カウンターテナーと十七絃 ~耳に残った呪いの音色を奏でるまで~

 参道の石段を降りていくと、鳥居の下に永海が立っていた。
「いい演奏だったよ。お疲れ様、寺方くん」
 開口一番そう言って、手招きする永海。こい、こい、と手が動くたび、口の広い袖が軽やかに揺れている。
 絃一郎は、その涼しげな姿に目を奪われた。
「お待たせしました、永海先ぱ…………ゆ、浴衣ですね?」
「うん。折角の夏祭りだし、着てきた」
 永海は表情も姿勢も変えず、淡々とうなずいた。折角と言った割に、興味はあまり無いらしい。
 スマートフォンに来ていたメッセージは「鳥居のところで待ってる」だけ。その短い連絡でも、永海には他の演奏が()()()()しまうから境内会場には居られないこと、演奏が終わったら一緒に屋台を回ってくれるつもりであることは察しが付いていた。
 だがまさか、永海も浴衣だとは。
 柄の無い紺地に、生成りの帯。飾り気の無いシンプルなデザインのはずなのに、永海が着ているだけで洗練された存在感がある。スラリとした落ち着いた立ち姿は、道行く人が振り返るほど様になっていた。
 二人は連れ立って、屋台が並ぶ通りへと足を運んだ。
「寺方くん、耳はどう? 何か変化はあった?」
「は、はい。おかげさまで良くなりました。舞台上でちょっと色々起きまして……多分、それがきっかけだと思うんですけど……」
 そう前置いてから、絃一郎は筝を弾き終えた後に起こったことについて、永海に話して聞かせた。自身の中に鈴鳴様が入っていくのを見たこと――それが、絃一郎に筝を教えてくれた幽霊だったことも。
「……それで、思い返してみると、先生が俺の耳に触った時に痛みが治まってるんですよ」
「それは良かった」
「はい。なので、これは俺の想像ですが……俺に祟りが起きたのは、先生が悲しんでいたからなんじゃないかって。先生、合宿の時は悲しそうだったのに、あの時はすごく嬉しそうでしたから」
「そう。じゃあ、寺方くんの演奏に喜んで悲しくなくなったから、祟りもなくなった訳か」
「そ、そうなりますね。改めて言葉にされると、ちょっと照れくさいですけど……」
「いいじゃない。仲良くなれそうだ」
 わずかに上がった永海の口角から、笑いを込めた息がこぼれる。確かに、演奏一つでご機嫌になるなんて、どこかの声楽オバケのようだが。
 そこで絃一郎は、意を決して口を開く。
「そ、その……永海先輩は、嫌じゃありませんか?」
「なにが?」
 小首を傾げる永海。黒い瞳に真っ直ぐ見つめられた絃一郎は、胸の前で両手の指を組んで、解いて、また組んで。
「俺の中にいるのは、その……あなたを苦しめている人でしょう? いくら、そのおかげで()()()()()かもしれないとはいっても、そんなの……」
「? 嫌じゃないよ。寺方くんは寺方くんでしょう」
「な、ならいいんですけど……」
 さも当然のように永海は言う。
 舞台を降りてから、ずっと気になっていたのだ。永海は嫌がるのではないか、と。
 だが否定の言葉を聞いても、絃一郎の心は晴れなかった。それに気が付いて初めて、嫌なのは自分自身か、と自覚する。まるで裏切られたかのような、失望にも似た嫌悪感は、絃一郎の胸に鋭く刺さったまま抜けそうにない。
 それから、永海に連れられるまま、屋台を巡り。
 辺りが暗くなり始めた頃、「まもなく打ち上げ花火が始まります」というアナウンスが流れた。すると永海は絃一郎の手を取って、人の流れに逆らいながら歩き始める。
 着いたのは、集落を囲む雑木林の先、人気のない小さな東屋だった。どうやら近くの遊歩道に設けられた休憩所らしい。木々は眺望のために切り開かれ、一番星と家々の明かりが夜闇の中に光っているのがよく見えた。「穴場なんだって。小清水に教えてもらった」という声は、どこか自慢げだ。
 色あせた木製のベンチに並んで腰を降ろすと、永海はしみじみと言う。
「本当、いい演奏だったね、寺方くんの筝。歌わずにいるのが大変だった」
「そ、そんなにですか? 俺の音は……()()()()()音は、いつも聞いてるでしょうに……」
「うん。でも、いつもはピアノだし、僕のために弾いてくれてるでしょう。今日は違う。君が、ちゃんと君自身のために弾いてる演奏だった」
 記憶を辿るように夜空を見上げていた顔が、こちらを向く。
「寺方くんは、本当に筝のことが大好きなんだね。僕にとっての歌と同じだ」
「そ……っ」
 愛おしさを有りっ丈に込めた声がして、呼吸が止まった。
 永海に――歌を愛してやまないと叫ぶように歌うあなたに、そんなこと言われたら!
