そうして、永海とともに山を下りて。
部長たちによるきついお𠮟りで再開した合宿は、どうにか無事に幕を閉じた。
それから数日が経った頃。
電車とバスを乗り継ぎ一時間ほど。田んぼと森の間にポツンと立つバス停から、さらに歩いて十数分。
絃一郎は、市街地から離れた山際の集落にある、鈴鳴神社へとやって来ていた。
扁額に「鈴鳴神社」と書かれた石の鳥居の前で一礼して、苔の生えた石段の参道を上る。社殿があるのは、この小高い丘の上だ。
頭上にある緑のトンネルが作る木陰のおかげで、照りつける日差しは肌を焼くほどではない。だが、涼しさの足しにはならなかった。目に涼しいはず景色は、間近に聞こえるセミの声のせいで帳消しになっているような気がする。
境内に入ると、すぐに「寺方くん!」とよく通る声がした。
見れば、こちらへ駆け寄ってくる小清水の姿。なんて元気なんだ。そう思うと同時に、背後にある社務所の屋根の下、日陰の中で、気怠そうに手を振る永海に気が付いた。この暑さだとそうなるよな、と密かに胸を撫で下ろしながら手を振り返す。
「小清水先輩。すみません、忙しい時に」
「いいのよ。呼び出したのは私なんだから。それより、調子はどう?」
「よ、良くはないですね……」
絃一郎は首を傾けながら、自身の耳を押さえる。
合宿を終えてから――山小屋で過ごした夜からずっと、絃一郎の耳は痛むままだった。時折、頭や目の奥まで痛みが広がったり、めまいのような浮遊感と吐き気さえある。そうなる時は大抵、永海の伴奏をしている時だった。九月のコンクールまで一ヶ月を切った今、練習に集中できない体調不良は、早急に解決しなければならなかった。
そんな時、小清水から提案されたのである。鈴鳴神社の夏祭りで奉納演奏をしてみるのはどうか、と。
社務所にある客間へ通されると、早速奉納演奏の打ち合わせが始まった。
夏祭りは、二つの会場で行われる。主に神事が行われる、社殿がある丘の上の境内会場。たくさんの屋台が出て盆踊りを躍る、鳥居前通りを中心とした屋台会場。
「奉納演奏をやるのは境内会場。午後二時からね。本殿でお清めをした後、境内に設けた舞台で演奏するっていう流れになるわ。終わったら、他の演奏を聞いたり屋台を見て回ったり、好きにしていいわよ」
「分かりました」
「僕は何したらいい?」
「何も。永海、あなたはただの付き添い」
「付き添い」
「観覧席があるから、そこから寺方くんのこと見守ってて。歌わないで黙って聞いてくれれば、それで十分」
小清水の顔は真剣そのものだ。確かに、永海ならやりかねない。
「というか、そもそも、永海も呼んだのは打ち合わせのためじゃないのよ」
「そうなんですか?」
「そう。奉納演奏の前に、寺方くんの中にいる『何か』について話しておきたかったから」
その言葉で、小清水と永海の視線がこちらへ向いた。たちまち、絃一郎の背筋がスッと伸びる。
「あの後、私の方でも調べたり考えたりしてて……それで、まだ推測の域を出ないんだけど。……寺方くんの中にいるのは、『鈴鳴様』だと思う」
「は?」
「えっ?」
永海と絃一郎の声が揃った。
「どういうこと? 鈴鳴様が、寺方くんの中にいるって。ここにまつられてるんじゃないの?」
質問を重ねる永海に、絃一郎もうなずく。
鈴鳴様と言えば、この鈴鳴神社にまつられている芸事の神様だ。永海の耳を呪った――彼の先祖の歌声に怒り、もう二度と歌えなくなるように代々続く呪いを残したという、ひどい神様。
まつられていると言われて想像するのは、本殿にご神体があって、神様もそこに鎮座しているという在り方なのだが。そうではないのだろうか。
「それは、そう……なんだけど……」
「……珍しいね? そんな歯切れが悪い言い方するなんて」
「まぁねぇ」
きょとんとする永海に、小清水は苦笑して頭の後ろを手で撫でつけた。それから、永海、絃一郎と順番に見つめると、意を決した硬い声で言う。
