そっと板張りの床を踏めば、ギィッと嫌な音が響く。
同時に、心臓をギュッと握られるような心地がした。
きしんだ音がやけに大きく聞こえるのは、本校舎の喧騒が遠いせいだろう。鈴ヶ丘高校の敷地の隅に立つこの別棟は、いっそ不気味なほど静かで、人の気配がない。
まるで、外の世界と隔離されているような――。
――バンッ!
「ヒィッ……?!」
突然鳴り響いた、何かを叩くような衝撃音。
たまらず全身が縮み上がる。それでも、ほとんど反射のように首だけが後ろを向く。
夕焼け色に染まる、年季の入った日本家屋。
先の見えない、暗がりばかりが続く長い廊下。
見れば、そこに並んだ窓が音を立てて震えていた。ガラスの向こうでは風がうなっていて、庭木たちが今にも千切れてしまいそうなくらい揺れている。
それだけだった。
「な、何もいない……いない、よな……」
きっと、突風が窓を叩いた音だったのだろう。ほら、春は風が強いから。うん、きっとそう。
ただ、それだけを自分に言い聞かせる。ドッドッと胸を叩く音をかき消すように、何度も、何度も。
一歩も動けないでいると、淀んだ空気がじっとりと肌にまとわりついてくる。その生温かさと、背中を伝う汗の冷たさがチグハグで、ずっと鳥肌が止まらない。
「……」
そこでふと、胸元を握りしめていたことに気が付いた。ぐしゃぐしゃになったシャツとハイネックのインナーはそのままに、そっと右手を開く。
握ったままだった、『お座敷棟/筝曲部』のラベルが付けられた鍵束。
「…………や、やっぱり、一緒に来てもらえば良かったかなぁ」
それを恨めしい思いで見つめながら、寺方絃一郎は、深いため息をついて肩を落とした。
数十分前。
「残念だけど、筝曲部は今年から廃部になったの」
「え……?」
絃一郎は、返す言葉を失ってしまった。
放課後、職員室にいたジャージ姿の教師へ「筝曲部の活動日っていつなんですか?」とたずねた後のことである。そんな質問をしたのは、筝曲部へ行こうと向かったお座敷棟に鍵がかかっていて、活動していない日なのだと早合点したからだ。
それが、まさか。
「は、廃部に? え、あの、入学式の日にいただいた部活紹介には、確かに『お座敷棟で活動中』って書いてあって……!」
「あれぇ、そうだった? 見せてごらん」
首を傾げる教師に、絃一郎は持っていた冊子を手渡す。
「……あちゃー、本当だ。急なことだったから、そのまま載っちゃったんだろうなぁ。ごめん。申し訳ないことをしたね」
「い、いえ……」
返された冊子を受け取った絃一郎は、開かれた『筝曲部の活動紹介』の文字が躍ページから目が離せないまま、たずねる。
「でも、去年の文化祭では、たくさんの方が演奏されてましたよね?」
「嬉しい~。聞きに来てくれてたんだ」
「はい。なのに、どうして廃部になんか……」
「それはね、え~……その、部員がみんな辞めちゃったんだ。ちょっと、いや結構、いろいろあってね」
「……そうですか」
そう言葉を濁されては、うなずくしかない。この四月から入学したばかりの新入生には、知る由もないことだ。
絃一郎が鈴ヶ丘高校への進学を決めたのは、箏曲部へ入るためだった。
鈴ヶ丘高校は、県内でも有数の音楽活動が盛んな高校である。その特色は、クラス編成や学校行事、校舎の設備などにも表れているが、特に顕著なのが部活動。要するに、筝曲部がある高校はここだけだったのだ。
だから、絃一郎はもう、指一本さえ動かせないような心地だった。
頭の中に、いつか聞いた悲鳴が蘇る。
『うるさい! やめて! その気持ち悪い音、二度と出さないでって言ったでしょう! 筝なんか――』
――そんなことはない、と思いたかった。そう思えない自分が嫌だった。だから、筝曲部に入れば、文化祭のステージで喝采の拍手を浴びていた彼らと一緒に演奏出来たなら、きっと何かが変えられると思っていた。なのに――。
たちまち呼吸が止まりそうになって、かたく目を閉じ、震える息を吐きだす。
その時、トンッと肩を小突かれた。
ハッとして顔を上げれば、にんまり顔の教師がこちらを見ていて。
「折角だからさ、行ってみない? 部室」
「え」
思わぬ提案に、絃一郎はポカンと口を開けて固まった。
「あぁ、部室っていうのは、そこに書いてある通り『お座敷棟』の和室ね」
「え、いえ、あの」
「楽器や道具はそのままにしてあるから、弾いてみてもいいよ」
「えぇっ、そんな、部外者なのに」
「演奏を聞いて入学してくれた子を部外者とは言いませ~ん。はいコレ、部室の鍵」
宙をさまよっていた絃一郎の手へ、キーボックスから取り出した鍵束が問答無用で握らされる。いくら首を横に振ってもお構いなしだ。勢いに負けた絃一郎は、仕方なくそのまま受け取ることにする。
