コンクールを終えてから、一週間ほどが経った頃。
お座敷棟へと続く、木枯らしと落ち葉が舞うアスファルトの道を歩いていると、校舎のあちこちから楽器の音や歌声が響いてくる。いつもと変わらない、鈴ヶ丘高校の放課後の音だ。なのに、心なしか浮足立っているように聞こえる。
十月下旬。校舎はどこも、いよいよ文化祭という高揚感に包まれていた。
鈴ヶ丘高校文化祭、通称「風鈴祭」まで、あと二週間。
本校舎の喧騒とは離れた敷地の隅に立つ、お座敷棟もまた、例外ではなかった。……とはいえ、訪れるのは絃一郎一人なのだが。
「……し、失礼しまーす」
玄関の引き戸を開け、誰もいない廊下に向かって一礼する。
廊下の突き当り、一番奥の「筝曲同好会」と書かれた真新しい札が掲げられた和室。床の間もない質素な八畳の部屋は、いつも静けさとイグサの匂いと、障子から差し込む西日の温かさで満ちている。
「……よし」
小さく息を吐いた絃一郎は、押入れ収納から十七絃を取り出した。そうして演奏の準備を整え、柔らかな畳の上へ正座すると、譜面台に楽譜を置く。
演目は、和楽器のメロディが特徴的な流行歌。それを、永海と美作が楽譜に起こしてくれた、お手製の十七絃譜である。
絃一郎は、この曲を風鈴祭で演奏する。
筝曲同好会唯一のメンバーとして、音楽棟前の広場で行われる「ジャムステージ」で十七絃を披露するのだ。
あれは、九月のコンクール予選が終わって間もない頃だっただろうか。
「寺方くん。今度、風鈴祭があるでしょう。そこで、ジャムステージに出てくれない?」
「はい?」
永海が前触れもなくそう言ったのは、声楽部の練習が終わり、個人練習室の鍵を返した職員室の前だった。
絃一郎は目を丸くした。居合わせた小清水と美作も、互いに顔を見合わせる。
「なになに、りっくんとてらちゃん、ジャム出るのぉ?」
「僕は出ないよ。寺方くんに、筝曲部の十七絃奏者としてジャムステージに出てほしい」
「えっ」
「あら、いいわね」
「えぇ~! ってことは、てらちゃん、琴弾けるの⁈」
「すごく上手なんだよ。この前の夏祭りの時、ステージに立ってくれるって約束したもんね?」
「し、しました。しましたけど……ちょ、ちょっと待ってください? そもそも、筝曲部は廃部になってて……。っていうか、ジャムステージって?」
降参するように両手を上げると、小清水が簡単に教えてくれる。
「ジャムステージは、毎年音楽棟前の広場でやってる、飛び入り参加上等の演奏スペースね。一応、参加者を募って演目が組まれるけど、誰でも途中参加オーケー。楽器も演目もぐっちゃぐちゃになるから、『ジャム』ステージってこと」
「な、なんですか、そのとんでもないステージは……」
「去年はりっくんがフリーセッション独占して、大変なことになってたよねぇ」
「あったわねー……思い出したくもない……」
「ね。楽しかったなぁ」
遠いどこかへ視線を飛ばす美作と小清水。満面の笑みで小躍りする永海。何が起きたかは知る由もないが、声楽オバケが大暴れだったことだけは聞かずとも分かる。
「まぁ、おかげで今年の新入部員が増えて助かったんだけどさ」
苦笑混じりに言った小清水に、永海は「だからだよ」とうなずいた。
「ジャムステージなら一人でも参加しやすいし、広場でやるから多くの人の目に留まりやすい。そうやって注目が集まれば、今は廃部になってる筝曲部にも部員が集まって、活動を再開出来るかもしれない。だから、ジャムが良いと思ったんだ」
「な、なるほど……」
「……あと、ジャムで寺方くんの演奏を見せびらかしたい」
「絶対そっちが本音じゃん?」
「当たり前でしょ」
小声で付け足された理由に美作が首を傾げれば、永海は食い気味に答えた。そこまではっきり言い切られると恥ずかしいのだが。
それから、あれよあれよという間に話は進み。
永海は、コンクールを終えた日に「今度は僕が、君を輝かせてみせるから」と宣言した通り、惜しみなく手を貸してくれた。筝曲同好会を立ち上げ、兼部の申請をするのも。美作とともに楽譜を書き起こすのも。小清水とともにジャムステージの参加申し込みをするのも。
