それから絃一郎は、永海の耳の呪いを解く方法がないか、必死で探した。
きっともう、それしか方法が無い。
だが、代々続くほどの根深い呪いを解く方法など、そう簡単に分かるはずがなくて。
……結局、何の手掛かりも得られないまま、風鈴祭の日はやってきた。
「寺方くん、調子はどう?」
「な、永海先輩!」
思わぬ声がして、絃一郎は楽譜から顔を上げる。
ジャムステージで盛り上がる音楽棟前の広場。その熱気が伝わってくるほど、すぐ脇に設営されたテント。乾いた秋風に揺れる「演奏者待機所」という張り紙の下、出番を待つ絃一郎の肩を叩いたのは、黒のベストにスラックスというステージ衣装に身を包んだ永海だった。
その視線が、絃一郎の頭から爪先まで、じっくりと往復する。
「……すごい、着物だ」
「そうなんです……顧問がものすごく張り切ってまして……」
「いいね。似合ってる」
「あ、ありがとうございます……」
背筋を伸ばした絃一郎は、照れくささを誤魔化すように自身の頬を指でひっかく。
絃一郎が着ているのは、青竹色の着物に、紺の帯。筝曲同好会の顧問になってくれた教師が「筝曲部復活をかけた大舞台なんだから、これぐらい着ないと!」と用意してくれた衣装だった。
だから絃一郎は、出番を待つ間中ずっと、気を張っていなければならなかった。少しでも気を抜けば、緊張のあまり無意識に襟や帯をいじって、着崩してしまいそうだったのだ。
その点、永海は普段と何一つ変わらない。ステージ衣装をめかしこんでも、晴れ舞台が目前に迫っていても。
見慣れた仏頂面を前にして、少しだけ落ち着きを取り戻した絃一郎は、その顔色の悪さにようやく気が付く。
「……永海先輩こそ、大丈夫なんですか?」
永海には、聞こえているはずだ。ジャムステージでは、絃一郎の一つ前の演奏者がサックスの艶やかな音色を自在に操り、会場の手拍子を誘っている。
「声楽部のステージ、午後の一番最後でしたよね? それまで休んでた方が……」
「寺方くんの演奏が始まるのに、寝てなんかいられないよ」
「そ、そりゃあ、見ててほしいですけど。でも、顔色が悪いですよ?」
「……まぁね。でも、大丈夫。こう、頭の中で寺方くんの伴奏の音色を思い出して……」
歌う時のように手を宙に彷徨わせ、うっとりと目を閉じる永海。反対に、絃一郎は目を見開いた。
「だ、大丈夫とは思えませんけど?!」
「意外といいんだよ、これが。要は、意識が逸れればいいから。頭の中を大好きな音でいっぱいにしておけば、結構我慢出来る」
「……っ」
やっぱり我慢はしてるんじゃないか。そんな文句が口から出そうになって、絃一郎はグッと唇を曲げて飲み込む。
『最後まで、あがいてみてもいいかもしれない』
永海の歌い続ける覚悟を知っている以上、そんな自分勝手な言葉、言える訳がない。
「あとは、これ」
そう言いながら、永海はスラックスのポケットに手を突っ込む。
取り出された黒い巾着袋を見て、絃一郎は思わず着物の懐を撫でた。ここにも、同じものが入っている。
「音叉……」
「そう。この音を聞けば、落ち着いて歌える。……寺方くんに伴奏を弾いてもらう前は、いつもそうしてたんだ」
掲げられた音叉の先端を、永海の右手がノックする。
瞬間、ステージに満ちていた熱気ある音が消えた。
♪――……
直後、割れんばかりの拍手が辺りに響き渡る。
だが、そのわずかな一瞬、確かに聞こえた。永海と絃一郎の間にだけ鳴った、たった一音。心が落ち着く、揺らぐことのない音。
「……聞こえたね?」
「はい」
やがて、素晴らしい演奏を讃えていた拍手が小さくなっていく。
次は、絃一郎の出番だ。
「じゃあ、見ててください。……永海先輩みたいに、とまではいかないでしょうけど、きっと……きっと、筝が愛おしくてたまらないんだ、って思わせる演奏をしてみせます」
「うん。出来るよ、寺方くんなら。行っておいで」
「はい!」
壇上。十七絃の前で一礼すれば、温かい拍手に出迎えられる。
際限なく早くなっていく心臓の音。顔を上げれば、ステージを取り囲む観客たちの壁が目に飛び込んでくる。
物珍しそうな視線を向ける、制服姿の生徒たち。揃いの衣装を着た、声楽部の先輩たち。……腕を組んで平静を装いながらも、期待にあふれた顔を隠しきれていない永海。
そこでふと、音楽棟の入り口付近に立っている家族の姿が目に留まる。
――あれはまさか、叔父一家では。
途端、ただでさえ駆け足になっていた心臓が、ドッと跳ね上がって口から出てしまいそうになる。
どうして。ステージに出るなんて、一言も言ってないのに。
半ば絶望のようにそう思ってから、隣に塚路と顧問の教師がいることに気が付く。そうだ。そういえば、塚路は言っていた。筝曲部がまだあった頃、何度か校外講師として教えに来たことがある、と。あぁ、ちゃんと口止めしておくんだった。
「……」
絃一郎は、すぐに客席を視界から外し、静かに目を閉じた。
頭の中に思い浮かべる。
心を落ち着ける、音叉の音。絃一郎の憧れを――筝への愛を認めてくれた、永海の声。
深呼吸を一つ。その全てを勇気に変えて、十七絃の上に左手を乗せる。