「ほ、本当にいいんですか?」
「だって、廃部になったって聞いてあんな顔されたら、ねぇ! ……大好きなんでしょ? 筝のこと」
「それは……」
そこで、言葉が止まった。
喉が締めつけられるように苦しくなって、何も言えなくなる。吐き出せなかった息を砕くように、グッと奥歯を噛む。
すると、教師は柔らかく目を細め、どこか寂しそうな声で言った。
「私ね、去年まで筝曲部の顧問やってたの」
「え……」
「どうしても筝が弾きたければ、同好会を立ち上げてもいいんだよ。私が顧問をやったげる。部活動としてやってくのは……最低三人は部員が必要で、ちょっと難しいだろうから」
「……はい、ありがとうございます」
絃一郎は深々と頭を下げた。あぁ、きっと、この人も筝のことが大好きなんだと、心の片隅で思いながら。
そうして「いってらっしゃ~い」と手を振る教師に見送られ、職員室を後にする。足取りは重かったが、胸の内だけは不思議と温かかった。……お座敷棟の玄関の引き戸を開け、廃部になった――部員がみんな逃げ出した理由を察してしまって、震え上がるまでは。
あの親切な教師に、幽霊騒ぎがあったかどうか確かめた方がいいかもしれない。教えてくれるかは、望み薄だけれど。
お座敷棟の薄暗い廊下をへっぴり腰で進みながら、教師が教えてくれたことを思い出す。
玄関を入って左へ。そのまま長い廊下を真っ直ぐ進む。突き当りにある、一番奥の和室。
「……ここだ」
襖の引手に手をかけ、少しだけ迷ってから、恐る恐る横へと開く。
たちまち、絃一郎はホッと大きく息をついた。
床の間もない、質素な八畳の和室だった。初めて入るはずなのに懐かしさを感じるのは、ほんのりと香るイグサの匂いのせいだろう。
壁一面に並んだ障子は西日を受けて輝き、畳の上に格子模様の影が落ちている。おかげで、部屋は明るく暖かい。四角い木枠の天井灯をつけ、柔らかな畳を踏んでみれば、今までの不気味さが嘘のように居心地が良かった。
確か、楽器は収納の中だと言っていたっけ。
すっかり調子を取り戻した絃一郎は、軽やかな足取りで中へ進むと、意気揚々と押入れ収納の鍵を開ける。
「おぉ……!」
中には、たくさんの筝が立てかけられていた。
畳一枚分ほどの長さがある、細長い長方形の木製の箱。上面は緩かなアーチを描いていて、美しい木目模様の上に両端にくくりつけられた十三本の弦が張られている。十三絃筝――一般的には「琴」と呼ばれる、和楽器の一つだ。
整然と並んだ筝たちは、決して綺麗とは言えなかった。表面のいびつなへこみ。弦に塗られた赤い目印。だが、その使用感さえ絃一郎には愛おしかった。
その時ふと、収納の奥に置かれた、十三絃をそのまま大きくしたような見た目の筝に目が留まる。
「……十七絃だ」
気付けば絃一郎は、その大きな筝――十七絃筝を引っ張り出していた。
より長く、重たい木箱を畳の上に置き、琴台という台座に乗せる。より太く、十七本に増えている弦と上面との間に、琴柱という三角形の支えを挟み、一本一本ピンと張っていく。
そうして筝を整えたら、鞄に忍ばせていた箏爪を取り出して、指にはめていく。親指、人差し指、中指。第一関節までぐっと押し込んだら、準備完了だ。
筝の前に正座して、深呼吸を一つ。
……あの曲を弾こう。
八歳の夏に『彼女』から教わった――決して忘れてしまわぬよう、今も弾き続けている曲。楽譜も何も無いが、音も調弦も、奏でる手の運びも全部、絃一郎の頭の中に入っている。
琴柱をさっと動かして、弦の音を合わせる。左手を弦に乗せ、右手を構える。
そして、小さく息を吸って。
――シャン、シャン、テン。
水底に沈んだかと錯覚してしまいそうな、鼓膜をくすぐる低い音。
――シャン、シャン、テン。
その余韻に重なっていく、弾ける泡のようにきらびやかで、時にすすり泣くような、もの悲しい旋律。
箏爪が弦を弾くたび、不思議な低い音色が響く。
耳の中を清らかなせせらぎが流れていくようだった。水底へ沈むように鳴る低音も、水飛沫のように歌うメロディも、流れ着いた胸の奥で美しく響いている心地がする。
重なる二つの音色は、互いに呼びかけ合いながらも、しかし決して交わらない。それが一層切なさを深めていて、美しいはずの旋律さえ届かぬ叫びであるかのように聞こえてくる。
絃一郎は、ただひたすら箏を弾いた。
この曲を弾くと、目には見えなくとも「彼女」が側にいてくれるような、温かな気持ちになる。だが同時に、あんなことがあっても弾き続けられている自分に、やっぱりこれは「呪いの音色」だと思い知らされて寂しさと苦しさで胸がいっぱいになる。
その時、どこからか声が聞こえた。
♪~……
途端、ブワリと鳥肌が立つ。
なんて綺麗な声なんだろう!
