ついに迎えた、コンクール地区大会。
九月に行われた予選を突破し、十月の本戦へと進んだ永海は、第三位入賞という成績を残した。
全国大会の切符を掴んだのは、第一位と第二位に輝いた二人だった。
張り詰めていた緊張が緩んだコンサートホール。制服姿の出場者や保護者たちが行き交い、あちこちから労いと祝福の声が聞こえるロビー。
その片隅で、絃一郎は柔らかなソファに腰を沈め、ずっと背中を丸めていた。
「もう……どうしてそんなに君が泣くの」
「す、すみません……」
隣で背中を撫でてくれる永海が、弾んだ声で言う。
その顔にどんな表情が浮かんでいるのか、うつむいたままの絃一郎には分からない。
それでも、その声を聞いて目に浮かぶのは、晴れやかな顔だった。
「僕はすごく楽しかったよ。こんなに清々しい気持ちで歌えたのは初めて。寺方くんの伴奏のおかげだよ。改めて、君に伴奏を引き受けてもらえて良かったなって思ってる」
「はい……」
確かに永海は、スポットライトに照らされた舞台上でも、結果の掲示を見た後もずっと、今にも鼻歌を歌い始めるんじゃないかという様子だった。心の内が音色になって聞こえる苦痛に耐えることなく、伸び伸びと歌えた――絃一郎が伴奏の役目を果たせた、何よりの証拠だ。
「寺方くんは楽しく……いや。そうだな、君は感動屋さんだから、楽しむより感動が勝ってるかな?」
「……はは、仰る通りです。とっても感動しました。楽しめたかと言われると……ものすごく緊張していたので、あまりそういう余裕はありませんでしたけど」
「やっぱり」
「演奏が終わって、永海先輩の背中を見た時……何というか、ぐわぁ~っとなる感じがしました」
「ぐわぁ~っと……?」
どうやらピンとこなかったらしい。
だが、構わなかった。心の底で何かが沸騰しているような、胸が熱くなって涙があふれてくる感情は、とても言葉では言い表せそうにない。
「……でも、全国大会には行けませんでした」
「それは君のせいじゃないよ。誰のせいでもない。ただ、他のみんなが僕たちより素晴らしかっただけ」
「だとしても……!」
永海の言うことは、その通りだと思う。
むしろ、この春に始めたばかりの伴奏で予選を勝ち抜き、全国大会目前まで届いたなんて大健闘じゃないか。やれることは全てやって、永海とともに頑張ってきた成果じゃないか。そう思う自分もいる。
だが、もしも。
もしも、永海の伴奏が絃一郎ではなかったら。
もっとピアノが上手で、声楽の知識がある、永海の歌を誰よりも輝かせられる最高の引き立て役だったなら――絃一郎が、そんな伴奏になれていれば。
「きっと、もっと大きな舞台に行けたはずなんです、永海先輩は。もっと輝けるはずなんです、あなたの歌は……! だから、悔しくて……! 全国大会で歌うあなたが見たかった……! あなたの歌を、もっと聞いていたかったのに……!」
「……そう」
すると、背中を撫でていた人肌にしては少し冷たい体温が離れ、ポンと頭の上に乗った。後頭部を撫でる優しい感触に、絃一郎はつい顔を上げてしまう。
瞬間、息をのんだ。
こちらを真っ直ぐに見つめる、寂しげな瞳。寄せられた眉。何か言いたげに小さく開かれた口元。
こんな永海の表情を見るのは初めてだった。
視線がぶつかったまま、数秒。
歌声よりもずっと小さな、内緒話をするかのような声で、永海は言う。
「ねぇ、寺方くん」
「はい」
「君は、僕が歌手になれると思う?」
「え? ならないんですか?」
「どう思うって聞いてるの」
そんなの答えるまでもないと思うのに、余裕なさげに答えを急かされる。そのチグハグさが無性に愛おしくなって、絃一郎は自身の頬に笑みが広がっていくのが分かった。
「なれるに決まってるじゃないですか。あなたはこんなに歌が好きなのに! きっと、あなたが歌手になれなければ、この世の誰も歌手になんてなれませんよ」
すると、永海は一瞬だけ目を見開いて。
「そう。……そっか、そうだよね」
つぶやきながら何度もうなずいて、かすかに微笑んだ。
「じゃあ、来年も一緒にコンクール出てくれる?」
「勿論です」
「即答だ」
「そ、それだけ悔しいんですよ……!」
「ふふ、ありがと」
「俺、もっと頑張りますね。今よりもっと、永海先輩の歌を輝かせられる、最高の引き立て役になれるように」
「楽しみにしてる。……僕も、頑張るよ」
言いながら、永海はソファに背中を沈ませて、目を閉じる。
その言葉尻に、絃一郎はひっかかりを覚えた。
いやに硬い声だった。聞き慣れた繊細な響きはどこにも無くて、覚悟めいた強張りばかりがある声色。こんな声、前にもどこかで聞いたような――。
――その真意は、間もなく明かされることになる。