そうして、音楽棟ではなくお座敷棟へ足を運ぶようになってから、早一週間。
完成度は上々だ。九月のコンクール予選が終わってから、少しずつ練習を進めてきた甲斐があった。普段家で弾いているものとは違う、筝曲部で使われていた年季の入った楽器にも慣れてきた。……オバケだらけの不気味な日本家屋には未だに慣れなくて、入るには鈴鳴神社のお守りが手放せないが。
絃一郎は、十七絃の上に左手を乗せて。
「……っ」
一度、膝の上に戻した。
譜面台の側に置いた黒い巾着袋から音叉を取り出すと、その先端で肘を叩き、耳に近付ける。
♪――……
小さな音を聞きながら、深呼吸を一つ。
思い浮かべるのは、夏祭りの日、花火を見上げながら聞いた永海の声だ。キラキラ輝いてる君が見たいと言ってくれた、あの熱を帯びた声。
……そうやってどんなに自身を奮い立たせても、恐怖は消えない。
大勢の前で筝を演奏することは――母を殺しかけた音を聞かれることは、恐ろしい。
一度、鈴鳴神社での奉納演奏は経験したが、今度は訳が違う。より多くの聴衆を前にして、彼らの目と耳を奪うために、ステージの主役として十七絃を弾かなければならない。楽譜を目の前にして、その光景を想像しただけで、身がすくんで心臓が暴れ始める。
それでも。
ずっと夢に見ていた、筝曲部がもう一度立ち上げられるなら。永海の期待に応えられるなら。……あなたの晴れやかな笑顔が見られるなら。
「……よし」
絃一郎はもう一度、十七絃の上に震える左手を乗せた。
ピピピ、とスマートフォンが鳴る。
お座敷棟まで届かない、部活動の終了時刻を知らせるチャイム代わりのアラームだ。片付けを済ませた絃一郎は、お座敷棟を後にし、鍵を返すため本校舎の職員室へ向かう。
そうして帰路へ着こうと、昇降口へ続く廊下を歩いていた時だった。
ふと、足が止まる。
本校舎から音楽棟へと続く渡り廊下にある、体格の良い大きな人影。
渡り廊下は薄暗く、目を凝らしてみても誰なのかは分からなかった。だがどうやら、何かを背負い、ゆっくりとした足取りで本校舎へ向かってきているらしい。
不思議に思っていると、影から声がかかった。
「寺方、いいところに」
「あぁ、近藤先輩。お疲れ様です」
この語気の強い声は、吹奏楽部の近藤だ。
すぐに気が付いた絃一郎は、会釈と挨拶を返す。と、その直後、近藤の背中で何かがモゾリと動いた。
「おい、無理に動くな」
「え?」
「寺方、お前も一緒に来い。俺には、こいつの面倒は見切れん」
「なっ」
疲れをにじませた言葉とともに、本校舎の明かりが届く距離まで影が近付いてきて、その姿が露わになる。
少し前屈みになって、両手を背中に回した制服姿の近藤。その手は青い学校指定のジャージを履いた膝を抱えていて、肩には脱力した細い腕と艶やかな黒髪の丸い後頭部が乗っている。
気付いた瞬間、絃一郎の喉から裏返った叫び声が飛び出した。
「な、永海先輩っ⁈」
その声に応えるように、近藤の肩に乗っていた後頭部が起き上がる。
近藤に背負われていたのは、顔面蒼白の永海だった。
「いやぁ、それがね……歌ってる最中に、突然倒れちゃってさ」
そう言った小清水が、自身の耳を指差す。それだけで、絃一郎は永海が倒れた理由を察した。
無意識に、苦しげな呼吸音の方へ視線が向く。
保健室のベッドに寝かされた永海は、目を閉じたきり微動だにしない。わずかに眉を寄せるだけで、何の感情も現れない仏頂面。いつも見ているはずなのに、こんなにも血の気が無いとひどく不安になる。
ベッド横のパイプ椅子に腰を降ろした絃一郎は、ずっとそこから離れられずにいた。近藤と入れ替わるように小清水と美作がやってきても。こうして、二人から永海が倒れた経緯を教えてもらっている間も。
「そうなの! 急にバターンッ! って! マジ心臓止まるって、あれは」
「隣だもんね、アルト」