高く、澄んだ声。だが細くはなく、芯の通った柔らかな歌。
それが、筝の旋律の間を埋めるように、優しいメロディを奏でている。歌詞は無い。それでも、音色に込められた思いまで歌い上げるような、胸に響く歌声だった。
あぁ、こんなにも穏やかで、じんわりと染み渡る曲だっただろうか。ただ歌が上に重なっただけなのに、全く別の曲のように思えてくる。
軽やかに糸を弾き、切ない音色をかき鳴らす右手。
時折糸を押し、旋律を支える左手。
その音に応えるように響く、美しい歌声。
絃一郎は、夢のような心地で筝を弾き続けた。
不思議と怖くはなかった。むしろ、このままずっと弾いていたい――いや、でも、歌が聞こえるのはおかしくないか?
ハッと我に返った絃一郎は、そこでようやく手を止めた。
直後。
「ねぇ、君」
「ウワァ――――ッ⁈」
突然背後から聞こえた声に、飛び上がった絃一郎の体が畳の上を転がった。
同時に、心臓をギュッと握られるような心地がした。
きしんだ音がやけに大きく聞こえるのは、本校舎の喧騒が遠いせいだろう。鈴ヶ丘高校の敷地の隅に立つこの別棟は、いっそ不気味なほど静かで、人の気配がない。
まるで、外の世界と隔離されているような――。
――バンッ!
「ヒィッ……?!」
突然鳴り響いた、何かを叩くような衝撃音。
たまらず全身が縮み上がる。それでも、ほとんど反射のように首だけが後ろを向く。
夕焼け色に染まる、年季の入った日本家屋。
先の見えない、暗がりばかりが続く長い廊下。
見れば、そこに並んだ窓が音を立てて震えていた。ガラスの向こうでは風がうなっていて、庭木たちが今にも千切れてしまいそうなくらい揺れている。
それだけだった。
「な、何もいない……いない、よな……」
きっと、突風が窓を叩いた音だったのだろう。ほら、春は風が強いから。うん、きっとそう。
ただ、それだけを自分に言い聞かせる。ドッドッと胸を叩く音をかき消すように、何度も、何度も。
一歩も動けないでいると、淀んだ空気がじっとりと肌にまとわりついてくる。その生温かさと、背中を伝う汗の冷たさがチグハグで、ずっと鳥肌が止まらない。
「……」
そこでふと、胸元を握りしめていたことに気が付いた。ぐしゃぐしゃになったシャツとハイネックのインナーはそのままに、そっと右手を開く。
握ったままだった、『お座敷棟/筝曲部』のラベルが付けられた鍵束。
「…………や、やっぱり、一緒に来てもらえば良かったかなぁ」
それを恨めしい思いで見つめながら、寺方絃一郎は、深いため息をついて肩を落とした。
数十分前。
「残念だけど、筝曲部は今年から廃部になったの」
「え……?」
絃一郎は、返す言葉を失ってしまった。
放課後、職員室にいたジャージ姿の教師へ「筝曲部の活動日っていつなんですか?」とたずねた後のことである。そんな質問をしたのは、筝曲部へ行こうと向かったお座敷棟に鍵がかかっていて、活動していない日なのだと早合点したからだ。
それが、まさか。
「は、廃部に? え、あの、入学式の日にいただいた部活紹介には、確かに『お座敷棟で活動中』って書いてあって……!」
「あれぇ、そうだった? 見せてごらん」
首を傾げる教師に、絃一郎は持っていた冊子を手渡す。
「……あちゃー、本当だ。急なことだったから、そのまま載っちゃったんだろうなぁ。ごめん。申し訳ないことをしたね」
「い、いえ……」
返された冊子を受け取った絃一郎は、開かれた『筝曲部の活動紹介』の文字が躍ページから目が離せないまま、たずねる。
「でも、去年の文化祭では、たくさんの方が演奏されてましたよね?」
「嬉しい~。聞きに来てくれてたんだ」
「はい。なのに、どうして廃部になんか……」