九月に行われた予選を突破し、十月の本戦へと進んだ永海は、第三位入賞という成績を残した。
全国大会の切符を掴んだのは、第一位と第二位に輝いた二人だった。
張り詰めていた緊張が緩んだコンサートホール。制服姿の出場者や保護者たちが行き交い、あちこちから労いと祝福の声が聞こえるロビー。
その片隅で、絃一郎は柔らかなソファに腰を沈め、ずっと背中を丸めていた。
「もう……どうしてそんなに君が泣くの」
「す、すみません……」
隣で背中を撫でてくれる永海が、弾んだ声で言う。
その顔にどんな表情が浮かんでいるのか、うつむいたままの絃一郎には分からない。
それでも、その声を聞いて目に浮かぶのは、晴れやかな顔だった。
「僕はすごく楽しかったよ。こんなに清々しい気持ちで歌えたのは初めて。寺方くんの伴奏のおかげだよ。改めて、君に伴奏を引き受けてもらえて良かったなって思ってる」
「はい……」
確かに永海は、スポットライトに照らされた舞台上でも、結果の掲示を見た後もずっと、今にも鼻歌を歌い始めるんじゃないかという様子だった。心の内が音色になって聞こえる苦痛に耐えることなく、伸び伸びと歌えた――絃一郎が伴奏の役目を果たせた、何よりの証拠だ。
「寺方くんは楽しく……いや。そうだな、君は感動屋さんだから、楽しむより感動が勝ってるかな?」
「……はは、仰る通りです。とっても感動しました。楽しめたかと言われると……ものすごく緊張していたので、あまりそういう余裕はありませんでしたけど」
「やっぱり」
「演奏が終わって、永海先輩の背中を見た時……何というか、ぐわぁ~っとなる感じがしました」
「ぐわぁ~っと……?」
どうやらピンとこなかったらしい。
だが、構わなかった。心の底で何かが沸騰しているような、胸が熱くなって涙があふれてくる感情は、とても言葉では言い表せそうにない。
「……でも、全国大会には行けませんでした」
「それは君のせいじゃないよ。誰のせいでもない。ただ、他のみんなが僕たちより素晴らしかっただけ」
「だとしても……!」
永海の言うことは、その通りだと思う。
むしろ、この春に始めたばかりの伴奏で予選を勝ち抜き、全国大会目前まで届いたなんて大健闘じゃないか。やれることは全てやって、永海とともに頑張ってきた成果じゃないか。そう思う自分もいる。
だが、もしも。
もしも、永海の伴奏が絃一郎ではなかったら。
もっとピアノが上手で、声楽の知識がある、永海の歌を誰よりも輝かせられる最高の引き立て役だったなら――絃一郎が、そんな伴奏になれていれば。
「きっと、もっと大きな舞台に行けたはずなんです、永海先輩は。もっと輝けるはずなんです、あなたの歌は……! だから、悔しくて……! 全国大会で歌うあなたが見たかった……! あなたの歌を、もっと聞いていたかったのに……!」
「……そう」
すると、背中を撫でていた人肌にしては少し冷たい体温が離れ、ポンと頭の上に乗った。後頭部を撫でる優しい感触に、絃一郎はつい顔を上げてしまう。
瞬間、息をのんだ。
こちらを真っ直ぐに見つめる、寂しげな瞳。寄せられた眉。何か言いたげに小さく開かれた口元。
こんな永海の表情を見るのは初めてだった。
視線がぶつかったまま、数秒。
歌声よりもずっと小さな、内緒話をするかのような声で、永海は言う。
「ねぇ、寺方くん」
「はい」
「君は、僕が歌手になれると思う?」
「え? ならないんですか?」
「どう思うって聞いてるの」
そんなの答えるまでもないと思うのに、余裕なさげに答えを急かされる。そのチグハグさが無性に愛おしくなって、絃一郎は自身の頬に笑みが広がっていくのが分かった。
「なれるに決まってるじゃないですか。あなたはこんなに歌が好きなのに! きっと、あなたが歌手になれなければ、この世の誰も歌手になんてなれませんよ」
すると、永海は一瞬だけ目を見開いて。
「そう。……そっか、そうだよね」
つぶやきながら何度もうなずいて、かすかに微笑んだ。
「じゃあ、来年も一緒にコンクール出てくれる?」
「勿論です」
「即答だ」
「そ、それだけ悔しいんですよ……!」
「ふふ、ありがと」
「俺、もっと頑張りますね。今よりもっと、永海先輩の歌を輝かせられる、最高の引き立て役になれるように」
「楽しみにしてる。……僕も、頑張るよ」
言いながら、永海はソファに背中を沈ませて、目を閉じる。
その言葉尻に、絃一郎はひっかかりを覚えた。
いやに硬い声だった。聞き慣れた繊細な響きはどこにも無くて、覚悟めいた強張りばかりがある声色。こんな声、前にもどこかで聞いたような――。
――その真意は、間もなく明かされることになる。