「いい? これは、二人が当事者だからこそ話す内容で、絶対に他言しないでほしいんだけど」
「勿論」
「は、はいっ……」
「……実は今、うちにいないのよ、鈴鳴様。七年前から消息不明なの」
そもそも鈴鳴様というのは、芸事に優れた女性だったという。
彼女は死後、素晴らしい筝や三味線の音色を妬み、祟りを起こしたことで愛用の筝に封じられた。以降「鈴鳴様」として、祟りが起きないように鎮め、まつられるようになった――というのが、鈴鳴神社に伝わっている話らしい。
「そのご神体の筝にかかってたモヤが、七年前に突然見えなくなったんだ。出て行かれたのか、消えてしまわれたのか……。調べても詳しいことは分からなくて、原因ははっきりしないままなんだけど」
「じゃあ、僕たち、何もいないところに向かって拝んでたってこと?」
「えぇ? い、いくらなんでも、そんなことは……」
「そうなるわ」
「なるんですか⁈」
「だから他言禁止ってこと。でね、その彼女の死後に起きた祟りっていうのが、耳の痛み。次第に頭痛やめまいも現れて、楽器を弾いたり歌を歌ったり出来なくなって、最後には音楽を聞くのも苦痛に……っていうものなの。寺方くんの症状も、耳の痛みだったよね?」
「お、同じですね……」
「やっぱりそうかぁ」
ため息混じりに言った小清水は、人差し指、中指、薬指、と指を三つ立てながら話を続ける。
「うちに鈴鳴様がいないこと。祟りの内容と寺方くんの症状が同じこと。それから、寺方くんは『鈴鳴様の祟り』の――永海の耳の唯一の例外で、何かしらの関わりがあると考えられること。この三つを踏まえると、寺方くんの中にいるのは鈴鳴様なんじゃないか、って思えてくるんだよね」
「……なるほど。それで、奉納演奏しようって訳か」
「そういうこと。上手くいくかは分からないけど、やってみる価値はあると思う」
「そ、そうだったんですね……」
絃一郎はうつむいて、冷えた指先でハイネックのインナーごと自身の喉元を撫でた。
その下にある傷跡は、すっかり元通りになっている。噛み痕も、ガーゼも。熱とともに何かがあふれてくるような、あの感覚も。
ずっと不思議には思っていた。どうして絃一郎の演奏した音だけ、永海先輩の耳には聞こえないのか。
その理由がこの傷と――自身の中にいる「何か」に関係あるとすれば。そう考えれば、「何か」の正体が呪いをかけた張本人である「鈴鳴様」だというのは納得出来る話ではある。そんなひどい神様が自身の中にいるなんて、という嫌悪感にも似た気持ちは別として。
恐らく、それが顔に出ていたのだろう。小清水は明るい声で「大丈夫。どうしてそんなことになってるのかについては、今残ってる資料をひっくり返してるところだから。分かり次第連絡するからね」と言い、ニコッと微笑んだ。神社の資料を勝手に見る訳にもいかないので、ありがたく待つことにする。
そこで、はたと気が付いた。
鈴鳴様へ奉納演奏をする。それはつまり、鈴鳴様の前で演奏し、自身の奏でる音色を聞いてもらうということ――鈴鳴様は、素晴らしい筝や三味線の音色を妬み、祟りを起こしたというのに? そんなことして大丈夫なのか? だが、鈴鳴神社の夏祭りでは、昔から筝などの演奏が披露されていた記憶はある――。
思考に沈みそうになった時、迫ってくる圧を感じてハッと我に返った。
隣を見れば、すぐ目の前にキラキラと期待に満ちあふれた瞳があって。
「楽しみだね。寺方くんの筝、早く聞きたいな」
「……あ、あくまで奉納が目的ですから。演奏はいつも通りといいますか……そ、そんなに期待しないでください……」
右へ、左へ、座布団の上でじれったそうに揺れる永海の体。絃一郎は、その肩を掴んで止めたい気持ちをグッとこらえながら、そう答えるのが精一杯だった。
迎えた、夏祭り当日。
本殿でお清めを受けた絃一郎は、境内に設けられた屋外ステージへ立っていた。