「ホントヤバいよ、スッて視界から消えるの。えっぐいビビる」
「まぁ、貧血みたいなもので、休めば治るみたいだけど……にしても、ちょっと心配よね」
「ね。最近多いよねぇ? 風鈴祭のアカペラに入ってから、急に増えたんじゃない?」
聞こえてきた美作の言葉に、絃一郎はぎょっとした。
「えっ? 永海先輩、風鈴祭出るんですか⁈」
「そ~なの! 信じらんないよねぇ⁈」
「あー……やっぱり伝えてなかったんだ、永海のやつ……」
「コンクールが終わった後、『入れるパートある?』とか言い出してさぁ。あの『伴奏嫌い』のりっくんがだよ⁈ もう、み~んな大騒ぎで!」
聞けば、声楽部が風鈴祭で披露するのは、有名なミュージカル曲のアカペラだという。突然参加を表明した永海に、編曲担当はノリノリでカウンターテナーのパートを書き足し、日々練習に励んでいるそうだ。
そんなの倒れるに決まってるじゃないか。
いつか、永海は言っていた。
『心の内の音色を聞いてる具合が悪くなってくるから、普段はなるべく聞かないように意識を逸らしてるんだけど』
永海が倒れたのは、きっとそれが原因だ。呪われた耳でもって、他人の心の内をたくさん聞いてしまったから。
だからこそ、永海は誰かとともに歌うことを徹底的に避けていたはずだ。
だというのに、どうして。
青ざめる絃一郎をよそに、一通り話し終えた美作は、満足げな顔で「じゃ、りっくんの荷物取ってくるね」と小清水を連れて保健室を出ていってしまった。
扉越しに聞こえる、遠ざかっていく足音。
保健室には、秒針の音と不安定で頼りない呼吸の音だけが、いやに響いていた。それを聞きながら、膝の上で両手を組んでうつむく。上下する胸を見つめたまま。どうしてそんな、倒れるような無茶を、とたずねられないまま。
不意に、呻き声にも似た、小さな息遣いがした。
「――……できなければ……この風鈴祭で、誰かとともに歌えると証明出来なければ、高校で歌を辞めなくちゃいけないからだよ」
「え」
「そんな耳で歌手になるな、って、父に……言われているから……」
ハッとして顔を上げると、永海は目を閉じたままだった。
その血色の悪い唇だけが震えて、今にも消えてしまいそうな声がもれ聞こえてくる。
「君と歌うのは、本当に楽しくて……君と歌えれば、それだけで良かった……」
「はい……」
「……本当はね。本当は…………君と歌うことは、歌を失うまでの、最後の楽しみだと思ってたんだよ」
「……辞めるつもり、だったんですか」
「うん。でも、気が変わった」
「……え?」
鼻から息が抜ける音がして、永海の口の端が、ほんのかすかに持ち上がる。
「君が『僕は歌手になれる』と言ってくれて……僕が、歌で生きていけると、信じて疑わないでいてくれて…………最後まで、あがいてみてもいいかもしれない、って……――」
それきり、永海はまた口を閉ざしてしまった。
聞こえる息遣いは、先ほどよりも静かで、穏やかだった。気力も体力も尽き、眠ってしまったのだろうか。
絃一郎は、信じられない思いで、その寝顔を見つめていた。
つまり、永海は証明しようとしているのだ。
風鈴祭という晴れ舞台で、声楽部の一員としてアカペラが歌えるのだ、ということを。
コンクールが終わったあの日、永海が答えた「僕も頑張る」という言葉は、「呪われた耳を克服してみせる」という意味だったのだ。
理由など、ただ一つ。
歌のためだ。
何より愛してやまない、歌を失わないためだ。……絃一郎が「なれるに決まってるじゃないですか」なんて無責任に言った、歌手への道を閉ざさないためだ。
その言葉は、間違いなく本心だった。今だってそう信じている。だが、こんな。
この素晴らしい人が夢中で歌って輝く姿が見たいのに、それは呪われた耳の苦痛を味わえと言っているのと同じで。これ以上苦しまないでほしいのに、ずっと歌っていてほしくて。相反する思いで胸がいっぱいで、頭がぐちゃぐちゃになる。
……あぁ、あなたの耳が、呪われてさえいなければ!
