ここからちょっと登ったところにあるはず、という永海の案内で、二人は休憩小屋に向かった。
歩けはする、とは言ったものの、絃一郎は永海の肩を借りながら歩かなければならなかった。いざ体を起こしてみれば、耳の奥から離れない痛みとめまいで、立ち上がるのにも苦労する始末だったのだ。
昼間の爽やかさとは打って変わった、静かな夜の山道。何が潜んでいるかも分からない闇の中を、圏外表示のスマートフォンの明かりだけを頼りに歩く。
そうしてしばらく上がっていくと、永海の目測通り、木造平屋の小さな山小屋に辿り着いた。流石、静かな場所を求めて何度も山に入っているだけのことはある。
そこは、無人の避難所のような場所だった。
ワンルームほどの部屋に、応急処置セットや防災グッズ、寝袋や毛布、連絡用の電話などが備えられている。風呂は無いがトイレはあって、手洗い場には「飲用可。節水にご協力を」と書かれていた。これだけ揃っていれば、問題なく一晩過ごせそうだ。
絃一郎の喉元にガーゼを貼り終えた永海は、その頭を一度ポンと撫でて立ち上がる。
「寺方くんは休んでて。僕は『そまうど荘』に連絡してくる」
「わ、分かりました。よろしくお願いします」
やがて受話器からもれ聞こえてくる怒りの声と、壁に向かって「すみません」と頭を下げる永海。
まぁ、前科があるからな……と思って聞いていると、永海が「寺方くんも一緒です」と言って、怒号がますます大きくなった。思わず頭を抱えた。それについては、連絡せずに飛び出してきた絃一郎にも非がある。帰ったら謝罪しなければ。
それから、十数分ほど経ち。やっと受話器を降ろした永海は、部屋の隅で横になっていた絃一郎の側へ腰を降ろした。
「怒られてきた」
「す、すみません……帰った時は、俺も一緒に怒られます……」
「ふふ、それは心強い。それから、小清水とも話してきた」
「小清水先輩と?」
道理で、現状報告にしては話が長いと思っていた。どこか落ち着かなさそうな永海の様子に、絃一郎も体を起こして座り直す。
「寺方くん、小清水が渡したっていうお守りは持ってる?」
「はい」
「それ、開けて」
「あ、開け……⁈ こういうの、開けてもいいものなんですか?」
「さぁ? でも、小清水がいいって言ってたし、いいんじゃないかな」
そういうものなのだろうか。絃一郎は半信半疑のまま、置いてあったショルダーバッグから鈴鳴神社のお守りを取り出す。
その口を閉じる飾り紐を、恐る恐るほどいていく。すると中には、温もりのある匂いがする木札と、小さく折り畳まれた紙が一枚。広げてみれば、それは縦長の和紙だった。書かれているのは、筆で書かれた漢字らしき文字の羅列と、赤い大きな判のようなもの。
「これ、お札……?」
「それを壁に貼って、一晩、絶対に外に出るなって」
「え」
「それから、呼びかけに答えたりしないでって。そうすれば、諦めてくれるってさ」
いやに硬い声で、永海が言う。
「そ、それは、どういう……?」
「小清水が言うには……山にいる怪異が、君を――君の中にいる『何か』を連れて行こうとしてるらしいんだけど」
「は……――」
「……その顔じゃあ、君も『何か』については知らないみたいだね?」
つん、と優しく頬に触れる、永海の指先。間抜けな顔になっている自覚はある。
事の原因である山に棲む怪異たちは、始めから絃一郎の中の「何か」が狙いで、永海に取り憑いていて誘い込もうとしていたのではないか――というのが、小清水の考えだった。
「小清水の話は、僕もそうなんじゃないかと思ってる。あの歌を聞いた時、確かに『誰かが呼んでる』って思ったけど、自分が呼ばれているっていう感覚は無かったんだよね。だから、あんまり気にしてなかったんだけど」
「そ、そうだったんですか……」
言われてみれば、と絃一郎も思う。
永海は去年も山へ迷い込んでいる。狙いが永海だとすれば、その時に何かが起きてもおかしくはない。
加えて、数日前、永海の耳について話していた小清水の視線。絃一郎の喉元に留まっていたように見えたのは気のせいなどではなく、その中にいるという「何か」の気配に勘付いていたのだろう。……出来れば、もう少し早く教えてほしかったけれど。
「何より」
そこで一度言葉を切って、永海はうつむく。
「さっき、君にひどいことをした時……。あの時、僕はほとんど意識が無かったんだけど、心当たりの無い『やっと君を食べられる』っていう感情だけは、残っていて……。あれが怪異のものだったとすれば、かなり、筋が通っているなって」
「……」
絃一郎は、返事も出来なかった。もし永海が取り憑かれたままだったなら、自分はどうなっていたのだろう。
ふと、思い出す。
絃一郎にも覚えがある。永海を失いたくないと思った時、胸にあふれてきた心当たりの無い感情。私の音を聞いて。聞かないで。側でずっと歌っていて――。
あれは、自分の中にいるという「何か」のものだったのだろうか? ……というか、「何か」って?
