カウンターテナーと十七絃 ~耳に残った呪いの音色を奏でるまで~

 そっと板張りの床を踏めば、ギィッと嫌な音が響く。
 同時に、心臓をギュッと握られるような心地がした。
 きしんだ音がやけに大きく聞こえるのは、本校舎の喧騒が遠いせいだろう。鈴ヶ丘(すずがおか)高校の敷地の隅に立つこの別棟は、いっそ不気味なほど静かで、人の気配がない。
 まるで、外の世界と隔離されているような――。

 ――バンッ!

「ヒィッ……?!」
 突然鳴り響いた、何かを叩くような衝撃音。
 たまらず全身が縮み上がる。それでも、ほとんど反射のように首だけが後ろを向く。
 夕焼け色に染まる、年季の入った日本家屋。
 先の見えない、暗がりばかりが続く長い廊下。
 見れば、そこに並んだ窓が音を立てて震えていた。ガラスの向こうでは風がうなっていて、庭木たちが今にも千切れてしまいそうなくらい揺れている。
 それだけだった。
「な、何もいない……いない、よな……」
 きっと、突風が窓を叩いた音だったのだろう。ほら、春は風が強いから。うん、きっとそう。
 ただ、それだけを自分に言い聞かせる。ドッドッと胸を叩く音をかき消すように、何度も、何度も。
 一歩も動けないでいると、淀んだ空気がじっとりと肌にまとわりついてくる。その生温かさと、背中を伝う汗の冷たさがチグハグで、ずっと鳥肌が止まらない。
「……」
 そこでふと、胸元を握りしめていたことに気が付いた。ぐしゃぐしゃになったシャツとハイネックのインナーはそのままに、そっと右手を開く。
 握ったままだった、『お座敷棟(ざしきとう)筝曲部(そうきょくぶ)』のラベルが付けられた鍵束。
「…………や、やっぱり、一緒に来てもらえば良かったかなぁ」
 それを恨めしい思いで見つめながら、寺方(てらかた)絃一郎(げんいちろう)は、深いため息をついて肩を落とした。