声楽部の部員たちと歌うのだから、絃一郎が力を貸すことは出来ない。
だとしても、何か。何かないのか。何でもいいから、永海の助けになれることは――。
お座敷棟へと続く、木枯らしと落ち葉が舞うアスファルトの道を歩いていると、校舎のあちこちから楽器の音や歌声が響いてくる。いつもと変わらない、鈴ヶ丘高校の放課後の音だ。なのに、心なしか浮足立っているように聞こえる。
十月下旬。校舎はどこも、いよいよ文化祭という高揚感に包まれていた。
鈴ヶ丘高校文化祭、通称「風鈴祭」まで、あと二週間。
本校舎の喧騒とは離れた敷地の隅に立つ、お座敷棟もまた、例外ではなかった。……とはいえ、訪れるのは絃一郎一人なのだが。
「……し、失礼しまーす」
玄関の引き戸を開け、誰もいない廊下に向かって一礼する。
廊下の突き当り、一番奥の「筝曲同好会」と書かれた真新しい札が掲げられた和室。床の間もない質素な八畳の部屋は、いつも静けさとイグサの匂いと、障子から差し込む西日の温かさで満ちている。
「……よし」
小さく息を吐いた絃一郎は、押入れ収納から十七絃を取り出した。そうして演奏の準備を整え、柔らかな畳の上へ正座すると、譜面台に楽譜を置く。
演目は、和楽器のメロディが特徴的な流行歌。それを、永海と美作が楽譜に起こしてくれた、お手製の十七絃譜である。
絃一郎は、この曲を風鈴祭で演奏する。
筝曲同好会唯一のメンバーとして、音楽棟前の広場で行われる「ジャムステージ」で十七絃を披露するのだ。
あれは、九月のコンクール予選が終わって間もない頃だっただろうか。
「寺方くん。今度、風鈴祭があるでしょう。そこで、ジャムステージに出てくれない?」
「はい?」
永海が前触れもなくそう言ったのは、声楽部の練習が終わり、個人練習室の鍵を返した職員室の前だった。
絃一郎は目を丸くした。居合わせた小清水と美作も、互いに顔を見合わせる。
「なになに、りっくんとてらちゃん、ジャム出るのぉ?」
「僕は出ないよ。寺方くんに、筝曲部の十七絃奏者としてジャムステージに出てほしい」
「えっ」
「あら、いいわね」
「えぇ~! ってことは、てらちゃん、琴弾けるの⁈」
「すごく上手なんだよ。この前の夏祭りの時、ステージに立ってくれるって約束したもんね?」
「し、しました。しましたけど……ちょ、ちょっと待ってください? そもそも、筝曲部は廃部になってて……。っていうか、ジャムステージって?」
降参するように両手を上げると、小清水が簡単に教えてくれる。
「ジャムステージは、毎年音楽棟前の広場でやってる、飛び入り参加上等の演奏スペースね。一応、参加者を募って演目が組まれるけど、誰でも途中参加オーケー。楽器も演目もぐっちゃぐちゃになるから、『ジャム』ステージってこと」
「な、なんですか、そのとんでもないステージは……」
「去年はりっくんがフリーセッション独占して、大変なことになってたよねぇ」
「あったわねー……思い出したくもない……」
「ね。楽しかったなぁ」
遠いどこかへ視線を飛ばす美作と小清水。満面の笑みで小躍りする永海。何が起きたかは知る由もないが、声楽オバケが大暴れだったことだけは聞かずとも分かる。
「まぁ、おかげで今年の新入部員が増えて助かったんだけどさ」
苦笑混じりに言った小清水に、永海は「だからだよ」とうなずいた。
「ジャムステージなら一人でも参加しやすいし、広場でやるから多くの人の目に留まりやすい。そうやって注目が集まれば、今は廃部になってる筝曲部にも部員が集まって、活動を再開出来るかもしれない。だから、ジャムが良いと思ったんだ」
「な、なるほど……」
「……あと、ジャムで寺方くんの演奏を見せびらかしたい」
「絶対そっちが本音じゃん?」
「当たり前でしょ」
小声で付け足された理由に美作が首を傾げれば、永海は食い気味に答えた。そこまではっきり言い切られると恥ずかしいのだが。
それから、あれよあれよという間に話は進み。