「それはね、え~……その、部員がみんな辞めちゃったんだ。ちょっと、いや結構、いろいろあってね」
「……そうですか」
そう言葉を濁されては、うなずくしかない。この四月から入学したばかりの新入生には、知る由もないことだ。
絃一郎が鈴ヶ丘高校への進学を決めたのは、箏曲部へ入るためだった。
鈴ヶ丘高校は、県内でも有数の音楽活動が盛んな高校である。その特色は、クラス編成や学校行事、校舎の設備などにも表れているが、特に顕著なのが部活動。要するに、筝曲部がある高校はここだけだったのだ。
だから、絃一郎はもう、指一本さえ動かせないような心地だった。
頭の中に、いつか聞いた悲鳴が蘇る。
『うるさい! やめて! その気持ち悪い音、二度と出さないでって言ったでしょう! 筝なんか――』
――そんなことはない、と思いたかった。そう思えない自分が嫌だった。だから、筝曲部に入れば、文化祭のステージで喝采の拍手を浴びていた彼らと一緒に演奏出来たなら、きっと何かが変えられると思っていた。なのに――。
たちまち呼吸が止まりそうになって、かたく目を閉じ、震える息を吐きだす。
その時、トンッと肩を小突かれた。
ハッとして顔を上げれば、にんまり顔の教師がこちらを見ていて。
「折角だからさ、行ってみない? 部室」
「え」
思わぬ提案に、絃一郎はポカンと口を開けて固まった。
「あぁ、部室っていうのは、そこに書いてある通り『お座敷棟』の和室ね」
「え、いえ、あの」
「楽器や道具はそのままにしてあるから、弾いてみてもいいよ」
「えぇっ、そんな、部外者なのに」
「演奏を聞いて入学してくれた子を部外者とは言いませ~ん。はいコレ、部室の鍵」
宙をさまよっていた絃一郎の手へ、キーボックスから取り出した鍵束が問答無用で握らされる。いくら首を横に振ってもお構いなしだ。勢いに負けた絃一郎は、仕方なくそのまま受け取ることにする。
「ほ、本当にいいんですか?」
「だって、廃部になったって聞いてあんな顔されたら、ねぇ! ……大好きなんでしょ? 筝のこと」
「それは……」
そこで、言葉が止まった。
喉が締めつけられるように苦しくなって、何も言えなくなる。吐き出せなかった息を砕くように、グッと奥歯を噛む。
すると、教師は柔らかく目を細め、どこか寂しそうな声で言った。
「私ね、去年まで筝曲部の顧問やってたの」
「え……」
「どうしても筝が弾きたければ、同好会を立ち上げてもいいんだよ。私が顧問をやったげる。部活動としてやってくのは……最低三人は部員が必要で、ちょっと難しいだろうから」
「……はい、ありがとうございます」
絃一郎は深々と頭を下げた。あぁ、きっと、この人も筝のことが大好きなんだと、心の片隅で思いながら。
そうして「いってらっしゃ~い」と手を振る教師に見送られ、職員室を後にする。足取りは重かったが、胸の内だけは不思議と温かかった。……お座敷棟の玄関の引き戸を開け、廃部になった――部員がみんな逃げ出した理由を察してしまって、震え上がるまでは。
あの親切な教師に、幽霊騒ぎがあったかどうか確かめた方がいいかもしれない。教えてくれるかは、望み薄だけれど。
お座敷棟の薄暗い廊下をへっぴり腰で進みながら、教師が教えてくれたことを思い出す。
玄関を入って左へ。そのまま長い廊下を真っ直ぐ進む。突き当りにある、一番奥の和室。
「……ここだ」
襖の引手に手をかけ、少しだけ迷ってから、恐る恐る横へと開く。
たちまち、絃一郎はホッと大きく息をついた。
床の間もない、質素な八畳の和室だった。初めて入るはずなのに懐かしさを感じるのは、ほんのりと香るイグサの匂いのせいだろう。
壁一面に並んだ障子は西日を受けて輝き、畳の上に格子模様の影が落ちている。おかげで、部屋は明るく暖かい。四角い木枠の天井灯をつけ、柔らかな畳を踏んでみれば、今までの不気味さが嘘のように居心地が良かった。
