこにいたか」
もう少し静かなところに行こう、と歩き出した永海が辿り着いたのは、いつか絃一郎が伴奏をやると宣言した場所だった。
風鈴祭の最中にあっても、ここには、二人を世界から切り離してくれる静けさがある。
賑わう人々の声も、校内各所のステージから聞こえる音楽も、遠くからかすかに届くだけ。辺りには、少しずつ傾き始めた影が作る暗がりがあるだけだ。
永海は、校内へと続くドアの前にある石段へ腰かけると、ぐるりと辺りを見渡した。
「寺方くん、いる?」
「はい」
隣へ座った絃一郎は、口で答えながらも音叉を鳴らす。
たちまち、永海の顔がこちらへ向いた。その口元が安堵したようにホッと緩んで、やっぱり絃一郎のことは見えないのだな、と思う。
どうやら、そんな内心が聞こえたらしい。
「僕の目には、寺方くんの姿は見えてない。声も聞こえない。ただ、心の内だけが聞こえるから、隣にいることは分かるよ。……残念だけど」
「……いえ。ここにいるって分かってくださっただけで、十分ですから」
答えてから、言っても聞こえないんだった、と思い直す。
だが永海は、まるで絃一郎の言葉が聞こえているかのように、こくこくと首を縦に振った。
「……うん。やっぱり、ここにいるのが寺方くんだよね。さっきのは、寺方くんじゃなかったんだ」
絃一郎が演奏を終えた後。ジャムステージ脇のテントへ駆けつけた永海は、倒れた絃一郎の様子を見て、言いようのない違和感を覚えたのだという。その感覚の正体を確かめるため、テントに戻ってきてくれたらしい。
「そうしたら、寺方くんはどこにもいないのに、僕を呼ぶ音がして……それが、寺方くんの心の内の音だって気付いた」
「よく分かりましたね」
「前に君が言っていた通り、怖いとか助けてとか、そういうのでめちゃくちゃだったから、すぐに分かったよ」
何てことだ。情けなさすぎる。
「きっと今、寺方くんの体の中にいるのは、鈴鳴様なんだろう。だから聞こえるようになったんだろうね。今まで君の音を聞こえないようにしてくれていた鈴鳴様と、離れ離れになったから」
「……っ」
「君の身に何が起きたのかも、その時聞こえたよ。どうにか、元の体に戻れればいいんだけど……。……塚路っていうのは、あの、金髪のやんちゃそうな男だよね?」
「はい……」
あの時、絃一郎の肩を叩いたのは塚路だった。あの衝撃がきっかけだったとすれば、彼が何かしたと考えるのが自然だろう。だが、どうして塚路が。
そんな考えを巡らせながら、音叉を鳴らす。
すると永海は、何も言わずにうつむいた。やがて、片手で口元を隠し、その肘をもう片方の手で撫でながら、ゆっくりと話し始める。
「……小清水が、鈴鳴神社の資料を調べてくれていたでしょう。どうして寺方くんの中に鈴鳴様がいるのか、手掛かりを探すために」
「はい。奉納演奏の時、そう仰ってましたね」
「調べて分かったことのうち、君には決して言わないよう口止めされていたことが、一つある。きっと、ショックを受けるだろうからって」
「えっ?」
絃一郎が素っ頓狂な声を上げても、永海は気にも留めず話し続ける。まぁ、聞こえていないのだから当然なのだが。
「鈴鳴様がいたご神体の筝が無くなったのは、七年前。その年の夏祭り、筝と三味線の奉納演奏をした団体が一つだけあった。その準備や搬入の時、筝がすり替わった……というのが、鈴鳴様がいなくなった原因として考えうる限り一番現実的で、可能性が高いそうだ」
「そ、そんなことが……」
「その団体というのが『寺方八重子邦楽教室』だ」
「は?」
頭を殴られたような心地だった。
その、名前は。祖母の――。
「前に、筝を始めたきっかけを教えてくれた時、君は『祖母が邦楽教室をやっていた』と言っていたよね」
「え、ま、待ってください。そ、そんなことっ」
気付けば絃一郎は、声を荒らげて立ち上がっていた。
分かっている。この制止の声が、永海には届かないなんてことは。
それでも、叫ばすにはいられない。
「塚路という人も、教室の門下生なんだよね。もしも彼が、その奉納演奏に関わっていたとしたら」
「待って、お願い、待ってくださいっ……! いや、いやだ、聞きたくない……!」
「彼こそが……ご神体の筝をすり替え君に弾かせて、君の中に鈴鳴様を閉じ込めた、犯人ということになる」
「……っ~~!」
やり場のない思いに任せた叫びは、声にならなかった。
絃一郎は知っている。覚えている。忘れるものか。
七年前――絃一郎が先生と出会い、初めて十七絃筝を弾いた、八歳の夏。
夏祭りの次の日、祖母の家へ筝を運び込んでいたのは、塚路だった。筝を弾いてみないかと誘ったのも、筝を持ち帰ってもいいと取り計らってくれたのも、全部。全部、全部、絃一郎の中に先生を閉じ込めるためだった――?
「やっぱ、キミんとこにいたか」