永海は、コンクールを終えた日に「今度は僕が、君を輝かせてみせるから」と宣言した通り、惜しみなく手を貸してくれた。筝曲同好会を立ち上げ、兼部の申請をするのも。美作とともに楽譜を書き起こすのも。小清水とともにジャムステージの参加申し込みをするのも。
そうして、音楽棟ではなくお座敷棟へ足を運ぶようになってから、早一週間。
完成度は上々だ。九月のコンクール予選が終わってから、少しずつ練習を進めてきた甲斐があった。普段家で弾いているものとは違う、筝曲部で使われていた年季の入った楽器にも慣れてきた。……オバケだらけの不気味な日本家屋には未だに慣れなくて、入るには鈴鳴神社のお守りが手放せないが。
絃一郎は、十七絃の上に左手を乗せて。
「……っ」
一度、膝の上に戻した。
譜面台の側に置いた黒い巾着袋から音叉を取り出すと、その先端で肘を叩き、耳に近付ける。
♪――……
小さな音を聞きながら、深呼吸を一つ。
思い浮かべるのは、夏祭りの日、花火を見上げながら聞いた永海の声だ。キラキラ輝いてる君が見たいと言ってくれた、あの熱を帯びた声。
……そうやってどんなに自身を奮い立たせても、恐怖は消えない。
大勢の前で筝を演奏することは――母を殺しかけた音を聞かれることは、恐ろしい。
一度、鈴鳴神社での奉納演奏は経験したが、今度は訳が違う。より多くの聴衆を前にして、彼らの目と耳を奪うために、ステージの主役として十七絃を弾かなければならない。楽譜を目の前にして、その光景を想像しただけで、身がすくんで心臓が暴れ始める。
それでも。
ずっと夢に見ていた、筝曲部がもう一度立ち上げられるなら。永海の期待に応えられるなら。……あなたの晴れやかな笑顔が見られるなら。
「……よし」
絃一郎はもう一度、十七絃の上に震える左手を乗せた。
ピピピ、とスマートフォンが鳴る。
お座敷棟まで届かない、部活動の終了時刻を知らせるチャイム代わりのアラームだ。片付けを済ませた絃一郎は、お座敷棟を後にし、鍵を返すため本校舎の職員室へ向かう。
そうして帰路へ着こうと、昇降口へ続く廊下を歩いていた時だった。
ふと、足が止まる。
本校舎から音楽棟へと続く渡り廊下にある、体格の良い大きな人影。
渡り廊下は薄暗く、目を凝らしてみても誰なのかは分からなかった。だがどうやら、何かを背負い、ゆっくりとした足取りで本校舎へ向かってきているらしい。
不思議に思っていると、影から声がかかった。
「寺方、いいところに」
「あぁ、近藤先輩。お疲れ様です」
この語気の強い声は、吹奏楽部の近藤だ。
すぐに気が付いた絃一郎は、会釈と挨拶を返す。と、その直後、近藤の背中で何かがモゾリと動いた。
「おい、無理に動くな」
「え?」
「寺方、お前も一緒に来い。俺には、こいつの面倒は見切れん」
「なっ」
疲れをにじませた言葉とともに、本校舎の明かりが届く距離まで影が近付いてきて、その姿が露わになる。
少し前屈みになって、両手を背中に回した制服姿の近藤。その手は青い学校指定のジャージを履いた膝を抱えていて、肩には脱力した細い腕と艶やかな黒髪の丸い後頭部が乗っている。
気付いた瞬間、絃一郎の喉から裏返った叫び声が飛び出した。
「な、永海先輩っ⁈」
その声に応えるように、近藤の肩に乗っていた後頭部が起き上がる。
近藤に背負われていたのは、顔面蒼白の永海だった。
「いやぁ、それがね……歌ってる最中に、突然倒れちゃってさ」
そう言った小清水が、自身の耳を指差す。それだけで、絃一郎は永海が倒れた理由を察した。
無意識に、苦しげな呼吸音の方へ視線が向く。
保健室のベッドに寝かされた永海は、目を閉じたきり微動だにしない。わずかに眉を寄せるだけで、何の感情も現れない仏頂面。いつも見ているはずなのに、こんなにも血の気が無いとひどく不安になる。
ベッド横のパイプ椅子に腰を降ろした絃一郎は、ずっとそこから離れられずにいた。近藤と入れ替わるように小清水と美作がやってきても。こうして、二人から永海が倒れた経緯を教えてもらっている間も。
「そうなの! 急にバターンッ! って! マジ心臓止まるって、あれは」
「隣だもんね、アルト」
「ホントヤバいよ、スッて視界から消えるの。えっぐいビビる」
