翌朝。バスに揺られること数時間。
声楽部が降り立ったのは、標高千メートルほどの山麓である。
どこまでも広がる、鮮やかな濃い緑色の木々。真上から降り注ぐ日を一身に浴びた枝葉は、高原らしい爽やかな風に揺られてキラキラと輝いている。
視界に入る人工物は、「そまうど荘」という看板が掲げられた大きな三角屋根の建物だけ。それすらも木材が惜しみなく使われた、森に溶け込むような造りとなっている。
大自然に囲まれたこの宿泊施設が、声楽部の夏合宿が行われる場所だった。
「本日よりお世話になります。よろしくお願いいたします!」
玄関に整列した生徒たちの一番前で、部長が頭を下げる。山中へ響き渡るような挨拶に続いて、絃一郎も声を張って頭を下げる。
ふと、サァァと葉擦れの音が響いた。土と草の匂いとともに強かな風が吹き抜けて、スッと背中の汗が引いていく。
その一声が、厳しい合宿の始まりを告げる合図だった。
割り当てられた部屋に荷物を置いた部員たちは、まず最初にストレッチと軽いランニングを行った。
……本当に? これが「軽い」?
絃一郎は、ずっとそう思いながら列の最後尾を走っていた。
なにせ、山中である。ランニングコースは、ほとんど山道と言っても過言ではない。折り返し地点である山荘へ着く頃には、絃一郎はすっかりクタクタになっていた。
道端にしゃがみ込み、息を整える。
ここで小休憩だ。点呼が行われるまで、少しでも体力を回復させておかないと。
肩を上下させつつ火照った顔を上げると、ベンチらしき丸太に腰を降ろした永海の姿が目に留まる。なんて涼しげな顔なんだ。見れば、小清水も美作も、みんな余裕そうだった。絃一郎にとっては遅れずに走るのが精一杯というペースだったのだが、どうやら本当に「軽い」ペースだったらしい。
その時、どこからか聞き慣れない音がした。
――コーン……。
♪~……
木を打った時のような、温かみのある響き。それから、くぐもっていてよく聞き取れない、独特の節回しの低い歌声。
風に乗って辛うじて耳に届いたような、かすかな音。なのに、耳の奥がザワザワして、直感的に聞きたくないと感じる音だった。
今のは、と首を動かしたと同時に、にわかに辺りが騒がしくなる。
「ねぇ、聞こえた? 今の」
「聞こえた聞こえた。何の音?」
部員たちが口々に言い合う間にも、音はどこか遠くからうっすらと響いてくる。
そこで絃一郎は、弾かれたように立ち上がった。
永海なら、何の音か分かるかもしれない。分かってしまうかもしれない。音を奏でる人の心の内が聞こえるという、永海の耳なら。
永海は何も変わらず、丸太に座ったまま、ぼんやりとどこかを眺めていた。その視線の先には何があるのだろう。居ても立っても居られず、その隣へ駆け寄ろうとして。
「集合! 点呼!」
よく通る部長の一声。たちまち静かになり、集まる部員たち。仕方なく、絃一郎もその後に続いた。永海に「先輩の耳には何が聞こえましたか」と確かめたくてたまらない気持ちを抑えながら。
「事前に説明した通り、ランニングでは折り返し地点となるこの山荘で小休憩と点呼を行います。ここは登山口にもなっていて、一般の登山客の方々もお見えになるから、くれぐれも失礼のないようお願いします」
背後の小さな山小屋を一度振り返ってから、部長は続ける。
「それから、この山荘と途中にあった休憩小屋には、応急処置セットや仮眠室、『そまうど荘』と繋がる電話などが備えてあります。怪我をした時や体調不良の時……無いとは思うけど、フラフラ山へ迷い込んで日没までに宿舎に帰るが難しくなった時など、不測の事態に陥った場合はここを頼ってください」
途端、先輩部員たちの視線が一斉に永海へ向く。
まさか。
ふと、宿泊施設へ到着し、荷物を置きに行こうとしていた時の一幕を思い出す。
数少ない男子部員たちとともに、割り当てられた大部屋に向かっていた時、絃一郎は突然部長に呼び止められたのだ。
「本当は、後輩の君にこんなこと頼みたくないんだけど。永海から目を離さないように。お願いね」
「え? それってどういう……?」