 胸の奥からこみ上げてくる思いは、もう隠しようがなかった。喉が締めつけられるように苦しくなっても、グッと奥歯を噛んでも、こらえきれなかった口が勝手に全てを吐き出してしまう。
「そうです。あなたの伴奏をするまで、俺には筝しかありませんでした。筝が大好きで、先生みたいに弾けるようになりたくて、ずっと筝ばかり弾いてきました」
「うん」
「でも、筝なんか弾けたって……!」
 喉元を隠すストールを、首が絞まるほどぐしゃぐしゃに握り込む。それでも、自然とあふれてくる言葉は止まらない。
「……俺の首の傷、切ったのは母なんです」
「え……」
「俺が最初に弾いてた十七絃は、母が手斧で叩き壊しました。その時……筝をかばおうとしたら、刃の先が当たってしまって」
 ――あれは、八歳の夏。祖母の家の離れで出会った幽霊の先生から、十七絃を教わった後。
 来る日も来る日も、教えられるまま夢中で箏を弾いていた絃一郎。それを見かねたのか、「好きこそものの何とやらっていうだろ?」という塚路の計らいで、十七絃を借り、家へ持って帰ってもいいことになった。
 だが、経緯を聞いた母は真っ青になって怯え、筝を――筝を弾く絃一郎のことを気味悪がった。その音色を聞くたびに震え、耳を塞いでいたので、絃一郎は母に隠れて弾かなければならなかった。
 それからしばらくが経った、ある日。
 玄関の扉が開く音がして、慌てて筝を弾いていた手を止める。
 ドンッドンッと近付いてくる足音に、恐る恐る振り返ると、そこには手斧を持った母が立っていた。
「うるさい! やめて! その気持ち悪い音、二度と出さないでって言ったでしょう!」
「ご、ごめんなさ……っ!」
「筝なんか無ければいいのよ! そうすれば、最っ低な音を聞かずに済む! こんなものが、あるからッ……!」
 絶叫しながら、母は手斧を振り下ろした。その刃先が、筝をかばおうと身を乗り出した絃一郎の喉元をかすめる。幸い、傷は深くはなかったが、小さな体を弾き飛ばすには十分で――。
 ――鳴り響く固定電話の音で目を覚ました時、絃一郎は、自らの血で染まった木片の中で横たわっていた。
 ふらふらと身を起こし、義務感だけで受話器を取れば、相手は叔父だった。
 母が交通事故に遭った、という。錯乱した様子で道路に飛び出して、車に――。
 感情を押し殺した叔父の声を聞きながら、絃一郎は自分が母を殺したのだと思った。……まぁ、それは早とちりで、母は一命を取り留めたのだが。
 それから絃一郎は、母と引き離され、叔父一家に引き取られた。塚路が今でも面倒を見てくれるのは、あの日のきっかけを作ってしまった後ろめたさもあるのだろう、と絃一郎は思っている。
「筝なんか弾けたって、何にもならないんですよ。俺にとって、筝を弾くことは母を殺すことと同じですから」
「……うん」
「筝を弾くたびに後悔して、自分が嫌いになるし。そんなもの誰かに言える訳も、ましてや人に見せられる訳もなくて、ずっと一人で家で弾いてたら『ひきこもり』って馬鹿にされるし、気味悪がられるし。……筝が弾けて良かったことなんか一つも無くって、みじめで、嫌なことばっかり」
「……」
「……それでも、やめられないんです」
 絃一郎は、今にも途切れてしまいそうな息で言う。
「しょうがないんです、あこがれちゃったから」
 絞り出した声は、言い訳のようだった。
 理由など、それだけだった。筝が好きで好きでたまらなくて、楽しくて、先生のように上手に弾けるようになりたくて。ただ、筝を弾くのに夢中なだけで。