絃一郎は、そう問いかけるように喉元のガーゼを撫でた。だが当然、返事があるはずもなく。
「まぁ、詳しいことは、帰ってから小清水に聞こう」
言いながら、永海が立ち上がった。それから防災グッズの中からガムテープを探し当てると、小屋の入口の扉へ小清水のお札を貼りつけた。……絃一郎にガーゼを貼ってくれたのと同じ要領で。
「これで良し」
「……お札って、そうやって貼るもんでしたっけ?」
「? 剝がれなければいいみたいだから。これでバッチリ」
「バッチリ……というか、ベッタリですね……」
「うん。無事に帰らなくちゃいけないからね。あんな得体の知れない奴らに、僕の伴奏はやらない。寺方くんには、僕と一緒にコンクールの舞台に立ってもらわないと」
眉一つ動かさず、自信たっぷりに言い切る永海。突然現れた声楽オバケに、絃一郎は思わず吹き出してしまう。
「はは! もう、永海先輩、こんな時まで歌のことばっかり!」
「……駄目かな?」
「まさか。安心しました」
そうだ。無事に帰るんだ。永海と一緒に。そうして、ひたすらに愛を叫ぶあなたの伴奏がしたい。堂々とステージの上で輝き、心から楽しんで歌うあなたの背中が見たい。
あぁ、そうやってあなたの歌声が聞けたのなら、俺は――。
「……ねぇ、永海先輩」
「なぁに」
「歌ってくれませんか。あなたの好きな曲を、何か……」
「いいよ。そうだな……じゃあ、一番思い入れのある曲にしよう。僕が初めて歌ったイタリア歌曲、『いとしい人よ』」
言うやいなや、永海は部屋の真ん中に立った。そうして、小さな息遣いの音がして。
♪Caro mio ben,credimi almen,
senza di te languisce il cor,――
絃一郎は、自然と目を閉じていた。
思いをひたむきに乗せたような、柔らかな歌声。深く長く息を吐き、ゆったりとしたテンポで歌われる言葉は、やはり聞き慣れない言語の歌詞だ。それでも不思議と、一つ一つがしっとりと胸に響いてくる。
一息でステージと化した山小屋に美しくも切なげなメロディが響く間ずっと、絃一郎は不安も恐怖も忘れ、ただその声だけに聞き入っていた。
夜。
カーテンもない曇りガラスの窓から差し込む、かすかな月明り。その淡いスポットライトが、輪郭のぼやけた四角い光を床に落としている。
毛布にくるまって横になった絃一郎は、ただそれを眺めていた。
すぐ隣には、整った鼻筋と閉じられた切れ長の目。規則正しい静かな寝息。胎児のように体を丸めた永海は、もうぐっすり眠っているのだろう。
敷布団代わりの寝袋の上で、すり、と足先をこすり合わせる。標高が高いからか、はたまた床が近いからか、夏だというのに少し肌寒い。
絃一郎は、ずっと寝付けずにいた。
ただでさえ寝付きは悪い方だ。なのに、治まらない耳の痛みのせいで眠気がやってくる気配すら無い。
何より、小屋の外の無音が、気になって仕方がなくて――だから、すぐに気が付いた。
――コーン……。
♪~……
木を打つ音。独特の節回しの低い歌声。……山の怪異が呼ぶ声。
どこから聞こえているのかも分からないほど遠く、かすかな音。きっと、この夜の静けさの中にいなければ分からない音だった。
それでも聞こえてしまえば、もう、駄目だった。
――コーン!