熱を帯びたライトと、観覧席からの視線。それらを一身を浴びた絃一郎は、高鳴る胸に平静を装いながら一礼をして、浴衣の裾を整えて十七絃の前に座る。
ステージのライトを浴びた箏は、艶やかな木目を輝かせながら、絃一郎に弾かれるのを待っていた。
深呼吸を一つ。左手を弦に乗せ、筝爪をつけた右手を構える。
弾くのは、八歳の夏に先生から教わった、題名も分からないあの曲だ。
――シャン、シャン、テン。
水底へ沈みゆくような低い音。弾けて消えゆく泡のような旋律。
弦の上を箏爪が跳ねた瞬間、絃一郎は清らかなせせらぎの中へ身を浸した錯覚に陥っていた。
あぁ、この音だ。俺が愛してやまないのは。
緊張も恐怖も忘れ、美しく響く不思議な音色だけに、身も心もゆだねて――。
――不意に、喉元に熱を感じた。
真夏の熱さとも、ライトから感じる熱とも違う、人と触れ合っているかのような温かさ。
同時に、耳と目にも異変が起こった。
低く響く十七絃の音が、二つに重なって聞こえる。弦の上を踊る自分の右手に、細くてしなやかな白い手が重なって見える。
それはひどく現実離れした感覚だったが、不思議と恐ろしくはなかった。
むしろ、胸がじんわりと温かくなって、懐かしいとすら思う。
その白い手は、軽やかに糸を弾く、いつか見た右手で。その音は、小鳥のさえずりのようにも、水面を跳ねる雫の音のようにも思える、いつか聞いた音色で。
――先生が一緒に弾いてくれている。
絃一郎は、自然とそう思った。
こんな気持ちはいつ振りだろう。指先に残る弦の震え。鼓膜を揺らす振動。体の芯まで響く、踊る水飛沫のような美しい音色に、背筋がゾワリとする。心躍るまま、夢中で筝を弾いて――。
そんな奇妙な感覚も次第に薄れ、気が付けば演奏は終わりを迎えていた。
弦を震わせる余韻を手で止めれば、しんと静まり返る舞台。
優しい拍手に包まれながら、箏から手を離し、顔を上げる。
「……」
そこで、動けなくなった。
筝と観覧席との間。ステージの上、絃一郎のすぐ目の前。さっきまで誰もいなかったその場所に、人が立っていたからだ。
藤色の着物姿。長く艶やかな黒髪。いつか見たままの、ずっと夢に見ていた姿の女性。
見間違うはずもない。
「せ、先生……?」
小さな声で問いかければ、先生は柔らかな笑みを浮かべ、こくん、と一度首を縦に振った。すると、その手がスッと伸びてきて、絃一郎の耳に温かさが触れる。
瞬間、テン、と筝が鳴って。
「……?!」
――嬉しい。また会えた。えらい。上手になったね。嬉しい。続けてくれてありがとう。あなたの音を聞かせて。どうかずっと弾いていて。
頭の中を埋め尽くす言葉。ひとりでに胸から裂けて飛び出てくる感情。
どういう訳か、喉元の傷が熱かった。そこから、何かがとめどなくあふれている感覚。合宿の時に感じた、あの感覚と同じ。
直感的に理解した。
これは、先生の言葉だ。感情だ。
耳に触れていた温かさが離れ、今度は肩を抱きしめるような温かさに包まれる。視界いっぱいに映る、黒髪と藤色。やがて、絃一郎の中に入っていくようにして、その姿がスッと見えなくなる。
「……!」
絃一郎は、呆然としたまま、それを見送ることしか出来なかった。
待ってくれ。
それじゃあ、まるで、絃一郎の中にいる「何か」の正体が、先生だったみたいじゃないか。
……先生こそが「鈴鳴様」だったってことじゃないか!
あんなに優しくて、筝への愛にあふれた先生が、永海の耳を呪ったというのか。あの高くて綺麗な歌声を聞いて、もう二度と歌えなくなることを望むほど怒ったというのか。
そんな訳がないだろう!
それに、今感じた熱さが先生の感情だったのなら、合宿の時もそうだったということだ。
はっきりと覚えている。
辛い。悲しい。一人にしないで。寂しい。恋しい。苦しませたくない。私の音を聞いて。聞かないで。側でずっと歌っていて。
そんなことを思う人が、素晴らしい筝や三味線の音色を妬み、祟りを起こしたというのか。
絶対に有り得ない!