そう耳打ちして、部長は忙しそうに来た道を引き返していった。だから、詳しいことは聞けなかったのだが。
視線を集めた当の本人は、相変わらずの無表情で、気にする素振りも無い。
絃一郎は全てを察した。他の誰かの音が聞こえない静かな場所を求め、山へ迷い込んでしまうその姿が容易に想像できてしまって、もはや苦笑するしかなかった。
ランニングを終えて施設に戻り、発声練習も済ませると、いよいよ本格的なレッスンが始まる。
施設内に設けられた広い多目的ホールへ入っていく合唱班の部員たちは、誰もが気合と緊張が入り混じった表情をしていた。八月中旬に行われる合唱コンクールまで、残り二週間ほど。今がまさに佳境なのだろう。
彼らの横を通り過ぎた永海と絃一郎もまた、独唱班に割り当てられた部屋へと向かっていた。待ち受けるのは、この合宿のためにやってきたという外部講師の個別指導である。
永海は、表情も変えず前を向いたまま言う。
「寺方くん、そんなに気負わなくていい。僕たちが目指してるコンクールは九月の上旬だ。合唱班に比べたら、まだ時間的な余裕はあるからね」
「は、はい」
「それに、沢山練習してきたでしょう?」
内心にある優しさがありありと分かる、落ち着いた声だった。
きっと、彼らの緊張が移ったひどい顔をしていたのだろう。絃一郎はうなずくと、自身の頬をペチッと叩いて気持ちを奮い立たせる。
部屋へ到着し、互いに挨拶を済ませると、講師は早速「じゃあ一度通して歌ってみて」と鋭い声で言った。そうして一通り歌って、今の永海と絃一郎に足りないものを振り返って、一つ一つ積み重ねるように確かめていって。
「そこ、伴奏うるさい! 永海くんの歌につられて盛り上がりすぎ!」
瞬間、喉の奥がヒッと鳴りそうになる。
講師の指導は、とにかく容赦が無かった。その声は雷のようで、絃一郎は今にも口から出そうな悲鳴を飲み込み、死に物狂いで鍵盤にしがみつかなければならなかった。
熱心さゆえの厳しい指導だろうということも、声楽家だからこその大きな声だということも、頭では分かっている。だが、どうしても駄目だった。
あぁ、怖い。今すぐここから逃げ出してしまいたい――なのに、体はすくんで動かない。
それでも絃一郎は、伴奏を弾き続けた。いつになく真剣な表情で歌う永海の、その熱のこもった眼差しに応えたい。その一心だった。
レッスンが終わったのは、高地の早い日没も過ぎ、終了予定時刻もとうに過ぎた後。
何とか夕食時間ギリギリに食堂へ滑り込み、ようやく大浴場へ辿り着いた頃にはもう、他の男子部員たちは寝間着に着替えて部屋へと戻るところだった。
残された永海と絃一郎は、会話もなく脱衣所で服を脱ぐと、風呂場へと向かった。
一日の汗を洗い流し、広い湯船に体を沈めるようにあご先まで浸かる。すると、遅れてやってきた永海が隣へ座った。
「寺方くん、大丈夫? なんだかヘニョヘニョだね」
「あはは……分かります?」
確かに、ヘニョヘニョの体勢である。流石にだらしないか。そう思った絃一郎は湯から肩まで出すと、丸くなっていた背を伸ばして座り直す。
「体は全然平気なんですけど……。ただちょっと、あんなに厳しいレッスンは初めてで、気持ちが疲れちゃったというか……」
「……ごめん。ああいう、口調がキツい先生だって、ちゃんと説明しておけば良かった」
「いえ……」
水面を見つめながら言う永海に、絃一郎は首を横に振った。きっと、事前に説明してもらっていたとしても、結果は同じだっただろう。
それからしばらく、永海は口を閉じ、絃一郎も黙ったままでいた。
不意に、視線を感じた。隣を見れば、永海がわずかに口を開けたまま硬直し、驚きと不安の色に染まった瞳で絃一郎を――その喉元を見つめていて。
「それ、どうしたの?」
「! こ、これは」
絃一郎は、咄嗟に喉元を手で覆った。
指先に感じる、骨の膨らみとは違った皮膚のでこぼこ。鎖骨と喉仏の間にある、五センチほどの歪な横線――あの日からずっと残って消えない、傷の跡だ。
