フットライトのオレンジ色だけが並んだ薄暗い廊下を、一人歩く。背後から聞こえてくる、元気を余らせた男子部員たちの賑やかな声は、もうずいぶん遠くなっている。
永海とともに風呂を終え、割り当てられた大部屋へ戻ってきた絃一郎は、小銭入れが入ったショルダーバッグの肩紐を握りしめて再び部屋を出ていた。
確か、自販機コナーがあるのは、ロビーの近くの休憩所だったはずだ。
記憶を頼りに、辺りに広がる暗がりをキョロキョロと見渡しながら歩いていると、目的地はすぐに分かった。ブーンという低い駆動音と、まぶしい真っ白な明かりがもれている一角。壁を切り取っただけのような、仕切りもないその部屋を覗き込んで――瞬間、そこで髪の長い影が動くのが見えて。
「……っ⁈」
「あれ? 寺方くんだ」
「こ、小清水先輩……!」
肩を跳ねさせた絃一郎は、内心で悲鳴を飲み込めた自分を褒めた。
動いたのは――こちらを振り返ったのは、部屋中央の平たいベンチソファにいた小清水だった。サラリと揺れる癖のない長い黒髪は、自動販売機の光だけに照らされているせいか、それとも風呂上がりのせいか、普段よりも艶やかで一層黒く見える。それこそ、影みたいに。
「お、お疲れ様です……」
「お疲れ様! 寺方くんも飲み物買いに来たの?」
「はい。お風呂から上がったら、喉乾いちゃって」
ピピッという電子音。やがてゴトンッという重たい音が、自販機の足元から聞こえてくる。
「それで、合宿はどう? 永海とは上手くいってる?」
「い、いやぁ、どうでしょう……」
取り出し口から麦茶のペットボトルを取り出した絃一郎は、首を傾げながら小清水の隣へ腰を降ろした。
「俺なりに頑張ってきたつもりだったんですけど、まだまだ……今日のレッスンも怒られてばっかりで。永海先輩にふさわしい伴奏がしたいとは思っていても、出来てるかどうかは……正直ちょっと自信なくて……」
苦笑いする絃一郎に、小清水は目をパチクリさせた。
「そうなの? そんなことないと思うけどなぁ、私は」
「え……」
「永海を見てたら分かるよ」
思わぬ言葉に、今度は絃一郎が目をパチクリさせる。
小清水は小さな笑いをもらすと、感慨深そうな声で続けた。
「永海、寺方くんが伴奏するようになってから楽しそうなんだよね。前は、伴奏なんかつけたくないのにってイライラしてたり、他の音が聞こえない静かな場所で歌いたいってフラフラどこかへ行ってたりして……」
「あぁ、ランニングの時に部長が言ってた」
「そう、それ! ひどかったんだよ? あぁでも、寺方くんが来てかなり減ったから、見たことないかな?」
「はい。でも、想像は出来ます」
「ははっ、そうでしょうそうでしょう」
納得しきりといった様子でうなずく小清水。絃一郎の想像は、やはり正しかったらしい。
「それが今じゃ、早く寺方くんの伴奏で歌いたいって毎日ソワソワしちゃってさぁ」
「そ、そうなんですか?」
「そうよ。君にも見せてあげたいなぁ、あの顔」
すると小清水は、手に持っていたルイボスティーのペットボトルをユラユラと揺らしながら、どこか遠くに視線を向けて言う。
「寺方くんが永海の伴奏を引き受けてくれて、本当に良かったと思ってるの。……最初の頃は、永海に付き合わせちゃって申し訳ないとも思ってたけどね。でも、君ほどの努力家なら技術的な差はちゃんと埋まるだろうし、何より、聞こえない伴奏なんてこれ以上ふさわしい子はいないよ」
「ん? ……ちょ、ちょっと待ってください?」
言い回しに引っかかりを覚えて、絃一郎は思わず腰を浮かせた。
それって、つまり。
「小清水先輩、永海先輩の耳のこと知ってるんですか⁈」
「知ってるわよ? 永海から聞いて……る訳ないか~」
ほとんどため息のように言って、小清水は額に手を当て、うなだれる。
「ごめん、ちゃんと説明する。そうだなぁ……知ってるっていうより、お互いに分かったっていうのが正しいかな」
「お互いに?」
「そう。実は私、ちょっと見えるの。呪いとか悪霊とか、そういう良くないものだけなんだけど」
小清水の目には、永海の耳にモヤがかかって見えるのだという。