「まぁ、貧血みたいなもので、休めば治るみたいだけど……にしても、ちょっと心配よね」
「ね。最近多いよねぇ? 風鈴祭のアカペラに入ってから、急に増えたんじゃない?」
聞こえてきた美作の言葉に、絃一郎はぎょっとした。
「えっ? 永海先輩、風鈴祭出るんですか⁈」
「そ~なの! 信じらんないよねぇ⁈」
「あー……やっぱり伝えてなかったんだ、永海のやつ……」
「コンクールが終わった後、『入れるパートある?』とか言い出してさぁ。あの『伴奏嫌い』のりっくんがだよ⁈ もう、み~んな大騒ぎで!」
聞けば、声楽部が風鈴祭で披露するのは、有名なミュージカル曲のアカペラだという。突然参加を表明した永海に、編曲担当はノリノリでカウンターテナーのパートを書き足し、日々練習に励んでいるそうだ。
そんなの倒れるに決まってるじゃないか。
いつか、永海は言っていた。
『心の内の音色を聞いてる具合が悪くなってくるから、普段はなるべく聞かないように意識を逸らしてるんだけど』
永海が倒れたのは、きっとそれが原因だ。呪われた耳でもって、他人の心の内をたくさん聞いてしまったから。
だからこそ、永海は誰かとともに歌うことを徹底的に避けていたはずだ。
だというのに、どうして。
青ざめる絃一郎をよそに、一通り話し終えた美作は、満足げな顔で「じゃ、りっくんの荷物取ってくるね」と小清水を連れて保健室を出ていってしまった。
扉越しに聞こえる、遠ざかっていく足音。
保健室には、秒針の音と不安定で頼りない呼吸の音だけが、いやに響いていた。それを聞きながら、膝の上で両手を組んでうつむく。上下する胸を見つめたまま。どうしてそんな、倒れるような無茶を、とたずねられないまま。
不意に、呻き声にも似た、小さな息遣いがした。
「――……できなければ……この風鈴祭で、誰かとともに歌えると証明出来なければ、高校で歌を辞めなくちゃいけないからだよ」
「え」
「そんな耳で歌手になるな、って、父に……言われているから……」
ハッとして顔を上げると、永海は目を閉じたままだった。
その血色の悪い唇だけが震えて、今にも消えてしまいそうな声がもれ聞こえてくる。
「君と歌うのは、本当に楽しくて……君と歌えれば、それだけで良かった……」
「はい……」
「……本当はね。本当は…………君と歌うことは、歌を失うまでの、最後の楽しみだと思ってたんだよ」
「……辞めるつもり、だったんですか」
「うん。でも、気が変わった」
「……え?」
鼻から息が抜ける音がして、永海の口の端が、ほんのかすかに持ち上がる。
「君が『僕は歌手になれる』と言ってくれて……僕が、歌で生きていけると、信じて疑わないでいてくれて…………最後まで、あがいてみてもいいかもしれない、って……――」
それきり、永海はまた口を閉ざしてしまった。
聞こえる息遣いは、先ほどよりも静かで、穏やかだった。気力も体力も尽き、眠ってしまったのだろうか。
絃一郎は、信じられない思いで、その寝顔を見つめていた。
つまり、永海は証明しようとしているのだ。
風鈴祭という晴れ舞台で、声楽部の一員としてアカペラが歌えるのだ、ということを。
コンクールが終わったあの日、永海が答えた「僕も頑張る」という言葉は、「呪われた耳を克服してみせる」という意味だったのだ。
理由など、ただ一つ。
歌のためだ。
何より愛してやまない、歌を失わないためだ。……絃一郎が「なれるに決まってるじゃないですか」なんて無責任に言った、歌手への道を閉ざさないためだ。
その言葉は、間違いなく本心だった。今だってそう信じている。だが、こんな。
この素晴らしい人が夢中で歌って輝く姿が見たいのに、それは呪われた耳の苦痛を味わえと言っているのと同じで。これ以上苦しまないでほしいのに、ずっと歌っていてほしくて。相反する思いで胸がいっぱいで、頭がぐちゃぐちゃになる。
……あぁ、あなたの耳が、呪われてさえいなければ!
声楽部の部員たちと歌うのだから、絃一郎が力を貸すことは出来ない。
だとしても、何か。何かないのか。何でもいいから、永海の助けになれることは――。