しまった。すっかり油断していた。痛々しくて悪目立ちするから、普段はハイネックのインナーを着て、こういう場ではタオルなんかを使ってどうにか隠していたのだが。
「これは、その……こ、子供の頃に……」
一気に高まった肌の熱が、ドッドッと駆け足になっていく心臓の拍動が、喉元を撫でる指先に伝わってくる。
ここにあるのは、何の変哲もない古傷だ。そう言ってしまえばいい。なのに、それが口から出てこない。……ただの傷というには、刻まれた恐怖が深すぎて。
それでも無理矢理声を絞り出そうとすれば、喉の奥からぐうと潰れた音が出る。
直後、こちらを見つめる瞳が一瞬だけ見開かれた。その視線はすぐに逸らされて、天を仰ぐように上へ向く。
「いいよ。答えたくないなら言わないで」
「……すみません。答えたくない訳では、ないんですが……」
「そう? 今、君、レッスンの時と同じ、苦しそうな顔してたから。てっきりそうかなって」
「……」
浴槽の縁に後頭部を乗せ、大きく息を吐く永海。「はぁ」という低くかすれた声が、湯気で満ちた風呂場に反響する。
「寺方くんの心の内も、聞けたら良かったのに」
「き、聞かせられませんよ……。きっと、疲れたなぁとか怖いなぁとか、そういうのでめちゃくちゃですよ?」
「それでもいい」
「良くないです。先輩が良くても、俺が良くない」
「君が?」
頬を膨らませて言えば、永海は笑いを含んだ意外そうな声を上げる。
当たり前じゃないか。いい訳あるか。それを聞かせないために、永海に思い切り歌ってもらうために、伴奏をやっているというのに。
「でも、本当にそう思ったんだ。寺方くんのことが分かるようになりたい、って。……ほら僕、さっきのレッスンで『もっと伴奏を聞きなさい』って言われてたでしょう」
「あー……そうでしたね。永海先輩が伴奏を聞かなきゃいけないって、俺にはピンとこないんですけど……。伴奏者が歌をよく聞いて、歌手をしっかり見て、呼吸を合わせるのは分かります。けど、その逆も大切なんですか?」
「勿論。歌手は、伴奏に合わせてもらうだけじゃ駄目なんだ。互いに聞きあって、二人の呼吸が自然と合うようにならなくちゃいけない」
「そうなんですね」
「……自覚はあるんだ。僕はこれまで、伴奏を聞こうとしてこなかったから」
「それは……っ」
「ふふ、本当に、君は優しいな。そんな悲しそうな顔しないで。君の伴奏なら聞けるから、大丈夫だよ」
柔らかな声で言うと、永海はゆっくりと目を閉じた。
「君のこと、もっと聞かなくちゃ。もっと分かるようにならなくちゃ。僕からは、君の姿は見えないから……見えなくても、君の息遣いと、鼓動と、音色と……」
どこかうわ言のようにつぶやく永海。そのまぶたの裏には、ピアノの前に座っている絃一郎とは違う、舞台に向かって歌う彼だけが感じ取れる景色が浮かんでいるのだろう。
「……あぁ、でも、これだけは教えてほしいかな」
「なんでしょう」
「その首の傷、痛くはない?」
「はい。今は何とも」
「そう。良かった」
絃一郎がうなずくと、永海はわずかに上がった口元からホッと小さな吐息をこぼした。
声楽部が降り立ったのは、標高千メートルほどの山麓である。
どこまでも広がる、鮮やかな濃い緑色の木々。真上から降り注ぐ日を一身に浴びた枝葉は、高原らしい爽やかな風に揺られてキラキラと輝いている。
視界に入る人工物は、「そまうど荘」という看板が掲げられた大きな三角屋根の建物だけ。それすらも木材が惜しみなく使われた、森に溶け込むような造りとなっている。
大自然に囲まれたこの宿泊施設が、声楽部の夏合宿が行われる場所だった。
「本日よりお世話になります。よろしくお願いいたします!」
玄関に整列した生徒たちの一番前で、部長が頭を下げる。山中へ響き渡るような挨拶に続いて、絃一郎も声を張って頭を下げる。
ふと、サァァと葉擦れの音が響いた。土と草の匂いとともに強かな風が吹き抜けて、スッと背中の汗が引いていく。
その一声が、厳しい合宿の始まりを告げる合図だった。
割り当てられた部屋に荷物を置いた部員たちは、まず最初にストレッチと軽いランニングを行った。
……本当に? これが「軽い」?