 数十分前。
「残念だけど、筝曲部は今年から廃部になったの」
「え……?」
 絃一郎は、返す言葉を失ってしまった。
 放課後、職員室にいたジャージ姿の教師へ「筝曲部の活動日っていつなんですか?」とたずねた後のことである。そんな質問をしたのは、筝曲部へ行こうと向かったお座敷棟に鍵がかかっていて、活動していない日なのだと早合点したからだ。
 それが、まさか。
「は、廃部に? え、あの、入学式の日にいただいた部活紹介には、確かに『お座敷棟で活動中』って書いてあって……!」
「あれぇ、そうだった? 見せてごらん」
 首を傾げる教師に、絃一郎は持っていた冊子を手渡す。
「……あちゃー、本当だ。急なことだったから、そのまま()っちゃったんだろうなぁ。ごめん。申し訳ないことをしたね」
「い、いえ……」
 返された冊子を受け取った絃一郎は、開かれた『筝曲部の活動紹介』の文字が躍ページから目が離せないまま、たずねる。
「でも、去年の文化祭では、たくさんの方が演奏されてましたよね?」
「嬉しい~。聞きに来てくれてたんだ」
「はい。なのに、どうして廃部になんか……」
「それはね、え~……その、部員がみんな辞めちゃったんだ。ちょっと、いや結構、いろいろあってね」
「……そうですか」
 そう言葉を(にご)されては、うなずくしかない。この四月から入学したばかりの新入生には、知る(よし)もないことだ。
 絃一郎が鈴ヶ丘高校への進学を決めたのは、箏曲部へ入るためだった。
 鈴ヶ丘高校は、県内でも有数の音楽活動が盛んな高校である。その特色は、クラス編成や学校行事、校舎の設備などにも表れているが、特に顕著(けんちょ)なのが部活動。要するに、筝曲部がある高校はここだけだったのだ。
 だから、絃一郎はもう、指一本さえ動かせないような心地だった。
 頭の中に、いつか聞いた悲鳴が(よみがえ)る。
『うるさい! やめて! その気持ち悪い音、二度と出さないでって言ったでしょう! 筝なんか――』
 ――そんなことはない、と思いたかった。そう思えない自分が嫌だった。だから、筝曲部に入れば、文化祭のステージで喝采の拍手を浴びていた彼らと一緒に演奏出来たなら、きっと何かが変えられると思っていた。なのに――。
 たちまち呼吸が止まりそうになって、かたく目を閉じ、震える息を吐きだす。
 その時、トンッと肩を小突かれた。
 ハッとして顔を上げれば、にんまり顔の教師がこちらを見ていて。
「折角だからさ、行ってみない? 部室」
「え」
 思わぬ提案に、絃一郎はポカンと口を開けて固まった。
「あぁ、部室っていうのは、そこに書いてある通り『お座敷棟』の和室ね」
「え、いえ、あの」
「楽器や道具はそのままにしてあるから、弾いてみてもいいよ」
「えぇっ、そんな、部外者なのに」
「演奏を聞いて入学してくれた子を部外者とは言いませ~ん。はいコレ、部室の鍵」
 宙をさまよっていた絃一郎の手へ、キーボックスから取り出した鍵束が問答無用で握らされる。いくら首を横に振ってもお構いなしだ。勢いに負けた絃一郎は、仕方なくそのまま受け取ることにする。
「ほ、本当にいいんですか?」
「だって、廃部になったって聞いてあんな顔されたら、ねぇ! ……大好きなんでしょ? 筝のこと」
「それは……」
 そこで、言葉が止まった。
 喉が締めつけられるように苦しくなって、何も言えなくなる。吐き出せなかった息を砕くように、グッと奥歯を噛む。
 すると、教師は柔らかく目を細め、どこか寂しそうな声で言った。
「私ね、去年まで筝曲部の顧問(こもん)やってたの」
「え……」
「どうしても筝が弾きたければ、同好会を立ち上げてもいいんだよ。私が顧問をやったげる。部活動としてやってくのは……最低三人は部員が必要で、ちょっと難しいだろうから」
「……はい、ありがとうございます」
 絃一郎は深々と頭を下げた。あぁ、きっと、この人も筝のことが大好きなんだと、心の片隅で思いながら。
 そうして「いってらっしゃ~い」と手を振る教師に見送られ、職員室を後にする。足取りは重かったが、胸の内だけは不思議と温かかった。……お座敷棟の玄関の引き戸を開け、廃部になった――部員がみんな逃げ出した理由を察してしまって、震え上がるまでは。
 あの親切な教師に、幽霊騒ぎがあったかどうか確かめた方がいいかもしれない。教えてくれるかは、望み薄だけれど。