 きっと、この身を焦がして燃え尽きたのなら、灰になって残るのがその愛だ。死んでも消えない、この身を縛る呪いのような激情。
 それが、絃一郎にとっての憧れであり、筝だった。
「……そっか」
 少しの沈黙の後、静かに話を聞いていた永海が小さな声で言う。
「じゃあ、しょうがないね」
 ひどくかすれた、優しい声だった。
 瞬間、カッと目頭が熱くなって、ボロボロと涙があふれてきた。
 あぁ、そうか。しょうがなかったのか。
 絃一郎は知っている。永海が、もう二度と歌えなくなる呪いをかけられた耳でも、その愛でもって、歌うのを止めなかったことを。
 その永海が言うのだから、きっとしょうがないのだ。言い訳なんか必要ない。
 不意に、辺りがパッと明るくなった。
 顔を上げれば、夜空に丸く飛び散る、鮮やかな黄色い閃光。一拍遅れて、バン、と爆発音が鳴る。
「始まったね、打ち上げ花火」
「……綺麗ですね」
 だがこんなに眩しいと、頬に伝う水滴が見えてしまうかもしれない。なんて思った直後に、ズ、と鼻をすすってしまってしまった。それでも泣いてるなんてバレたくなくて、絃一郎は悪あがきのようにストールに顔を(うず)める振りをする。
「ねぇ、寺方くん」
「なんでしょう」
「僕の伴奏を引き受けてくれた時さ。君は、僕のことを『とっても眩しい』って言ってくれたでしょう」
「よく覚えてますね……」
「忘れないよ」
 そう言われても、絃一郎には思い出せなかった。今でも変わらず、そう思ってはいるけれど。
「その気持ち、ちょっと分かったんだ」
「……俺が、眩しかった、ってことですか?」
「そう。眩しくて、もっと輝いてほしいって気持ち」
 永海の低くかすれた声とともに、続けて花火が打ち上がる。
 チラリと視線だけで隣を見れば、永海はどこか柔らかな表情で、パラパラと音を弾けて消える光を見上げていた。
「君自身がどう思っていようが、君の演奏が素晴らしいことに変わりはない。()()()なくても分かる。君が奏でる音色を聞いて、弦を弾く姿を見れば、どれだけ君が筝を愛しているか分からないはずがない。君の演奏をもっと見たい、好きでたまらないって叫びをもっと聞きたい、そう思わされてしまう――多分、この気持ちのことだ」
「……そうかもしれません。俺も、キラキラ輝いてる永海先輩が見たいなって、いつもそう思って伴奏をしてますから」
「じゃあ、僕にももっと見せてほしい」
「え」
 突然、視界の端にいた永海が身を乗り出してきて、絃一郎は思わず仰け反った。
「九月のコンクールが終わったら、文化祭があるでしょう。そこで、ジャムステージに出てほしい」
「え、えぇっ?」
 たちまち、絃一郎の頭の中が疑問符で埋め尽くされる。可能なのか、そんなこと。筝曲部は廃部になっているのに。というかそもそも、ジャムステージって何だ。
 だが、間近に迫った熱っぽい興奮気味の瞳を前に、一つも口にすることは出来なくて。
「今度は僕が、君を輝かせてみせるから。だから、僕にも見せてよ、キラキラ輝いてる寺方くんをさ」
「……その言い方は、ズルいですって」
 そんなの、応えたくなっちゃうだろ。
 また一つ花火が打ち上がって、ほんの一瞬、辺りがまばゆい光に照らされて輝く。――きっと、絃一郎も。その頬も。
 まるで、観念しな、とでも言われているかのように思えて、絃一郎はたまらず天を仰いだ。