絃一郎は、ずっとそう思いながら列の最後尾を走っていた。
なにせ、山中である。ランニングコースは、ほとんど山道と言っても過言ではない。折り返し地点である山荘へ着く頃には、絃一郎はすっかりクタクタになっていた。
道端にしゃがみ込み、息を整える。
ここで小休憩だ。点呼が行われるまで、少しでも体力を回復させておかないと。
肩を上下させつつ火照った顔を上げると、ベンチらしき丸太に腰を降ろした永海の姿が目に留まる。なんて涼しげな顔なんだ。見れば、小清水も美作も、みんな余裕そうだった。絃一郎にとっては遅れずに走るのが精一杯というペースだったのだが、どうやら本当に「軽い」ペースだったらしい。
その時、どこからか聞き慣れない音がした。
――コーン……。
♪~……
木を打った時のような、温かみのある響き。それから、くぐもっていてよく聞き取れない、独特の節回しの低い歌声。
風に乗って辛うじて耳に届いたような、かすかな音。なのに、耳の奥がザワザワして、直感的に聞きたくないと感じる音だった。
今のは、と首を動かしたと同時に、にわかに辺りが騒がしくなる。
「ねぇ、聞こえた? 今の」
「聞こえた聞こえた。何の音?」
部員たちが口々に言い合う間にも、音はどこか遠くからうっすらと響いてくる。
そこで絃一郎は、弾かれたように立ち上がった。
永海なら、何の音か分かるかもしれない。分かってしまうかもしれない。音を奏でる人の心の内が聞こえるという、永海の耳なら。
永海は何も変わらず、丸太に座ったまま、ぼんやりとどこかを眺めていた。その視線の先には何があるのだろう。居ても立っても居られず、その隣へ駆け寄ろうとして。
「集合! 点呼!」
よく通る部長の一声。たちまち静かになり、集まる部員たち。仕方なく、絃一郎もその後に続いた。永海に「先輩の耳には何が聞こえましたか」と確かめたくてたまらない気持ちを抑えながら。
「事前に説明した通り、ランニングでは折り返し地点となるこの山荘で小休憩と点呼を行います。ここは登山口にもなっていて、一般の登山客の方々もお見えになるから、くれぐれも失礼のないようお願いします」
背後の小さな山小屋を一度振り返ってから、部長は続ける。
「それから、この山荘と途中にあった休憩小屋には、応急処置セットや仮眠室、『そまうど荘』と繋がる電話などが備えてあります。怪我をした時や体調不良の時……無いとは思うけど、フラフラ山へ迷い込んで日没までに宿舎に帰るが難しくなった時など、不測の事態に陥った場合はここを頼ってください」
途端、先輩部員たちの視線が一斉に永海へ向く。
まさか。
ふと、宿泊施設へ到着し、荷物を置きに行こうとしていた時の一幕を思い出す。
数少ない男子部員たちとともに、割り当てられた大部屋に向かっていた時、絃一郎は突然部長に呼び止められたのだ。
「本当は、後輩の君にこんなこと頼みたくないんだけど。永海から目を離さないように。お願いね」
「え? それってどういう……?」
そう耳打ちして、部長は忙しそうに来た道を引き返していった。だから、詳しいことは聞けなかったのだが。
視線を集めた当の本人は、相変わらずの無表情で、気にする素振りも無い。
絃一郎は全てを察した。他の誰かの音が聞こえない静かな場所を求め、山へ迷い込んでしまうその姿が容易に想像できてしまって、もはや苦笑するしかなかった。