確か、楽器は収納の中だと言っていたっけ。
すっかり調子を取り戻した絃一郎は、軽やかな足取りで中へ進むと、意気揚々と押入れ収納の鍵を開ける。
「おぉ……!」
中には、たくさんの筝が立てかけられていた。
畳一枚分ほどの長さがある、細長い長方形の木製の箱。上面は緩かなアーチを描いていて、美しい木目模様の上に両端にくくりつけられた十三本の弦が張られている。十三絃筝――一般的には「琴」と呼ばれる、和楽器の一つだ。
整然と並んだ筝たちは、決して綺麗とは言えなかった。表面のいびつなへこみ。弦に塗られた赤い目印。だが、その使用感さえ絃一郎には愛おしかった。
その時ふと、収納の奥に置かれた、十三絃をそのまま大きくしたような見た目の筝に目が留まる。
「……十七絃だ」
気付けば絃一郎は、その大きな筝――十七絃筝を引っ張り出していた。
より長く、重たい木箱を畳の上に置き、琴台という台座に乗せる。より太く、十七本に増えている弦と上面との間に、琴柱という三角形の支えを挟み、一本一本ピンと張っていく。
そうして筝を整えたら、鞄に忍ばせていた箏爪を取り出して、指にはめていく。親指、人差し指、中指。第一関節までぐっと押し込んだら、準備完了だ。
筝の前に正座して、深呼吸を一つ。
……あの曲を弾こう。
八歳の夏に『彼女』から教わった――決して忘れてしまわぬよう、今も弾き続けている曲。楽譜も何も無いが、音も調弦も、奏でる手の運びも全部、絃一郎の頭の中に入っている。
琴柱をさっと動かして、弦の音を合わせる。左手を弦に乗せ、右手を構える。
そして、小さく息を吸って。
――シャン、シャン、テン。
水底に沈んだかと錯覚してしまいそうな、鼓膜をくすぐる低い音。
――シャン、シャン、テン。
その余韻に重なっていく、弾ける泡のようにきらびやかで、時にすすり泣くような、もの悲しい旋律。
箏爪が弦を弾くたび、不思議な低い音色が響く。
耳の中を清らかなせせらぎが流れていくようだった。水底へ沈むように鳴る低音も、水飛沫のように歌うメロディも、流れ着いた胸の奥で美しく響いている心地がする。
重なる二つの音色は、互いに呼びかけ合いながらも、しかし決して交わらない。それが一層切なさを深めていて、美しいはずの旋律さえ届かぬ叫びであるかのように聞こえてくる。
絃一郎は、ただひたすら箏を弾いた。
この曲を弾くと、目には見えなくとも「彼女」が側にいてくれるような、温かな気持ちになる。だが同時に、あんなことがあっても弾き続けられている自分に、やっぱりこれは「呪いの音色」だと思い知らされて寂しさと苦しさで胸がいっぱいになる。
その時、どこからか声が聞こえた。
♪~……
途端、ブワリと鳥肌が立つ。
なんて綺麗な声なんだろう!
高く、澄んだ声。だが細くはなく、芯の通った柔らかな歌。
それが、筝の旋律の間を埋めるように、優しいメロディを奏でている。歌詞は無い。それでも、音色に込められた思いまで歌い上げるような、胸に響く歌声だった。
あぁ、こんなにも穏やかで、じんわりと染み渡る曲だっただろうか。ただ歌が上に重なっただけなのに、全く別の曲のように思えてくる。
軽やかに糸を弾き、切ない音色をかき鳴らす右手。
時折糸を押し、旋律を支える左手。
その音に応えるように響く、美しい歌声。
絃一郎は、夢のような心地で筝を弾き続けた。
不思議と怖くはなかった。むしろ、このままずっと弾いていたい――いや、でも、歌が聞こえるのはおかしくないか?
ハッと我に返った絃一郎は、そこでようやく手を止めた。
直後。
「ねぇ、君」
「ウワァ――――ッ⁈」
突然背後から聞こえた声に、飛び上がった絃一郎の体が畳の上を転がった。
