カウンターテナーと十七絃 ~耳に残った呪いの音色を奏でるまで~

 これほどまでに、自身の体力の無さを恨めしく思ったことはないだろう。
 土と落ち葉ばかりのランニングコースを、今にも膝をつきそうな足で踏みしめる。一歩。前方の木へ腕を伸ばし、力づくで体を引き上げて、もう一歩。
 限界だった。胸が痛い。脇腹も痛い。耳の奥すらジンと痛んで、激しく脈打つ心臓の音ばかりが響いている。
 なのに、先を行く永海の背中に追いつけない。
 恐らくもう、夕日は山の影に沈んでしまったのだろう。山肌に伸びていた木々の影は輪郭の無い薄暗さへと変わり、木々の間をスイスイ進んでいく永海を視界に捉えるのも難しくなってきた。絃一郎には、見失わないよう付いて行くだけで精一杯だった。
 そりゃあ、彼の肺活量が人並み外れていることは、普段これでもかと聞かされているが。これは、いくら何でも。
 そう胸中で悪態をついた時、突然、永海の足がピタッと止まった。
 良かった。今なら追いつける。
 と、力を振り絞ったのも束の間。

 ――コーン……。
 ♪~……

 どこから聞こえてきた、木を打つ音と不気味な歌声。
 瞬間、永海の体がフラリと藪の中へ消えた。
「っ……!」
 名前を呼ばうとした声は、喉に張り付いて音にならなかった。
 絃一郎は残された有りっ丈の力を足に込めた。階段を三段飛ばしで上がるように、トッ、トッと傾斜を駆け上がる。
 その間にも、音が響く。コーン。コーン。次第に、大きく、間隔も狭く――まるで、何かを迎え入れるように。
 幸か不幸か、ランニングコースを外れた永海の足取りは遅く、重かった。普段のランニングのような軽やかさとは打って変わり、操り人形を思わせる異様な歩みで低木をかき分けていく。
 ……これなら!
 目の前の恐ろしさより、失いたくないという衝動で胸が裂けそうだった。それだけが、足を動かしていた。そうして駆け上がる勢いのまま、もう少しのところまで近付いて。
 上がりきった体温が、サァと無くなっていくのが分かった。
 永海の行く先に、地面が無かった。先にあるのは……確か、ランニング中に見ている。この先は谷のようになっていて、崖に囲まれた狭い河原の中を細いせせらぎが流れている。
 だから、あるのは……谷底へと続く急斜面だ。
 直後、眼前まで迫った背中がガクッと傾いた。そのまま重力に身を任せ、落ちて――。
「永海先輩ッ!!」
 伸ばした腕が、間一髪、届いた。
 今にも落ちそうになっていた永海の体を抱き、引き上げ――ようとしたものの、もう足に踏ん張る力は残っていなかった。それでも、谷底へ引きずりこむ力に逆らうように、背中から茂みの中へ倒れ込む。腕の中にあるぐったりとした体は、決して離さないように。
 ドン、という衝撃。喉から飛び出る潰れた悲鳴。
「はぁ、っは、……な、ながみ、せんぱい……?」
 地面に寝転がった自身の上。腕の中に抱えた、一人分の重み。触れた温かさから感じる、確かな鼓動と穏やかな呼吸。
 ようやく。ようやく、永海に追いついた。
 絃一郎は、たちまち目頭が熱くなるのを自覚した。
 良かった。本当に、無事で。また永海を失うのは耐えられない。
 ――()()
 何のことだろう、と思った。だが思考が回るよりも早く、抗えない感情の波に飲まれていく。
 辛い。悲しい。一人にしないで。寂しい。恋しい。苦しませたくない。私の音を聞いて。聞かないで。側でずっと歌っていて。
 ……訳が分からない!
 耳が痛かった。頭がグラグラした。体は横倒しになっているはずなのに、宙を回っているかのような浮遊感がして吐きそうだった。
 どういう訳か、喉元の傷がかっと熱を帯びている。そこから、何かが濁流のようにあふれている感覚がする。
 不意に、すぐ近くで大きな音が響いた。

 ――コーン! バキッ!
 ♪~……い、……ぉ~い。

 谷底からだ。
 すぐ下で、誰かが木を切っては割っている。一人ではない。何人もの仄暗い気配が、ぐわんぐわんと反響するような節回しの不気味な歌を歌いながら、木に斧を叩きつけている。