ランニングを終えて施設に戻り、発声練習も済ませると、いよいよ本格的なレッスンが始まる。
施設内に設けられた広い多目的ホールへ入っていく合唱班の部員たちは、誰もが気合と緊張が入り混じった表情をしていた。八月中旬に行われる合唱コンクールまで、残り二週間ほど。今がまさに佳境なのだろう。
彼らの横を通り過ぎた永海と絃一郎もまた、独唱班に割り当てられた部屋へと向かっていた。待ち受けるのは、この合宿のためにやってきたという外部講師の個別指導である。
永海は、表情も変えず前を向いたまま言う。
「寺方くん、そんなに気負わなくていい。僕たちが目指してるコンクールは九月の上旬だ。合唱班に比べたら、まだ時間的な余裕はあるからね」
「は、はい」
「それに、沢山練習してきたでしょう?」
内心にある優しさがありありと分かる、落ち着いた声だった。
きっと、彼らの緊張が移ったひどい顔をしていたのだろう。絃一郎はうなずくと、自身の頬をペチッと叩いて気持ちを奮い立たせる。
部屋へ到着し、互いに挨拶を済ませると、講師は早速「じゃあ一度通して歌ってみて」と鋭い声で言った。そうして一通り歌って、今の永海と絃一郎に足りないものを振り返って、一つ一つ積み重ねるように確かめていって。
「そこ、伴奏うるさい! 永海くんの歌につられて盛り上がりすぎ!」
瞬間、喉の奥がヒッと鳴りそうになる。
講師の指導は、とにかく容赦が無かった。その声は雷のようで、絃一郎は今にも口から出そうな悲鳴を飲み込み、死に物狂いで鍵盤にしがみつかなければならなかった。
熱心さゆえの厳しい指導だろうということも、声楽家だからこその大きな声だということも、頭では分かっている。だが、どうしても駄目だった。
あぁ、怖い。今すぐここから逃げ出してしまいたい――なのに、体はすくんで動かない。
それでも絃一郎は、伴奏を弾き続けた。いつになく真剣な表情で歌う永海の、その熱のこもった眼差しに応えたい。その一心だった。
レッスンが終わったのは、高地の早い日没も過ぎ、終了予定時刻もとうに過ぎた後。
何とか夕食時間ギリギリに食堂へ滑り込み、ようやく大浴場へ辿り着いた頃にはもう、他の男子部員たちは寝間着に着替えて部屋へと戻るところだった。
残された永海と絃一郎は、会話もなく脱衣所で服を脱ぐと、風呂場へと向かった。
一日の汗を洗い流し、広い湯船に体を沈めるようにあご先まで浸かる。すると、遅れてやってきた永海が隣へ座った。
「寺方くん、大丈夫? なんだかヘニョヘニョだね」
「あはは……分かります?」
確かに、ヘニョヘニョの体勢である。流石にだらしないか。そう思った絃一郎は湯から肩まで出すと、丸くなっていた背を伸ばして座り直す。
「体は全然平気なんですけど……。ただちょっと、あんなに厳しいレッスンは初めてで、気持ちが疲れちゃったというか……」
「……ごめん。ああいう、口調がキツい先生だって、ちゃんと説明しておけば良かった」
「いえ……」
水面を見つめながら言う永海に、絃一郎は首を横に振った。きっと、事前に説明してもらっていたとしても、結果は同じだっただろう。
それからしばらく、永海は口を閉じ、絃一郎も黙ったままでいた。
不意に、視線を感じた。隣を見れば、永海がわずかに口を開けたまま硬直し、驚きと不安の色に染まった瞳で絃一郎を――その喉元を見つめていて。
「それ、どうしたの?」