一年生の頃。永海の伴奏をすることになった小清水は、あんな耳でちゃんと聞こえるのだろうかと心配しつつ弾いていた。すると、永海は途中で歌うのを止め「どうして耳のこと知ってるの」と言った。それでお互い、聞こえる耳と見える目を持っていることが分かり、以降秘密を共有するようになったのだそうだ。
「寺方くんの伴奏なら歌えるってことも、永海から聞かされてるわ。うっきうきで」
「うっきうき……」
驚きっぱなしの絃一郎の頭の中に、目を輝かせた声楽オバケがひょっこりと顔を出す。確かに、あの時の永海はうっきうきだった。
「……その、俺も、オバケとか結構見えたり聞こえたりするんですけど」
「そうなんだ」
「はい。けど、永海先輩の耳にモヤなんて――呪いなんて、見えたことなくて。よ、良くないものなんですか? 先輩の耳、大丈夫なんでしょうか……?」
上手く考えがまとまらないまま、漠然とした不安のままに疑問を口に出せば、小清水は険しい顔で腕を組んだ。
「うーん……難しいな。良くはないんだけど、悪いとも言い切れなくて」
思考を巡らせているのか、彼女の瞳があっちへこっちへ落ち着きなく動いて――ふと、絃一郎の喉元に視線が留まったような気がした。
だが、それはほんの一瞬だけだった。清水はすぐにうつむいて「ん~」と唸ると、悩ましげな口振りで言う。
「……ただ、この合宿中に限っていえば、ちょっと大丈夫じゃないかも」
「えっ」
「今日のランニングの時、山荘に着いた辺りで変な音が聞こえたの、覚えてる?」
「! は、はい。あれ、何だったんですか?」
「分からない。ただ、山には、人を誘い込んだり招き入れたりしようとする、良くないものがいっぱい棲んでるから。そういう何かじゃないかな?」
「ひぇ……」
「永海の耳のモヤ自体は、そこまで悪いものじゃないんだけどね。そういうやつの影響を受けて、悪いことが起こる場合があって……よりにもよって歌だし……。……うん。念のため、渡しておこうかな」
そう言うと、小清水はソファの上に置いてあったポーチから小さな袋を取り出し、絃一郎に手渡した。
小指ほどの大きさの、赤い籠目文様のちりめん生地でできた四角い小袋。その口を閉じるように結ばれた飾り紐。真ん中に刻まれた「鈴鳴神社」という金の刺繍。絃一郎には馴染み深い、鈴鳴神社のお守りだ。
「これ、肌身離さず持っておいて。うちの厄除けお守り」
「うちの、って……も、もしかして、小清水先輩の家、鈴鳴神社なんですか⁈」
「そうよ。っていうか、うちのこと知ってるんだ?」
知ってるも何も。絃一郎が祖母の家が近くにあることを話すと、小清水は「嬉しいなぁ、高校の周りだと知名度低いんだよね」と笑った。
「それから、合宿中はなるべく永海と一緒に過ごすこと。何かおかしな行動をしたり……は、普段からしてるか。とにかく、気になることがあったらすぐ連絡してね」
「わ、分かりました」
部長に頼まれた時から、そのつもりではある。とはいえ、こうなると「永海から目を離さないように」の意味合いが変わってくるだろう。
絃一郎は、手のひらの上のお守りを見つめて下唇を噛んだ。
……本当に大丈夫だろうか。永海の耳には、あの不気味な音がどう聞こえていたのだろう。練習に打ち込むばかりで、まだ本人に確かめられていない。
すると、そんな胸中を見抜いたのか、小清水が背中を叩くような明るい声で言う。
「大丈夫よ、寺方くん! こういうのは気の持ちよう! 気にせずツラ~イ練習に専念してれば、そのうち怖がってる余裕なんて無くなるわ!」
「そ、それはそれで怖いんですけど⁈」
いい声で何てこと言うんだ。ほとんど脅しじゃないか。
たまらず身を縮めれば、小清水は「わはは」と豪快な笑い声を上げて肩を揺らした。
かくして、小清水の脅しは現実になった。
眠気を戦う体を無理矢理布団から引きはがして、山荘まで「軽い」ランニングをして、永海とともに外部講師の厳しいレッスンを受けて、気が休まる暇もなくまた布団に戻って。とにかく合宿は過酷で、絃一郎は空いた時間もレッスンの復習や個人練習に費やさなければならなかった。……結局、永海に「何が聞こえましたか」とたずねられないまま。