そうして、右手を構え、小さく息を吸って――。
きっともう、それしか方法が無い。
だが、代々続くほどの根深い呪いを解く方法など、そう簡単に分かるはずがなくて。
……結局、何の手掛かりも得られないまま、風鈴祭の日はやってきた。
「寺方くん、調子はどう?」
「な、永海先輩!」
思わぬ声がして、絃一郎は楽譜から顔を上げる。
ジャムステージで盛り上がる音楽棟前の広場。その熱気が伝わってくるほど、すぐ脇に設営されたテント。乾いた秋風に揺れる「演奏者待機所」という張り紙の下、出番を待つ絃一郎の肩を叩いたのは、黒のベストにスラックスというステージ衣装に身を包んだ永海だった。
その視線が、絃一郎の頭から爪先まで、じっくりと往復する。
「……すごい、着物だ」
「そうなんです……顧問がものすごく張り切ってまして……」
「いいね。似合ってる」
「あ、ありがとうございます……」
背筋を伸ばした絃一郎は、照れくささを誤魔化すように自身の頬を指でひっかく。
絃一郎が着ているのは、青竹色の着物に、紺の帯。筝曲同好会の顧問になってくれた教師が「筝曲部復活をかけた大舞台なんだから、これぐらい着ないと!」と用意してくれた衣装だった。
だから絃一郎は、出番を待つ間中ずっと、気を張っていなければならなかった。少しでも気を抜けば、緊張のあまり無意識に襟や帯をいじって、着崩してしまいそうだったのだ。
その点、永海は普段と何一つ変わらない。ステージ衣装をめかしこんでも、晴れ舞台が目前に迫っていても。
見慣れた仏頂面を前にして、少しだけ落ち着きを取り戻した絃一郎は、その顔色の悪さにようやく気が付く。
「……永海先輩こそ、大丈夫なんですか?」
永海には、聞こえているはずだ。ジャムステージでは、絃一郎の一つ前の演奏者がサックスの艶やかな音色を自在に操り、会場の手拍子を誘っている。
「声楽部のステージ、午後の一番最後でしたよね? それまで休んでた方が……」
「寺方くんの演奏が始まるのに、寝てなんかいられないよ」
「そ、そりゃあ、見ててほしいですけど。でも、顔色が悪いですよ?」
「……まぁね。でも、大丈夫。こう、頭の中で寺方くんの伴奏の音色を思い出して……」
歌う時のように手を宙に彷徨わせ、うっとりと目を閉じる永海。反対に、絃一郎は目を見開いた。
「だ、大丈夫とは思えませんけど?!」
「意外といいんだよ、これが。要は、意識が逸れればいいから。頭の中を大好きな音でいっぱいにしておけば、結構我慢出来る」
「……っ」
やっぱり我慢はしてるんじゃないか。そんな文句が口から出そうになって、絃一郎はグッと唇を曲げて飲み込む。
『最後まで、あがいてみてもいいかもしれない』
永海の歌い続ける覚悟を知っている以上、そんな自分勝手な言葉、言える訳がない。
「あとは、これ」
そう言いながら、永海はスラックスのポケットに手を突っ込む。
取り出された黒い巾着袋を見て、絃一郎は思わず着物の懐を撫でた。ここにも、同じものが入っている。
「音叉……」
「そう。この音を聞けば、落ち着いて歌える。……寺方くんに伴奏を弾いてもらう前は、いつもそうしてたんだ」
掲げられた音叉の先端を、永海の右手がノックする。
瞬間、ステージに満ちていた熱気ある音が消えた。
♪――……
直後、割れんばかりの拍手が辺りに響き渡る。
だが、そのわずかな一瞬、確かに聞こえた。永海と絃一郎の間にだけ鳴った、たった一音。心が落ち着く、揺らぐことのない音。
「……聞こえたね?」
「はい」
やがて、素晴らしい演奏を讃えていた拍手が小さくなっていく。
次は、絃一郎の出番だ。
「じゃあ、見ててください。……永海先輩みたいに、とまではいかないでしょうけど、きっと……きっと、筝が愛おしくてたまらないんだ、って思わせる演奏をしてみせます」
「うん。出来るよ、寺方くんなら。行っておいで」
「はい!」
壇上。十七絃の前で一礼すれば、温かい拍手に出迎えられる。
際限なく早くなっていく心臓の音。顔を上げれば、ステージを取り囲む観客たちの壁が目に飛び込んでくる。
物珍しそうな視線を向ける、制服姿の生徒たち。揃いの衣装を着た、声楽部の先輩たち。……腕を組んで平静を装いながらも、期待にあふれた顔を隠しきれていない永海。
そこでふと、音楽棟の入り口付近に立っている家族の姿が目に留まる。
――あれはまさか、叔父一家では。
途端、ただでさえ駆け足になっていた心臓が、ドッと跳ね上がって口から出てしまいそうになる。
どうして。ステージに出るなんて、一言も言ってないのに。
半ば絶望のようにそう思ってから、隣に塚路と顧問の教師がいることに気が付く。そうだ。そういえば、塚路は言っていた。筝曲部がまだあった頃、何度か校外講師として教えに来たことがある、と。あぁ、ちゃんと口止めしておくんだった。
「……」
絃一郎は、すぐに客席を視界から外し、静かに目を閉じた。
頭の中に思い浮かべる。
心を落ち着ける、音叉の音。絃一郎の憧れを――筝への愛を認めてくれた、永海の声。
深呼吸を一つ。その全てを勇気に変えて、十七絃の上に左手を乗せる。
そうして、右手を構え、小さく息を吸って――。
