六畳一間の小さな離れ。古いエアコンの冷房が効いてくるのを待ちながら、絃一郎は十七絃筝の前に座っていた。
これから十七絃筝を弾こうと、琴柱を立てているだけだった。ただそれだけなのに、正座をした膝の裏にはじっとりと汗がにじんでいる。
こうして筝とともに過ごす夜を、絃一郎は欠かしたことがない。
声楽部での練習を終えて帰宅し、母屋で食事も風呂も済ませて、自室である離れへ。筝の準備をしたら、指先が動くようになるまで手慣らしをして、先生から教わった曲を弾く。
七月下旬。夏休みに入り、伴奏の練習に一層熱が入るようになってからも、それは変わらなかった。
――シャン、シャン、テン。
弾き終えた弦に残る余韻を噛み締めるように聞きながら、やっぱり箏の音色はたまらない、と思う。ピアノの素朴で軽やかな音色も良いが、この水が滴り落ちるような不思議な音色は、箏でしか味わえない特別なものだ。
とはいえ、流石に今日は早く寝なければ。でも、最後にもう一曲だけ……と弦の上に手を置いた、その時。
ピコン。
唐突に鳴ったスマートフォンの通知音に、畳の上に置きっぱなしだった液晶画面を覗き込む。
『げんちゃん! 今からそっち行くぜ!』
子供の頃のままのあだ名。相変わらずの遠慮の無さ。
小さな笑みをこぼして了解の返事をした絃一郎は、少し名残惜しく思いながらも筝を片付け始めた。
程なくして、コンコンッと力強く叩かれた扉を開ければ。
「よう、げんちゃん! 邪魔するぜ~!」
「塚路さん! こんばんは」
ひょっこりと現れる、元気良く跳ねた金髪。ニカッと上がった口角から見える白い歯。その目尻に笑い皺が寄るようになったのは、二十五を過ぎた頃からだっただろうか。
彼は、かつて絃一郎の祖母に筝を習っていた門下生――つまり兄弟子にあたる、塚路である。
実際、絃一郎のことを弟のように思ってくれているらしく、塚路は時折こうして顔を見にやってくる。あの日から――絃一郎が叔父一家の居候になってからも、祖母が亡くなってからも。
「悪ぃな、こんな遅くに来ちまって」
「いえ。蘭太叔父さんたちにはもう会いました?」
「おう、さっきな。紬ちゃんが『むぎもげんちゃんに会う~!』って駄々こねてたぜ」
「へぇ、紬さん、まだ起きてたんですか」
「起き……いーや? ありゃあ、ほとんど寝てたな。トロ~ンとした目でむにゃむにゃしてるもんだから、寝室まで茉莉さんに引っ張られて、こう、ズルズル~っと」
「あはは、眠気には勝てないかぁ」
可愛らしい従妹の姿が目に浮かんで、絃一郎の頬が緩む。
そんな言葉を交わしつつ、塚路は勝手知ったる足取りで絃一郎の部屋に上がった。ガニ股で肩を揺らしながら歩くたび、シルバーのピアスと腰に下がったウォレットチェーンがチャリチャリと音を立てる。そうして、筝に代わって部屋の中央に置かれた座卓の側までやってくると、壁へ背を預けるようにして無造作にあぐらをかいた。
定位置へ収まった塚路に、絃一郎もいつも通り、座卓を挟んで向かい合うように腰を降ろす。
「茉莉さんから聞いたぜ。げんちゃん、明日から合宿なんだって?」
「そうなんです。三泊四日で」
「おわ~っ、ガッツリじゃん。道理で紬ちゃんが会いたがるワケだ」
ふと、塚路の視線が絃一郎の背後へ向く。その先にあるのは、畳まれた布団の横、最終チェック待ちの膨らんだボストンバッグだろう。
「っつーか、こ~んな時間まで起きてて大丈夫かよぉ? 明日起きれるか?」
「大丈夫です。夜更かししてもしなくても、朝は起きられないので」