♪~……ぉ~い、こぉ~い。
聞こえる。近付いてくる。音と、歌声と……ズザザ、と何かを引きずる嫌な物音。
絃一郎は左耳を枕に押し付けて、毛布を巻き込みながら胸の前でギュッと手を握った。
♪~……こ~ぉい、でてこぉ~い。
直後、視界の端で、床に落ちていた月明りの中を影が横切った。
「……っ!」
たまらず、毛布を握ったままのこぶしで口を塞いだ。そうでもしなければ、今にも喉がひっくり返って叫び出してしまいそうだった。
だが、全身の震えを止めるには足りなくて、目の前の光景から逃げるようにきつく両目を閉じる。
……きっと、それがいけなかった。
――コーン! ……バキッ!
誰かが、木を切っては割っている。木に斧を叩きつけている。
そう理解した瞬間、絃一郎のまぶたの裏にいつか見た光景が蘇った。
『うるさい! やめて! その気持ち悪い音、二度と出さないでって言ったでしょう!』
『ご、ごめんなさ……っ!』
振り返った先に立っていた、手斧を持った母。
小さな体で、出来もしないくせに、必死に筝を隠そうとする幼い自分。
『筝なんか無ければいいのよ! そうすれば、最っ低な音を聞かずに済む! こんなものが、あるからッ……!』
そう叫びながら、母は手斧を振りかぶって――。
――バキッ! ドカッ!
気付けば、絃一郎の右手が、ハイネックのインナーの喉元をぐしゃぐしゃに握り込んでいた。
痛い。いたい。……違う。この痛みは、取り憑かれた永海が、噛んだから。ほら、ガーゼの感触があるじゃないか。永海が手当てしてくれた、優しさの証拠が。だから、違う。今は何ともない。もう痛くなんか――。
――その時、そっと背中に温かなものが触れた。
ジャージの生地がぐしゃりと掴まれ、力強く隣へ引き寄せられる。まるで絃一郎の存在を確かめるように搔き抱かれて、ようやくそれが永海の片腕だと気が付く。
「……!」
「……」
互いに言葉はない。
眠っていたはずの永海を起こしてしまったのだろうか。月明りだけが頼りの闇の中、情けない姿を見られているのだろうか。ぬくもりに包まれてもまぶた一つ動かせない絃一郎に、確かめる術はない。
それでも、確証は無いけれど。きっと永海は、絃一郎の息遣いと鼓動を聞いてくれているのだろうと思った。
なら、俺も。
目を閉じたまま、側に感じる温かさへ、そっと額をすり寄せる。
すると、ト、トット、と静かな音が聞こえてきた。永海の心音だ。自身の内から聞こえるそれと比べたら、情けなくなるくらい落ち着いていて。
あぁ、なんて心地良い音だろう。ずっとこのまま、聞いていたい――。
「――……かたくん、寺方くん」
ゆるやかに意識が戻った時、低くかすれた、まろやかな声が名前を呼んでいた。
返事をしなければ、と思うのに、まぶたも口も重くて動かない。辛うじて声とも息ともつかない音を鼻から出すと、何かが優しく髪に触れる。
「ふふ……前から思ってたけど、君の髪、なかなか芸術的な寝癖がつくよね」
「っへぁ」
笑いを含んだ言葉。何か今、ものすごく恥ずかしいことを言われたような。
理解した瞬間、全身が飛び起きた。絃一郎はハッとまぶたを開けて、けれど、辺りに満ちたまぶしい光にたまらず目を細める。
そうして、枕に埋まっていた頭をのっそりと上げてみれば。
「おはよう、寺方くん」
「あ、お、おはよう、ございます……ながみせんぱい……」
曇りガラスから降り注ぐ朝日の中、こちらを見つめる永海。心底ホッとしたような、愛おしいものを見るような、柔らかな笑顔がそこにあった。
歩けはする、とは言ったものの、絃一郎は永海の肩を借りながら歩かなければならなかった。いざ体を起こしてみれば、耳の奥から離れない痛みとめまいで、立ち上がるのにも苦労する始末だったのだ。
昼間の爽やかさとは打って変わった、静かな夜の山道。何が潜んでいるかも分からない闇の中を、圏外表示のスマートフォンの明かりだけを頼りに歩く。
そうしてしばらく上がっていくと、永海の目測通り、木造平屋の小さな山小屋に辿り着いた。流石、静かな場所を求めて何度も山に入っているだけのことはある。
そこは、無人の避難所のような場所だった。