それは、三日目の夕方だった。
ふと伴奏練習の手を止めると、永海の歌声が聞こえなかった。
講師のレッスンを終えた後のことである。永海もまた個人練習をしていて、隣の個室で歌っている声が絃一郎のところまでもれ聞こえてくるはずであった。
ただ、彼の声が聞こえないことは、これまでにも何度かあった。一度は、自身の歌の録音を聞いていた。一度は、静かな場所探しの旅に出ようとしていたので止めた。だが大抵の場合は、廊下に立って窓の外を眺めていて、声をかけると「ちょっと休憩」と控えめな喉仏をさするのがお決まりだった。流石の声楽オバケも、歌ってばかりでは喉が持たないらしい。
だから今回も、てっきり廊下にいるのかと思ったのだが。
「……永海先輩?」
ショルダーバッグを肩にかけながら廊下へ出て、絃一郎は目を丸くした。
誰もいない。いつも立っている窓の側にも、個室の中にも。
「先輩ー? いらっしゃいますかー?」
名前を呼びながら、もう少し足を伸ばして辺りを探してみる。隣の隣の個室、廊下の先、さらにそこを曲がった向こう。
永海は、どこにもいなかった。
ふと、生温い風が頬を撫でていった。鼻をかすめる枯れ草の匂い。それを視線で追えば、廊下の突き当り、非常口マークの下にある両開きのガラス扉が開いていて。
目に飛び込んできたのは、淡いオレンジ色の空と、床の上でうごめく木漏れ日。伸びた木立の影。そこへフラフラと分け入っていく、見慣れた青い学校指定ジャージの小さな背中。
たちまち、ゾッと背筋が凍った。
「せ、せんぱ……⁈」
そうだ、連絡。誰かに知らせないと。小清水に。無意識に動いた指先が、ショルダーバッグのチャックを弾く。スマートフォンはここにある。だが、一度でも目を逸らしたら見失ってしまいそうな――もう二度と戻ってこないような気がして。
「っ、待ってください! 永海先輩!」
絃一郎は、履いている上履きも個室に置きっぱなしの楽譜もそのままに、開け放たれた扉から外へと飛び出した。
永海とともに風呂を終え、割り当てられた大部屋へ戻ってきた絃一郎は、小銭入れが入ったショルダーバッグの肩紐を握りしめて再び部屋を出ていた。
確か、自販機コナーがあるのは、ロビーの近くの休憩所だったはずだ。
記憶を頼りに、辺りに広がる暗がりをキョロキョロと見渡しながら歩いていると、目的地はすぐに分かった。ブーンという低い駆動音と、まぶしい真っ白な明かりがもれている一角。壁を切り取っただけのような、仕切りもないその部屋を覗き込んで――瞬間、そこで髪の長い影が動くのが見えて。
「……っ⁈」
「あれ? 寺方くんだ」
「こ、小清水先輩……!」
肩を跳ねさせた絃一郎は、内心で悲鳴を飲み込めた自分を褒めた。
動いたのは――こちらを振り返ったのは、部屋中央の平たいベンチソファにいた小清水だった。サラリと揺れる癖のない長い黒髪は、自動販売機の光だけに照らされているせいか、それとも風呂上がりのせいか、普段よりも艶やかで一層黒く見える。それこそ、影みたいに。
「お、お疲れ様です……」
「お疲れ様! 寺方くんも飲み物買いに来たの?」
「はい。お風呂から上がったら、喉乾いちゃって」
ピピッという電子音。やがてゴトンッという重たい音が、自販機の足元から聞こえてくる。
「それで、合宿はどう? 永海とは上手くいってる?」
「い、いやぁ、どうでしょう……」
取り出し口から麦茶のペットボトルを取り出した絃一郎は、首を傾げながら小清水の隣へ腰を降ろした。
「俺なりに頑張ってきたつもりだったんですけど、まだまだ……今日のレッスンも怒られてばっかりで。永海先輩にふさわしい伴奏がしたいとは思っていても、出来てるかどうかは……正直ちょっと自信なくて……」
苦笑いする絃一郎に、小清水は目をパチクリさせた。
「そうなの? そんなことないと思うけどなぁ、私は」
「え……」
「永海を見てたら分かるよ」
思わぬ言葉に、今度は絃一郎が目をパチクリさせる。