 ♪~……こぉ~い、おちてこおぉ~い。

 その歌に乗せられた言葉を聞こえて、絃一郎は震え上がった。
 腕の中にある小柄で華奢な体を抱きしめる。丸い後頭部に鼻を寄せて、かたく目をつむる。次から次へとあふれてくる感情に身を任せ、突き動かされるように叫ぶ。
「やめてくれ! この人を、俺から奪わないでくれ……!」
 震えた声が、森の中へと消える。
 ……どれほど、そうしていただろうか。
 気付いた時にはもう、音は聞こえなくなっていた。谷底の気配もなくなっている。
 そこで、絃一郎はハッと首だけを起こした。自身の上で寝転んだままだった永海が、かすかに身じろいだのだ。
「せ、先輩。聞こえますか、永海先輩」
 呼びかけながら、背中を叩く。すると、永海がのっそりと顔を上げた。左手を絃一郎の耳の横に、右手を肩の上に置いて、よろり、よろり。そうして上半身が起き上がって、どこかぼんやりとした視線がこちらを見下ろす。
「あぁ、良かった、なが……――」
 途端、心臓が止まってしまいそうなほど跳ねた。
 輝きを失った、深く暗い瞳。
 無表情とは明らかに違う、魂が抜け落ちたような生気を感じられない顔。
 そこにある鼻と口は、本当に呼吸をしているだろうか。聞こえるのは、浅くて途切れ途切れの、絃一郎一人分の呼吸ばかりで。
 あの人の息遣いを、目線を、体の動きを、絃一郎はずっと伴奏席から見てきた。その記憶全てが、違うと叫んでいる。「目の前にいるのは永海ではない」と。
「ひっ……!」
 反射的に全身が逃げを打つ。だが、人一人分の重さが体の上に乗っているのだから、どうすることも出来ない。
 すがるような思いで、うつろな瞳を見つめ返して――はたと、視線が合わないことに気が付いた。
 見ているのは、少し下。喉元だ。
 次の瞬間、永海の右手がハイネックのインナーの襟元を力尽くで引き下ろし、ぱかっと大きく開いた口が降りてきて。
「⁈ な、なにしてっ……い゛ッ⁈」
 喉元に走る痛み。薄い皮膚に食い込む硬い何か。
 永海が噛んだのだ、と自覚した時にはもう、悲鳴も上げられなくなっていた。ビクッと顎が跳ねた拍子に、もう片方の手にうなじを掴まれて、いよいよ逃げることも出来なくなる。
 咀嚼するように喉を食い締められる痛みに、絃一郎はもがき、呻いた。だが、突き立てられた歯は、より強く食い込んでいく。
「な……、み、せん、ぱッ……!」
 手を伸ばしたのは、ほとんど無意識だった。
 震える腕を永海の背中へ回し、その頭を自身の胸に押し当てるようにして、ギュッと包み込む。
 目の前にいるのは永海ではない。だから、ただひたすら、永海に戻ってきてほしくて。
「き、いて……くれ、ッん、でしょ……!! 俺の、ことっ……!!」
 息遣い。鼓動。それから、伴奏の音色。
 永海は、聞きたいと言ってくれた。姿が見えずとも、心の音が聞こえずとも、分かるようになりたいと言ってくれた。
 絃一郎だって分かったのだ。目の前にいるのは、永海ではないと。ならば、その逆も。
 永海も、きっと。目の前にいるのは、絃一郎だと。
 今ここには、彼が求めてやまない伴奏の音色は無いけれど。
 どうか、聞こえて。どうか、分かって――。
 ――ふっと、噛んでいた力が緩んだ。途端、絃一郎の喉がヒュッと鳴って、空気を吸い損ねた苦しさにたまらず咳き込む。
「ッ、げほっ! ごほっ! ぅ、はぁ……」
「……て、らかた……くん?」
「!」
 目を開けば、涙でぼやけた視界の中に、こちらを見下ろす影が一つ。何度かまばたきを繰り返し、それが永海だと認めて――その開かれた目とようやく視線がぶつかって、絃一郎は喉に残った息苦しさも忘れて捲し立てる。
「な、永海先輩! 良かった……! だ、大丈夫ですか⁈ 体は、どこも、何とも……っ。顎を痛めたりとか、口の中切ったりとか」
「君はっ!」
 その言葉は、永海の叫びに遮られた。
 たちまち、顔面蒼白だった顔がくしゃくしゃに歪んで、への字に曲げられた唇が震える。
「君は、もう少し……自分の心配をするべきだ……!」
 ひどくかすれた、今にも泣き出してしまいそうな声。
 永海が、額を絃一郎の胸へ押し付けるように――その身を抱き締めるようにして、ぐったりとうなだれる。
「ごめん……僕は、なんてことを……」
「そんな。その、さっきの先輩、先輩だけど先輩じゃなかったというか」
「……そうだね。確かに、君の首を噛んだ覚えは、ない……けど……」
「な、なら! 先輩が気に病むことは、何も」
「でも、その傷をつけたのは、僕でしょう……!」
 言いながら身を起こした永海は、自身の顎を手で押さえていた。
 絃一郎が自身の喉元に触れると、小さな痛みと、何か濡れたような感触があった。もしかすると、血が出ているのかもしれない。
「…………っとにかく、君の手当てをしないと」
 辺りを見渡す永海を見て、絃一郎もキョロキョロと首を動かした。が、ほとんど闇の中に埋もれて曖昧にしか見えない。
 そこでようやく、迫りくる夜の近さに気が付いた。
「寺方くん、歩けそう?」
「あ、歩けはしますが……帰れるんでしょうか。こ、こんなに暗いと……きっともう、真っ暗になるまで、時間が……」
「ないね。だから、休憩小屋に行こう」