ワンルームほどの部屋に、応急処置セットや防災グッズ、寝袋や毛布、連絡用の電話などが備えられている。風呂は無いがトイレはあって、手洗い場には「飲用可。節水にご協力を」と書かれていた。これだけ揃っていれば、問題なく一晩過ごせそうだ。
絃一郎の喉元にガーゼを貼り終えた永海は、その頭を一度ポンと撫でて立ち上がる。
「寺方くんは休んでて。僕は『そまうど荘』に連絡してくる」
「わ、分かりました。よろしくお願いします」
やがて受話器からもれ聞こえてくる怒りの声と、壁に向かって「すみません」と頭を下げる永海。
まぁ、前科があるからな……と思って聞いていると、永海が「寺方くんも一緒です」と言って、怒号がますます大きくなった。思わず頭を抱えた。それについては、連絡せずに飛び出してきた絃一郎にも非がある。帰ったら謝罪しなければ。
それから、十数分ほど経ち。やっと受話器を降ろした永海は、部屋の隅で横になっていた絃一郎の側へ腰を降ろした。
「怒られてきた」
「す、すみません……帰った時は、俺も一緒に怒られます……」
「ふふ、それは心強い。それから、小清水とも話してきた」
「小清水先輩と?」
道理で、現状報告にしては話が長いと思っていた。どこか落ち着かなさそうな永海の様子に、絃一郎も体を起こして座り直す。
「寺方くん、小清水が渡したっていうお守りは持ってる?」
「はい」
「それ、開けて」
「あ、開け……⁈ こういうの、開けてもいいものなんですか?」
「さぁ? でも、小清水がいいって言ってたし、いいんじゃないかな」
そういうものなのだろうか。絃一郎は半信半疑のまま、置いてあったショルダーバッグから鈴鳴神社のお守りを取り出す。
その口を閉じる飾り紐を、恐る恐るほどいていく。すると中には、温もりのある匂いがする木札と、小さく折り畳まれた紙が一枚。広げてみれば、それは縦長の和紙だった。書かれているのは、筆で書かれた漢字らしき文字の羅列と、赤い大きな判のようなもの。
「これ、お札……?」
「それを壁に貼って、一晩、絶対に外に出るなって」
「え」
「それから、呼びかけに答えたりしないでって。そうすれば、諦めてくれるってさ」
いやに硬い声で、永海が言う。
「そ、それは、どういう……?」
「小清水が言うには……山にいる怪異が、君を――君の中にいる『何か』を連れて行こうとしてるらしいんだけど」
「は……――」
「……その顔じゃあ、君も『何か』については知らないみたいだね?」
つん、と優しく頬に触れる、永海の指先。間抜けな顔になっている自覚はある。
事の原因である山に棲む怪異たちは、始めから絃一郎の中の「何か」が狙いで、永海に取り憑いていて誘い込もうとしていたのではないか――というのが、小清水の考えだった。
「小清水の話は、僕もそうなんじゃないかと思ってる。あの歌を聞いた時、確かに『誰かが呼んでる』って思ったけど、自分が呼ばれているっていう感覚は無かったんだよね。だから、あんまり気にしてなかったんだけど」
「そ、そうだったんですか……」
言われてみれば、と絃一郎も思う。
永海は去年も山へ迷い込んでいる。狙いが永海だとすれば、その時に何かが起きてもおかしくはない。
加えて、数日前、永海の耳について話していた小清水の視線。絃一郎の喉元に留まっていたように見えたのは気のせいなどではなく、その中にいるという「何か」の気配に勘付いていたのだろう。……出来れば、もう少し早く教えてほしかったけれど。
「何より」
そこで一度言葉を切って、永海はうつむく。
「さっき、君にひどいことをした時……。あの時、僕はほとんど意識が無かったんだけど、心当たりの無い『やっと君を食べられる』っていう感情だけは、残っていて……。あれが怪異のものだったとすれば、かなり、筋が通っているなって」
「……」
絃一郎は、返事も出来なかった。もし永海が取り憑かれたままだったなら、自分はどうなっていたのだろう。
ふと、思い出す。
絃一郎にも覚えがある。永海を失いたくないと思った時、胸にあふれてきた心当たりの無い感情。私の音を聞いて。聞かないで。側でずっと歌っていて――。
あれは、自分の中にいるという「何か」のものだったのだろうか? ……というか、「何か」って?