――時間としては、数秒も無かっただろう。
内心だけでひとしきり叫んだ絃一郎は、辺りが静かになったことに気が付いて――それが拍手が鳴り止んだのだと理解して、ぐっと奥歯を噛みながら立ち上がる。
いつの間にか目尻に溜まっていた水滴が、再会の喜びによるものなのか、それとも怒りとも悲しみともつかない叫びによるものなのか、絃一郎には分からなかった。
部長たちによるきついお𠮟りで再開した合宿は、どうにか無事に幕を閉じた。
それから数日が経った頃。
電車とバスを乗り継ぎ一時間ほど。田んぼと森の間にポツンと立つバス停から、さらに歩いて十数分。
絃一郎は、市街地から離れた山際の集落にある、鈴鳴神社へとやって来ていた。
扁額に「鈴鳴神社」と書かれた石の鳥居の前で一礼して、苔の生えた石段の参道を上る。社殿があるのは、この小高い丘の上だ。
頭上にある緑のトンネルが作る木陰のおかげで、照りつける日差しは肌を焼くほどではない。だが、涼しさの足しにはならなかった。目に涼しいはず景色は、間近に聞こえるセミの声のせいで帳消しになっているような気がする。
境内に入ると、すぐに「寺方くん!」とよく通る声がした。
見れば、こちらへ駆け寄ってくる小清水の姿。なんて元気なんだ。そう思うと同時に、背後にある社務所の屋根の下、日陰の中で、気怠そうに手を振る永海に気が付いた。この暑さだとそうなるよな、と密かに胸を撫で下ろしながら手を振り返す。
「小清水先輩。すみません、忙しい時に」
「いいのよ。呼び出したのは私なんだから。それより、調子はどう?」
「よ、良くはないですね……」
絃一郎は首を傾けながら、自身の耳を押さえる。
合宿を終えてから――山小屋で過ごした夜からずっと、絃一郎の耳は痛むままだった。時折、頭や目の奥まで痛みが広がったり、めまいのような浮遊感と吐き気さえある。そうなる時は大抵、永海の伴奏をしている時だった。九月のコンクールまで一ヶ月を切った今、練習に集中できない体調不良は、早急に解決しなければならなかった。
そんな時、小清水から提案されたのである。鈴鳴神社の夏祭りで奉納演奏をしてみるのはどうか、と。
社務所にある客間へ通されると、早速奉納演奏の打ち合わせが始まった。
夏祭りは、二つの会場で行われる。主に神事が行われる、社殿がある丘の上の境内会場。たくさんの屋台が出て盆踊りを躍る、鳥居前通りを中心とした屋台会場。
「奉納演奏をやるのは境内会場。午後二時からね。本殿でお清めをした後、境内に設けた舞台で演奏するっていう流れになるわ。終わったら、他の演奏を聞いたり屋台を見て回ったり、好きにしていいわよ」
「分かりました」
「僕は何したらいい?」
「何も。永海、あなたはただの付き添い」
「付き添い」
「観覧席があるから、そこから寺方くんのこと見守ってて。歌わないで黙って聞いてくれれば、それで十分」
小清水の顔は真剣そのものだ。確かに、永海ならやりかねない。
「というか、そもそも、永海も呼んだのは打ち合わせのためじゃないのよ」
「そうなんですか?」
「そう。奉納演奏の前に、寺方くんの中にいる『何か』について話しておきたかったから」
その言葉で、小清水と永海の視線がこちらへ向いた。たちまち、絃一郎の背筋がスッと伸びる。
「あの後、私の方でも調べたり考えたりしてて……それで、まだ推測の域を出ないんだけど。……寺方くんの中にいるのは、『鈴鳴様』だと思う」
「は?」
「えっ?」
永海と絃一郎の声が揃った。
「どういうこと? 鈴鳴様が、寺方くんの中にいるって。ここにまつられてるんじゃないの?」
質問を重ねる永海に、絃一郎もうなずく。
鈴鳴様と言えば、この鈴鳴神社にまつられている芸事の神様だ。永海の耳を呪った――彼の先祖の歌声に怒り、もう二度と歌えなくなるように代々続く呪いを残したという、ひどい神様。
まつられていると言われて想像するのは、本殿にご神体があって、神様もそこに鎮座しているという在り方なのだが。そうではないのだろうか。
「それは、そう……なんだけど……」
「……珍しいね? そんな歯切れが悪い言い方するなんて」
「まぁねぇ」