 お座敷棟の薄暗い廊下をへっぴり腰で進みながら、教師が教えてくれたことを思い出す。
 玄関を入って左へ。そのまま長い廊下を真っ直ぐ進む。突き当りにある、一番奥の和室。
「……ここだ」
 (ふすま)引手(ひきて)に手をかけ、少しだけ迷ってから、恐る恐る横へと開く。
 たちまち、絃一郎はホッと大きく息をついた。
 床の間もない、質素な八畳の和室だった。初めて入るはずなのに懐かしさを感じるのは、ほんのりと香るイグサの匂いのせいだろう。
 壁一面に並んだ障子は西日を受けて輝き、畳の上に格子模様の影が落ちている。おかげで、部屋は明るく暖かい。四角い木枠の天井灯をつけ、柔らかな畳を踏んでみれば、今までの不気味さが嘘のように居心地が良かった。
 確か、楽器は収納の中だと言っていたっけ。
 すっかり調子を取り戻した絃一郎は、軽やかな足取りで中へ進むと、意気揚々と押入れ収納の鍵を開ける。
「おぉ……!」
 中には、たくさんの(そう)が立てかけられていた。
 畳一枚分ほどの長さがある、細長い長方形の木製の箱。上面は緩かなアーチを描いていて、美しい木目模様の上に両端にくくりつけられた十三本の(げん)が張られている。十三絃筝(じゅうさんげんそう)――一般的には「(こと)」と呼ばれる、和楽器の一つだ。
 整然と並んだ筝たちは、決して綺麗とは言えなかった。表面のいびつなへこみ。弦に塗られた赤い目印。だが、その使用感さえ絃一郎には愛おしかった。
 その時ふと、収納の奥に置かれた、十三絃をそのまま大きくしたような見た目の筝に目が留まる。
「……十七絃(じゅうしちげん)だ」
 気付けば絃一郎は、その大きな筝――十七絃筝(じゅうしちげんそう)を引っ張り出していた。
 より長く、重たい木箱を畳の上に置き、琴台(きんだい)という台座に乗せる。より太く、十七本に増えている弦と上面との間に、琴柱(ことじ)という三角形の支えを挟み、一本一本ピンと張っていく。
 そうして筝を整えたら、(かばん)に忍ばせていた箏爪(ことづめ)を取り出して、指にはめていく。親指、人差し指、中指。第一関節までぐっと押し込んだら、準備完了だ。
 筝の前に正座して、深呼吸を一つ。
 ……あの曲を弾こう。
 八歳の夏に『彼女』から教わった――決して忘れてしまわぬよう、今も弾き続けている曲。楽譜も何も無いが、音も調弦(ちょうげん)も、奏でる手の運びも全部、絃一郎の頭の中に入っている。
 琴柱をさっと動かして、弦の音を合わせる。左手を弦に乗せ、右手を構える。
 そして、小さく息を吸って。

 ――シャン、シャン、テン。

 水底に沈んだかと錯覚してしまいそうな、鼓膜をくすぐる低い音。

 ――シャン、シャン、テン。

 その余韻に重なっていく、(はじ)ける泡のようにきらびやかで、時にすすり泣くような、もの悲しい旋律。
 箏爪が弦を(はじ)くたび、不思議な低い音色が響く。
 耳の中を清らかなせせらぎが流れていくようだった。水底へ沈むように鳴る低音も、水飛沫のように歌うメロディも、流れ着いた胸の奥で美しく響いている心地がする。
 重なる二つの音色は、互いに呼びかけ合いながらも、しかし決して交わらない。それが一層切なさを深めていて、美しいはずの旋律さえ届かぬ叫びであるかのように聞こえてくる。
 絃一郎は、ただひたすら箏を弾いた。
 この曲を弾くと、目には見えなくとも「彼女」が側にいてくれるような、温かな気持ちになる。だが同時に、あんなことがあっても弾き続けられている自分に、やっぱりこれは「呪いの音色」だと思い知らされて寂しさと苦しさで胸がいっぱいになる。

 その時、どこからか声が聞こえた。

 ♪~……

 途端、ブワリと鳥肌が立つ。
 なんて綺麗な声なんだろう!
 高く、澄んだ声。だが細くはなく、芯の通った柔らかな歌。
 それが、筝の旋律の間を埋めるように、優しいメロディを奏でている。歌詞は無い。それでも、音色に込められた思いまで歌い上げるような、胸に響く歌声だった。
 あぁ、こんなにも穏やかで、じんわりと染み渡る曲だっただろうか。ただ歌が上に重なっただけなのに、全く別の曲のように思えてくる。
 軽やかに糸を弾き、切ない音色をかき鳴らす右手。
 時折糸を押し、旋律を支える左手。
 その音に応えるように響く、美しい歌声。
 絃一郎は、夢のような心地で筝を弾き続けた。
 不思議と怖くはなかった。むしろ、このままずっと弾いていたい――いや、でも、歌が聞こえるのはおかしくないか?
 ハッと我に返った絃一郎は、そこでようやく手を止めた。
 直後。
「ねぇ、君」
「ウワァ――――ッ⁈」
 突然背後から聞こえた声に、飛び上がった絃一郎の体が畳の上を転がった。