絃一郎は、そう問いかけるように喉元のガーゼを撫でた。だが当然、返事があるはずもなく。
「まぁ、詳しいことは、帰ってから小清水に聞こう」
言いながら、永海が立ち上がった。それから防災グッズの中からガムテープを探し当てると、小屋の入口の扉へ小清水のお札を貼りつけた。……絃一郎にガーゼを貼ってくれたのと同じ要領で。
「これで良し」
「……お札って、そうやって貼るもんでしたっけ?」
「? 剝がれなければいいみたいだから。これでバッチリ」
「バッチリ……というか、ベッタリですね……」
「うん。無事に帰らなくちゃいけないからね。あんな得体の知れない奴らに、僕の伴奏はやらない。寺方くんには、僕と一緒にコンクールの舞台に立ってもらわないと」
眉一つ動かさず、自信たっぷりに言い切る永海。突然現れた声楽オバケに、絃一郎は思わず吹き出してしまう。
「はは! もう、永海先輩、こんな時まで歌のことばっかり!」
「……駄目かな?」
「まさか。安心しました」
そうだ。無事に帰るんだ。永海と一緒に。そうして、ひたすらに愛を叫ぶあなたの伴奏がしたい。堂々とステージの上で輝き、心から楽しんで歌うあなたの背中が見たい。
あぁ、そうやってあなたの歌声が聞けたのなら、俺は――。
「……ねぇ、永海先輩」
「なぁに」
「歌ってくれませんか。あなたの好きな曲を、何か……」
「いいよ。そうだな……じゃあ、一番思い入れのある曲にしよう。僕が初めて歌ったイタリア歌曲、『いとしい人よ』」
言うやいなや、永海は部屋の真ん中に立った。そうして、小さな息遣いの音がして。
♪Caro mio ben,credimi almen,
senza di te languisce il cor,――
絃一郎は、自然と目を閉じていた。
思いをひたむきに乗せたような、柔らかな歌声。深く長く息を吐き、ゆったりとしたテンポで歌われる言葉は、やはり聞き慣れない言語の歌詞だ。それでも不思議と、一つ一つがしっとりと胸に響いてくる。
一息でステージと化した山小屋に美しくも切なげなメロディが響く間ずっと、絃一郎は不安も恐怖も忘れ、ただその声だけに聞き入っていた。
夜。
カーテンもない曇りガラスの窓から差し込む、かすかな月明り。その淡いスポットライトが、輪郭のぼやけた四角い光を床に落としている。
毛布にくるまって横になった絃一郎は、ただそれを眺めていた。
すぐ隣には、整った鼻筋と閉じられた切れ長の目。規則正しい静かな寝息。胎児のように体を丸めた永海は、もうぐっすり眠っているのだろう。
敷布団代わりの寝袋の上で、すり、と足先をこすり合わせる。標高が高いからか、はたまた床が近いからか、夏だというのに少し肌寒い。
絃一郎は、ずっと寝付けずにいた。
ただでさえ寝付きは悪い方だ。なのに、治まらない耳の痛みのせいで眠気がやってくる気配すら無い。
何より、小屋の外の無音が、気になって仕方がなくて――だから、すぐに気が付いた。
――コーン……。
♪~……
木を打つ音。独特の節回しの低い歌声。……山の怪異が呼ぶ声。
どこから聞こえているのかも分からないほど遠く、かすかな音。きっと、この夜の静けさの中にいなければ分からない音だった。
それでも聞こえてしまえば、もう、駄目だった。
――コーン!