「だははっ! 大丈夫じゃねぇだろ、そりゃあ! 蘭ちゃんも、いっつも遅くまで電気がついてるって心配してたぜ?」
「あー、それは……伴奏練習の復習もしてると、どうしても遅くなっちゃって」
「真面目だねぇ。まっ、それがげんちゃんの良いトコなんだが、うん」
うなずきながら、塚路が足を組み直す。それから「あー」と唸りながら天井を見上げて。かと思えば、うつむきながら首を傾げて。やがて居心地悪そうに腕を組むと、難しい顔をして言う。
「……蘭太のやつに、それとなく聞いてみてくれって言われたんだが。んな器用なことオレには出来ねぇから、もうそのまんま聞くぞ」
「はい」
「げんちゃん、母屋で暮らすつもりはねぇか?」
「…………」
絃一郎は何も答えられなかった。ただうつむいて、ハイネックのインナーの喉元をギュッと握りしめる。
こうやって問われるのも、もう何度目になるだろう。……こうして、素直に言葉を口に出せないのも、もう。
やがて、かすかな衣擦れの音がして、普段の威勢の良さを失った声が言う。
「……やっぱ、まだ、怖ぇか」
たずねるでも、確かめるでもない、独り言のような口調。それでも絃一郎は、こくん、と小さく首を縦に振る。
すると、下を向いていた絃一郎の後頭部に、ポンッと温かな感触が乗った。
「そっか。じゃ、陰気臭ぇ話は終わり! 明日は寝坊すんなよ!」
「が、頑張ります!」
「朝飯食えよ!」
「……」
「食えよ⁈」
あまりの自信の無さに口を閉じれば、頭の上の大きな手のひらに容赦なく毛束をかき回された。流石、ここで「早く寝ろ」と言わない辺り、絃一郎の生態をよく分かっている。
「そんで、思いっきり楽しんで来い!」
「……はい。行ってきます!」
うなずき、絃一郎は顔を上げる。そこにあった、真夏の太陽のような塚路の笑みにつられ、絃一郎も自然と口角を上げていた。
これから十七絃筝を弾こうと、琴柱を立てているだけだった。ただそれだけなのに、正座をした膝の裏にはじっとりと汗がにじんでいる。
こうして筝とともに過ごす夜を、絃一郎は欠かしたことがない。
声楽部での練習を終えて帰宅し、母屋で食事も風呂も済ませて、自室である離れへ。筝の準備をしたら、指先が動くようになるまで手慣らしをして、先生から教わった曲を弾く。
七月下旬。夏休みに入り、伴奏の練習に一層熱が入るようになってからも、それは変わらなかった。
――シャン、シャン、テン。
弾き終えた弦に残る余韻を噛み締めるように聞きながら、やっぱり箏の音色はたまらない、と思う。ピアノの素朴で軽やかな音色も良いが、この水が滴り落ちるような不思議な音色は、箏でしか味わえない特別なものだ。
とはいえ、流石に今日は早く寝なければ。でも、最後にもう一曲だけ……と弦の上に手を置いた、その時。
ピコン。
唐突に鳴ったスマートフォンの通知音に、畳の上に置きっぱなしだった液晶画面を覗き込む。
『げんちゃん! 今からそっち行くぜ!』
子供の頃のままのあだ名。相変わらずの遠慮の無さ。
小さな笑みをこぼして了解の返事をした絃一郎は、少し名残惜しく思いながらも筝を片付け始めた。
程なくして、コンコンッと力強く叩かれた扉を開ければ。
「よう、げんちゃん! 邪魔するぜ~!」
「塚路さん! こんばんは」
ひょっこりと現れる、元気良く跳ねた金髪。ニカッと上がった口角から見える白い歯。その目尻に笑い皺が寄るようになったのは、二十五を過ぎた頃からだっただろうか。
彼は、かつて絃一郎の祖母に筝を習っていた門下生――つまり兄弟子にあたる、塚路である。