きょとんとする永海に、小清水は苦笑して頭の後ろを手で撫でつけた。それから、永海、絃一郎と順番に見つめると、意を決した硬い声で言う。
「いい? これは、二人が当事者だからこそ話す内容で、絶対に他言しないでほしいんだけど」
「勿論」
「は、はいっ……」
「……実は今、うちにいないのよ、鈴鳴様。七年前から消息不明なの」
そもそも鈴鳴様というのは、芸事に優れた女性だったという。
彼女は死後、素晴らしい筝や三味線の音色を妬み、祟りを起こしたことで愛用の筝に封じられた。以降「鈴鳴様」として、祟りが起きないように鎮め、まつられるようになった――というのが、鈴鳴神社に伝わっている話らしい。
「そのご神体の筝にかかってたモヤが、七年前に突然見えなくなったんだ。出て行かれたのか、消えてしまわれたのか……。調べても詳しいことは分からなくて、原因ははっきりしないままなんだけど」
「じゃあ、僕たち、何もいないところに向かって拝んでたってこと?」
「えぇ? い、いくらなんでも、そんなことは……」
「そうなるわ」
「なるんですか⁈」
「だから他言禁止ってこと。でね、その彼女の死後に起きた祟りっていうのが、耳の痛み。次第に頭痛やめまいも現れて、楽器を弾いたり歌を歌ったり出来なくなって、最後には音楽を聞くのも苦痛に……っていうものなの。寺方くんの症状も、耳の痛みだったよね?」
「お、同じですね……」
「やっぱりそうかぁ」
ため息混じりに言った小清水は、人差し指、中指、薬指、と指を三つ立てながら話を続ける。
「うちに鈴鳴様がいないこと。祟りの内容と寺方くんの症状が同じこと。それから、寺方くんは『鈴鳴様の祟り』の――永海の耳の唯一の例外で、何かしらの関わりがあると考えられること。この三つを踏まえると、寺方くんの中にいるのは鈴鳴様なんじゃないか、って思えてくるんだよね」
「……なるほど。それで、奉納演奏しようって訳か」
「そういうこと。上手くいくかは分からないけど、やってみる価値はあると思う」
「そ、そうだったんですね……」
絃一郎はうつむいて、冷えた指先でハイネックのインナーごと自身の喉元を撫でた。
その下にある傷跡は、すっかり元通りになっている。噛み痕も、ガーゼも。熱とともに何かがあふれてくるような、あの感覚も。
ずっと不思議には思っていた。どうして絃一郎の演奏した音だけ、永海先輩の耳には聞こえないのか。
その理由がこの傷と――自身の中にいる「何か」に関係あるとすれば。そう考えれば、「何か」の正体が呪いをかけた張本人である「鈴鳴様」だというのは納得出来る話ではある。そんなひどい神様が自身の中にいるなんて、という嫌悪感にも似た気持ちは別として。
恐らく、それが顔に出ていたのだろう。小清水は明るい声で「大丈夫。どうしてそんなことになってるのかについては、今残ってる資料をひっくり返してるところだから。分かり次第連絡するからね」と言い、ニコッと微笑んだ。神社の資料を勝手に見る訳にもいかないので、ありがたく待つことにする。
そこで、はたと気が付いた。
鈴鳴様へ奉納演奏をする。それはつまり、鈴鳴様の前で演奏し、自身の奏でる音色を聞いてもらうということ――鈴鳴様は、素晴らしい筝や三味線の音色を妬み、祟りを起こしたというのに? そんなことして大丈夫なのか? だが、鈴鳴神社の夏祭りでは、昔から筝などの演奏が披露されていた記憶はある――。
思考に沈みそうになった時、迫ってくる圧を感じてハッと我に返った。
隣を見れば、すぐ目の前にキラキラと期待に満ちあふれた瞳があって。
「楽しみだね。寺方くんの筝、早く聞きたいな」
「……あ、あくまで奉納が目的ですから。演奏はいつも通りといいますか……そ、そんなに期待しないでください……」
右へ、左へ、座布団の上でじれったそうに揺れる永海の体。絃一郎は、その肩を掴んで止めたい気持ちをグッとこらえながら、そう答えるのが精一杯だった。
迎えた、夏祭り当日。
本殿でお清めを受けた絃一郎は、境内に設けられた屋外ステージへ立っていた。
熱を帯びたライトと、観覧席からの視線。それらを一身を浴びた絃一郎は、高鳴る胸に平静を装いながら一礼をして、浴衣の裾を整えて十七絃の前に座る。