小清水は小さな笑いをもらすと、感慨深そうな声で続けた。
「永海、寺方くんが伴奏するようになってから楽しそうなんだよね。前は、伴奏なんかつけたくないのにってイライラしてたり、他の音が聞こえない静かな場所で歌いたいってフラフラどこかへ行ってたりして……」
「あぁ、ランニングの時に部長が言ってた」
「そう、それ! ひどかったんだよ? あぁでも、寺方くんが来てかなり減ったから、見たことないかな?」
「はい。でも、想像は出来ます」
「ははっ、そうでしょうそうでしょう」
納得しきりといった様子でうなずく小清水。絃一郎の想像は、やはり正しかったらしい。
「それが今じゃ、早く寺方くんの伴奏で歌いたいって毎日ソワソワしちゃってさぁ」
「そ、そうなんですか?」
「そうよ。君にも見せてあげたいなぁ、あの顔」
すると小清水は、手に持っていたルイボスティーのペットボトルをユラユラと揺らしながら、どこか遠くに視線を向けて言う。
「寺方くんが永海の伴奏を引き受けてくれて、本当に良かったと思ってるの。……最初の頃は、永海に付き合わせちゃって申し訳ないとも思ってたけどね。でも、君ほどの努力家なら技術的な差はちゃんと埋まるだろうし、何より、聞こえない伴奏なんてこれ以上ふさわしい子はいないよ」
「ん? ……ちょ、ちょっと待ってください?」
言い回しに引っかかりを覚えて、絃一郎は思わず腰を浮かせた。
それって、つまり。
「小清水先輩、永海先輩の耳のこと知ってるんですか⁈」
「知ってるわよ? 永海から聞いて……る訳ないか~」
ほとんどため息のように言って、小清水は額に手を当て、うなだれる。
「ごめん、ちゃんと説明する。そうだなぁ……知ってるっていうより、お互いに分かったっていうのが正しいかな」
「お互いに?」
「そう。実は私、ちょっと見えるの。呪いとか悪霊とか、そういう良くないものだけなんだけど」
小清水の目には、永海の耳にモヤがかかって見えるのだという。
一年生の頃。永海の伴奏をすることになった小清水は、あんな耳でちゃんと聞こえるのだろうかと心配しつつ弾いていた。すると、永海は途中で歌うのを止め「どうして耳のこと知ってるの」と言った。それでお互い、聞こえる耳と見える目を持っていることが分かり、以降秘密を共有するようになったのだそうだ。
「寺方くんの伴奏なら歌えるってことも、永海から聞かされてるわ。うっきうきで」
「うっきうき……」
驚きっぱなしの絃一郎の頭の中に、目を輝かせた声楽オバケがひょっこりと顔を出す。確かに、あの時の永海はうっきうきだった。
「……その、俺も、オバケとか結構見えたり聞こえたりするんですけど」
「そうなんだ」
「はい。けど、永海先輩の耳にモヤなんて――呪いなんて、見えたことなくて。よ、良くないものなんですか? 先輩の耳、大丈夫なんでしょうか……?」
上手く考えがまとまらないまま、漠然とした不安のままに疑問を口に出せば、小清水は険しい顔で腕を組んだ。
「うーん……難しいな。良くはないんだけど、悪いとも言い切れなくて」
思考を巡らせているのか、彼女の瞳があっちへこっちへ落ち着きなく動いて――ふと、絃一郎の喉元に視線が留まったような気がした。
だが、それはほんの一瞬だけだった。清水はすぐにうつむいて「ん~」と唸ると、悩ましげな口振りで言う。
「……ただ、この合宿中に限っていえば、ちょっと大丈夫じゃないかも」
「えっ」
「今日のランニングの時、山荘に着いた辺りで変な音が聞こえたの、覚えてる?」
「! は、はい。あれ、何だったんですか?」
「分からない。ただ、山には、人を誘い込んだり招き入れたりしようとする、良くないものがいっぱい棲んでるから。そういう何かじゃないかな?」
「ひぇ……」
「永海の耳のモヤ自体は、そこまで悪いものじゃないんだけどね。そういうやつの影響を受けて、悪いことが起こる場合があって……よりにもよって歌だし……。……うん。念のため、渡しておこうかな」
そう言うと、小清水はソファの上に置いてあったポーチから小さな袋を取り出し、絃一郎に手渡した。