♪~……ぉ~い、こぉ~い。
聞こえる。近付いてくる。音と、歌声と……ズザザ、と何かを引きずる嫌な物音。
絃一郎は左耳を枕に押し付けて、毛布を巻き込みながら胸の前でギュッと手を握った。
♪~……こ~ぉい、でてこぉ~い。
直後、視界の端で、床に落ちていた月明りの中を影が横切った。
「……っ!」
たまらず、毛布を握ったままのこぶしで口を塞いだ。そうでもしなければ、今にも喉がひっくり返って叫び出してしまいそうだった。
だが、全身の震えを止めるには足りなくて、目の前の光景から逃げるようにきつく両目を閉じる。
……きっと、それがいけなかった。
――コーン! ……バキッ!
誰かが、木を切っては割っている。木に斧を叩きつけている。
そう理解した瞬間、絃一郎のまぶたの裏にいつか見た光景が蘇った。
『うるさい! やめて! その気持ち悪い音、二度と出さないでって言ったでしょう!』
『ご、ごめんなさ……っ!』
振り返った先に立っていた、手斧を持った母。
小さな体で、出来もしないくせに、必死に筝を隠そうとする幼い自分。
『筝なんか無ければいいのよ! そうすれば、最っ低な音を聞かずに済む! こんなものが、あるからッ……!』
そう叫びながら、母は手斧を振りかぶって――。
――バキッ! ドカッ!
気付けば、絃一郎の右手が、ハイネックのインナーの喉元をぐしゃぐしゃに握り込んでいた。
痛い。いたい。……違う。この痛みは、取り憑かれた永海が、噛んだから。ほら、ガーゼの感触があるじゃないか。永海が手当てしてくれた、優しさの証拠が。だから、違う。今は何ともない。もう痛くなんか――。
――その時、そっと背中に温かなものが触れた。
ジャージの生地がぐしゃりと掴まれ、力強く隣へ引き寄せられる。まるで絃一郎の存在を確かめるように搔き抱かれて、ようやくそれが永海の片腕だと気が付く。
「……!」
「……」
互いに言葉はない。
眠っていたはずの永海を起こしてしまったのだろうか。月明りだけが頼りの闇の中、情けない姿を見られているのだろうか。ぬくもりに包まれてもまぶた一つ動かせない絃一郎に、確かめる術はない。
それでも、確証は無いけれど。きっと永海は、絃一郎の息遣いと鼓動を聞いてくれているのだろうと思った。
なら、俺も。
目を閉じたまま、側に感じる温かさへ、そっと額をすり寄せる。
すると、ト、トット、と静かな音が聞こえてきた。永海の心音だ。自身の内から聞こえるそれと比べたら、情けなくなるくらい落ち着いていて。
あぁ、なんて心地良い音だろう。ずっとこのまま、聞いていたい――。
「――……かたくん、寺方くん」
ゆるやかに意識が戻った時、低くかすれた、まろやかな声が名前を呼んでいた。
返事をしなければ、と思うのに、まぶたも口も重くて動かない。辛うじて声とも息ともつかない音を鼻から出すと、何かが優しく髪に触れる。
「ふふ……前から思ってたけど、君の髪、なかなか芸術的な寝癖がつくよね」
「っへぁ」
笑いを含んだ言葉。何か今、ものすごく恥ずかしいことを言われたような。
理解した瞬間、全身が飛び起きた。絃一郎はハッとまぶたを開けて、けれど、辺りに満ちたまぶしい光にたまらず目を細める。
そうして、枕に埋まっていた頭をのっそりと上げてみれば。
「おはよう、寺方くん」
「あ、お、おはよう、ございます……ながみせんぱい……」
曇りガラスから降り注ぐ朝日の中、こちらを見つめる永海。心底ホッとしたような、愛おしいものを見るような、柔らかな笑顔がそこにあった。