ステージのライトを浴びた箏は、艶やかな木目を輝かせながら、絃一郎に弾かれるのを待っていた。
深呼吸を一つ。左手を弦に乗せ、筝爪をつけた右手を構える。
弾くのは、八歳の夏に先生から教わった、題名も分からないあの曲だ。
――シャン、シャン、テン。
水底へ沈みゆくような低い音。弾けて消えゆく泡のような旋律。
弦の上を箏爪が跳ねた瞬間、絃一郎は清らかなせせらぎの中へ身を浸した錯覚に陥っていた。
あぁ、この音だ。俺が愛してやまないのは。
緊張も恐怖も忘れ、美しく響く不思議な音色だけに、身も心もゆだねて――。
――不意に、喉元に熱を感じた。
真夏の熱さとも、ライトから感じる熱とも違う、人と触れ合っているかのような温かさ。
同時に、耳と目にも異変が起こった。
低く響く十七絃の音が、二つに重なって聞こえる。弦の上を踊る自分の右手に、細くてしなやかな白い手が重なって見える。
それはひどく現実離れした感覚だったが、不思議と恐ろしくはなかった。
むしろ、胸がじんわりと温かくなって、懐かしいとすら思う。
その白い手は、軽やかに糸を弾く、いつか見た右手で。その音は、小鳥のさえずりのようにも、水面を跳ねる雫の音のようにも思える、いつか聞いた音色で。
――先生が一緒に弾いてくれている。
絃一郎は、自然とそう思った。
こんな気持ちはいつ振りだろう。指先に残る弦の震え。鼓膜を揺らす振動。体の芯まで響く、踊る水飛沫のような美しい音色に、背筋がゾワリとする。心躍るまま、夢中で筝を弾いて――。
そんな奇妙な感覚も次第に薄れ、気が付けば演奏は終わりを迎えていた。
弦を震わせる余韻を手で止めれば、しんと静まり返る舞台。
優しい拍手に包まれながら、箏から手を離し、顔を上げる。
「……」
そこで、動けなくなった。
筝と観覧席との間。ステージの上、絃一郎のすぐ目の前。さっきまで誰もいなかったその場所に、人が立っていたからだ。
藤色の着物姿。長く艶やかな黒髪。いつか見たままの、ずっと夢に見ていた姿の女性。
見間違うはずもない。
「せ、先生……?」
小さな声で問いかければ、先生は柔らかな笑みを浮かべ、こくん、と一度首を縦に振った。すると、その手がスッと伸びてきて、絃一郎の耳に温かさが触れる。
瞬間、テン、と筝が鳴って。
「……?!」
――嬉しい。また会えた。えらい。上手になったね。嬉しい。続けてくれてありがとう。あなたの音を聞かせて。どうかずっと弾いていて。
頭の中を埋め尽くす言葉。ひとりでに胸から裂けて飛び出てくる感情。
どういう訳か、喉元の傷が熱かった。そこから、何かがとめどなくあふれている感覚。合宿の時に感じた、あの感覚と同じ。
直感的に理解した。
これは、先生の言葉だ。感情だ。
耳に触れていた温かさが離れ、今度は肩を抱きしめるような温かさに包まれる。視界いっぱいに映る、黒髪と藤色。やがて、絃一郎の中に入っていくようにして、その姿がスッと見えなくなる。
「……!」
絃一郎は、呆然としたまま、それを見送ることしか出来なかった。
待ってくれ。
それじゃあ、まるで、絃一郎の中にいる「何か」の正体が、先生だったみたいじゃないか。
……先生こそが「鈴鳴様」だったってことじゃないか!
あんなに優しくて、筝への愛にあふれた先生が、永海の耳を呪ったというのか。あの高くて綺麗な歌声を聞いて、もう二度と歌えなくなることを望むほど怒ったというのか。
そんな訳がないだろう!
それに、今感じた熱さが先生の感情だったのなら、合宿の時もそうだったということだ。
はっきりと覚えている。
辛い。悲しい。一人にしないで。寂しい。恋しい。苦しませたくない。私の音を聞いて。聞かないで。側でずっと歌っていて。
そんなことを思う人が、素晴らしい筝や三味線の音色を妬み、祟りを起こしたというのか。
絶対に有り得ない!
――時間としては、数秒も無かっただろう。
内心だけでひとしきり叫んだ絃一郎は、辺りが静かになったことに気が付いて――それが拍手が鳴り止んだのだと理解して、ぐっと奥歯を噛みながら立ち上がる。
いつの間にか目尻に溜まっていた水滴が、再会の喜びによるものなのか、それとも怒りとも悲しみともつかない叫びによるものなのか、絃一郎には分からなかった。