小指ほどの大きさの、赤い籠目文様のちりめん生地でできた四角い小袋。その口を閉じるように結ばれた飾り紐。真ん中に刻まれた「鈴鳴神社」という金の刺繍。絃一郎には馴染み深い、鈴鳴神社のお守りだ。
「これ、肌身離さず持っておいて。うちの厄除けお守り」
「うちの、って……も、もしかして、小清水先輩の家、鈴鳴神社なんですか⁈」
「そうよ。っていうか、うちのこと知ってるんだ?」
知ってるも何も。絃一郎が祖母の家が近くにあることを話すと、小清水は「嬉しいなぁ、高校の周りだと知名度低いんだよね」と笑った。
「それから、合宿中はなるべく永海と一緒に過ごすこと。何かおかしな行動をしたり……は、普段からしてるか。とにかく、気になることがあったらすぐ連絡してね」
「わ、分かりました」
部長に頼まれた時から、そのつもりではある。とはいえ、こうなると「永海から目を離さないように」の意味合いが変わってくるだろう。
絃一郎は、手のひらの上のお守りを見つめて下唇を噛んだ。
……本当に大丈夫だろうか。永海の耳には、あの不気味な音がどう聞こえていたのだろう。練習に打ち込むばかりで、まだ本人に確かめられていない。
すると、そんな胸中を見抜いたのか、小清水が背中を叩くような明るい声で言う。
「大丈夫よ、寺方くん! こういうのは気の持ちよう! 気にせずツラ~イ練習に専念してれば、そのうち怖がってる余裕なんて無くなるわ!」
「そ、それはそれで怖いんですけど⁈」
いい声で何てこと言うんだ。ほとんど脅しじゃないか。
たまらず身を縮めれば、小清水は「わはは」と豪快な笑い声を上げて肩を揺らした。
かくして、小清水の脅しは現実になった。
眠気を戦う体を無理矢理布団から引きはがして、山荘まで「軽い」ランニングをして、永海とともに外部講師の厳しいレッスンを受けて、気が休まる暇もなくまた布団に戻って。とにかく合宿は過酷で、絃一郎は空いた時間もレッスンの復習や個人練習に費やさなければならなかった。……結局、永海に「何が聞こえましたか」とたずねられないまま。
それは、三日目の夕方だった。
ふと伴奏練習の手を止めると、永海の歌声が聞こえなかった。
講師のレッスンを終えた後のことである。永海もまた個人練習をしていて、隣の個室で歌っている声が絃一郎のところまでもれ聞こえてくるはずであった。
ただ、彼の声が聞こえないことは、これまでにも何度かあった。一度は、自身の歌の録音を聞いていた。一度は、静かな場所探しの旅に出ようとしていたので止めた。だが大抵の場合は、廊下に立って窓の外を眺めていて、声をかけると「ちょっと休憩」と控えめな喉仏をさするのがお決まりだった。流石の声楽オバケも、歌ってばかりでは喉が持たないらしい。
だから今回も、てっきり廊下にいるのかと思ったのだが。
「……永海先輩?」
ショルダーバッグを肩にかけながら廊下へ出て、絃一郎は目を丸くした。
誰もいない。いつも立っている窓の側にも、個室の中にも。
「先輩ー? いらっしゃいますかー?」
名前を呼びながら、もう少し足を伸ばして辺りを探してみる。隣の隣の個室、廊下の先、さらにそこを曲がった向こう。
永海は、どこにもいなかった。
ふと、生温い風が頬を撫でていった。鼻をかすめる枯れ草の匂い。それを視線で追えば、廊下の突き当り、非常口マークの下にある両開きのガラス扉が開いていて。
目に飛び込んできたのは、淡いオレンジ色の空と、床の上でうごめく木漏れ日。伸びた木立の影。そこへフラフラと分け入っていく、見慣れた青い学校指定ジャージの小さな背中。
たちまち、ゾッと背筋が凍った。
「せ、せんぱ……⁈」
そうだ、連絡。誰かに知らせないと。小清水に。無意識に動いた指先が、ショルダーバッグのチャックを弾く。スマートフォンはここにある。だが、一度でも目を逸らしたら見失ってしまいそうな――もう二度と戻ってこないような気がして。
「っ、待ってください! 永海先輩!」
絃一郎は、履いている上履きも個室に置きっぱなしの楽譜もそのままに、開け放たれた扉から外へと飛び出した。