実際、絃一郎のことを弟のように思ってくれているらしく、塚路は時折こうして顔を見にやってくる。あの日から――絃一郎が叔父一家の居候になってからも、祖母が亡くなってからも。
「悪ぃな、こんな遅くに来ちまって」
「いえ。蘭太叔父さんたちにはもう会いました?」
「おう、さっきな。紬ちゃんが『むぎもげんちゃんに会う~!』って駄々こねてたぜ」
「へぇ、紬さん、まだ起きてたんですか」
「起き……いーや? ありゃあ、ほとんど寝てたな。トロ~ンとした目でむにゃむにゃしてるもんだから、寝室まで茉莉さんに引っ張られて、こう、ズルズル~っと」
「あはは、眠気には勝てないかぁ」
可愛らしい従妹の姿が目に浮かんで、絃一郎の頬が緩む。
そんな言葉を交わしつつ、塚路は勝手知ったる足取りで絃一郎の部屋に上がった。ガニ股で肩を揺らしながら歩くたび、シルバーのピアスと腰に下がったウォレットチェーンがチャリチャリと音を立てる。そうして、筝に代わって部屋の中央に置かれた座卓の側までやってくると、壁へ背を預けるようにして無造作にあぐらをかいた。
定位置へ収まった塚路に、絃一郎もいつも通り、座卓を挟んで向かい合うように腰を降ろす。
「茉莉さんから聞いたぜ。げんちゃん、明日から合宿なんだって?」
「そうなんです。三泊四日で」
「おわ~っ、ガッツリじゃん。道理で紬ちゃんが会いたがるワケだ」
ふと、塚路の視線が絃一郎の背後へ向く。その先にあるのは、畳まれた布団の横、最終チェック待ちの膨らんだボストンバッグだろう。
「っつーか、こ~んな時間まで起きてて大丈夫かよぉ? 明日起きれるか?」
「大丈夫です。夜更かししてもしなくても、朝は起きられないので」
「だははっ! 大丈夫じゃねぇだろ、そりゃあ! 蘭ちゃんも、いっつも遅くまで電気がついてるって心配してたぜ?」
「あー、それは……伴奏練習の復習もしてると、どうしても遅くなっちゃって」
「真面目だねぇ。まっ、それがげんちゃんの良いトコなんだが、うん」
うなずきながら、塚路が足を組み直す。それから「あー」と唸りながら天井を見上げて。かと思えば、うつむきながら首を傾げて。やがて居心地悪そうに腕を組むと、難しい顔をして言う。
「……蘭太のやつに、それとなく聞いてみてくれって言われたんだが。んな器用なことオレには出来ねぇから、もうそのまんま聞くぞ」
「はい」
「げんちゃん、母屋で暮らすつもりはねぇか?」
「…………」
絃一郎は何も答えられなかった。ただうつむいて、ハイネックのインナーの喉元をギュッと握りしめる。
こうやって問われるのも、もう何度目になるだろう。……こうして、素直に言葉を口に出せないのも、もう。
やがて、かすかな衣擦れの音がして、普段の威勢の良さを失った声が言う。
「……やっぱ、まだ、怖ぇか」
たずねるでも、確かめるでもない、独り言のような口調。それでも絃一郎は、こくん、と小さく首を縦に振る。
すると、下を向いていた絃一郎の後頭部に、ポンッと温かな感触が乗った。
「そっか。じゃ、陰気臭ぇ話は終わり! 明日は寝坊すんなよ!」
「が、頑張ります!」
「朝飯食えよ!」
「……」
「食えよ⁈」
あまりの自信の無さに口を閉じれば、頭の上の大きな手のひらに容赦なく毛束をかき回された。流石、ここで「早く寝ろ」と言わない辺り、絃一郎の生態をよく分かっている。
「そんで、思いっきり楽しんで来い!」
「……はい。行ってきます!」
うなずき、絃一郎は顔を上げる。そこにあった、真夏の太陽のような塚路の笑みにつられ、絃一郎も自然と口角を上げていた。