「! こ、これは」
絃一郎は、咄嗟に喉元を手で覆った。
指先に感じる、骨の膨らみとは違った皮膚のでこぼこ。鎖骨と喉仏の間にある、五センチほどの歪な横線――あの日からずっと残って消えない、傷の跡だ。
しまった。すっかり油断していた。痛々しくて悪目立ちするから、普段はハイネックのインナーを着て、こういう場ではタオルなんかを使ってどうにか隠していたのだが。
「これは、その……こ、子供の頃に……」
一気に高まった肌の熱が、ドッドッと駆け足になっていく心臓の拍動が、喉元を撫でる指先に伝わってくる。
ここにあるのは、何の変哲もない古傷だ。そう言ってしまえばいい。なのに、それが口から出てこない。……ただの傷というには、刻まれた恐怖が深すぎて。
それでも無理矢理声を絞り出そうとすれば、喉の奥からぐうと潰れた音が出る。
直後、こちらを見つめる瞳が一瞬だけ見開かれた。その視線はすぐに逸らされて、天を仰ぐように上へ向く。
「いいよ。答えたくないなら言わないで」
「……すみません。答えたくない訳では、ないんですが……」
「そう? 今、君、レッスンの時と同じ、苦しそうな顔してたから。てっきりそうかなって」
「……」
浴槽の縁に後頭部を乗せ、大きく息を吐く永海。「はぁ」という低くかすれた声が、湯気で満ちた風呂場に反響する。
「寺方くんの心の内も、聞けたら良かったのに」
「き、聞かせられませんよ……。きっと、疲れたなぁとか怖いなぁとか、そういうのでめちゃくちゃですよ?」
「それでもいい」
「良くないです。先輩が良くても、俺が良くない」
「君が?」
頬を膨らませて言えば、永海は笑いを含んだ意外そうな声を上げる。
当たり前じゃないか。いい訳あるか。それを聞かせないために、永海に思い切り歌ってもらうために、伴奏をやっているというのに。
「でも、本当にそう思ったんだ。寺方くんのことが分かるようになりたい、って。……ほら僕、さっきのレッスンで『もっと伴奏を聞きなさい』って言われてたでしょう」
「あー……そうでしたね。永海先輩が伴奏を聞かなきゃいけないって、俺にはピンとこないんですけど……。伴奏者が歌をよく聞いて、歌手をしっかり見て、呼吸を合わせるのは分かります。けど、その逆も大切なんですか?」
「勿論。歌手は、伴奏に合わせてもらうだけじゃ駄目なんだ。互いに聞きあって、二人の呼吸が自然と合うようにならなくちゃいけない」
「そうなんですね」
「……自覚はあるんだ。僕はこれまで、伴奏を聞こうとしてこなかったから」
「それは……っ」
「ふふ、本当に、君は優しいな。そんな悲しそうな顔しないで。君の伴奏なら聞けるから、大丈夫だよ」
柔らかな声で言うと、永海はゆっくりと目を閉じた。
「君のこと、もっと聞かなくちゃ。もっと分かるようにならなくちゃ。僕からは、君の姿は見えないから……見えなくても、君の息遣いと、鼓動と、音色と……」
どこかうわ言のようにつぶやく永海。そのまぶたの裏には、ピアノの前に座っている絃一郎とは違う、舞台に向かって歌う彼だけが感じ取れる景色が浮かんでいるのだろう。
「……あぁ、でも、これだけは教えてほしいかな」
「なんでしょう」
「その首の傷、痛くはない?」
「はい。今は何とも」
「そう。良かった」
絃一郎がうなずくと、永海はわずかに上がった口元からホッと小さな吐息をこぼした。
