迎えた、ゴールデンウイーク明けのレッスン。
無事に永海の伴奏を務め上げた絃一郎は、講師の先生からお墨付きをもらい、九月の大会で歌う三曲の伴奏を任されることになった。
その翌日。
「どうしたの寺方くん」
「いえ……あの、えぇと……!」
譜面台の前に立ち、ピアノに背を向けていた永海が振り返る。
普段と変わらない、二人で使うには少し窮屈な個人練習室。お互いに個人練習を終え、さぁこれから伴奏合わせ練習だ、というまさにその瞬間。
だというのに、絃一郎は鍵盤の上に両手を浮かせたまま、そこに指を乗せられないでいた。あまりにも伴奏が始まらないものだから、永海は何事かと言わんばかりに楽譜から顔を上げたのだ。
「実は、その……ゴールデンウィークの前に、盗難事件があったじゃないですか。あれからずっと、気になっていたことがあって」
「それは、伴奏が弾けなくなるくらいのこと?」
「……はい」
「一大事だね。教えてくれる?」
言いながら、永海はもう一脚のピアノ椅子を持ってきて、絃一郎の右隣に座った。しっかり腰を据えて聞いてくれるつもりらしい。
絃一郎は、宙を彷徨っていた両手を喉元で握り、一度深呼吸をしてから口を開く。
「も、もしかして、なんですけど。……永海先輩の耳には、人には聞こえない音が聞こえてるんですか?」
「!」
その瞬間、永海のビクッと肩が跳ね、目が丸く見開かれた。
あぁ、やっぱり、と思いながら絃一郎は続ける。
「あの時、永海先輩、『物取り幽霊』の正体が美作先輩の人形だって断言したじゃないですか」
「そうだね」
「あれ、どうして分かったんだろうって、ずっと不思議に思っていて。思い返してみると、人形を押した時に鳴る音だとか、廊下に響いてたパート練習の声とかを、じっくり聞いていたような気がしたんです。だから……もしかしたら、先輩には音や歌声の他にも色んなものが聞こえてて、それで分かったんじゃないか、って考えてたんですけど……」
「……どうしてそう考えたの?」
「俺の耳には聞こえませんが、先輩の耳もそうだとは限らないので。……誰かさんの受け売りですけど」
すると永海は、ポカンと口を開けて。何度かまばたきをして。
やがて、力なく笑った。
「ふふ、そうだ。そうだったね」
それは、どこか観念したような声色だった。
「じゃ、じゃあやっぱり……」
「うん。僕の耳は、演奏してる人の考えてることが――心の内が、音色になって聞こえるんだ」
永海の手が、そっと自身の耳に触れた。
「僕だけじゃない。祖父も……我が家のカウンターテナーは、みんなこう。……寺方くん、鈴鳴神社って分かる?」
「は、はい。あの、山際にある神社ですよね」
唐突にたずねられ、絃一郎はうなずく。
鈴鳴神社といえば、祖母の家の近くにある神社だ。小学生の頃、夏休みを祖母の家で過ごしていた時に、そこで夏祭りが行われていた記憶がある。
「そう。そこには『鈴鳴様』っていう芸事の神様がまつられていてね。なんでも、女性のような高い声で歌っていた――つまり、今でいうところのカウンターテナーをやっていた先祖が、その神様の怒りを買って祟られたらしい」
「お、怒らせちゃったんですか? どうして? 永海先輩と同じような、高くて綺麗な歌声だったんですよね?」
「……みんながみんな、寺方くんみたいに感じる訳じゃないんだよ」
鈴鳴様が怒ったのは、まさにその、高くて綺麗な歌声に対してだったそうだ。不自然で気味が悪い。聞き苦しい女声の真似ごとだ。無理な歌声で聞くにたえない。……そう感じる人は現代にも変わらずいるのだと、永海は淡々と教えてくれた。
「僕は歌いたくて歌っているだけだから、どう思われようが気にならないけど。でも、今でもこうなんだから、先祖が怒りを買ったというのは理解出来る」
「……そうなんですか」
「だから鈴鳴様は、もう二度と歌えなくなるように、耳を呪った。……以来、代々我が家のカウンターテナーは、この『鈴鳴様の祟り』だなんて言われる耳になったそうだ」
「ということは、永海先輩が誰かと一緒に歌うことを嫌がってるのって、それが理由で?」
「そう」
目を伏せた永海は、耳に触れていた手を膝の上で組み、抑揚の無い声で言う。
「……駄目なんだよ、どうしても。誰の声を聞いても、誰の音を聞いても、その人の心の内が頭に直接響いてくる。僕がどれだけ自分の思いを歌に込めようとしても、頭には容赦なく伴奏者の思いが響いてくるんだ。思考も、感情も、全部。そうなると、もう、まともになんか歌えない」
それはどれほどの苦痛なのだろう。きっと、絃一郎には分からない。眉をひそめる永海の表情を見て、その胸の内で上がっているであろう悲鳴を想像することしか出来ない。
「そうやって、心の内の音色を聞いてる具合が悪くなってくるから、普段はなるべく聞かないように意識を逸らしてるんだけど。……この前の盗難事件の時は、逃げずにちゃんと聞いた。それで、『物取り幽霊』の正体が分かったんだよ」
「え……」
「寺方くんがあんなに伴奏を頑張ってくれてるんだから、僕も頑張らなくちゃと思ってね。盗られたものが無事に返ってきて、本当に良かった」
「……」
絃一郎は、グッと奥歯を噛んだ。
あの時の永海の行動が、絃一郎のものを取り返すためのものだとは分かっていた。だが、こんなにも身を挺してくれていたとは思わなかった。
「……すみませんでした。そんな、苦しい思いをさせてしまっていたなんて」
「気にしなくていい。寺方くんのせいじゃないって、もう何度も言ったでしょう」
「でも……俺の伴奏も、永海先輩を苦しめてませんか」
「いや? ……待って、寺方くん。まさか、それが気になって伴奏弾けなくなっちゃったの?」
「そ、そりゃあ、不安にもなるでしょ?! 先輩の耳には、俺には聞こえない音が聞こえてるだって思ったら……!」
「ふふ、そっか」
すると、どういう訳か、永海の顔がパッと明るくなった。満足そうに上がった口角。キラキラと輝く目。声楽オバケの顔をした永海が、こちらに身を乗り出してくる。
たまらず絃一郎は仰け反った。だが永海は、お構いなしに同じ分だけ距離を詰め、声を弾ませながら言う。
「寺方くんの音、聞こえないんだよね」
「…………え?」
眼前まで迫った永海が、小さく首を傾けながら瞳を閉じた。絃一郎の胸元に耳を寄せるような、まるで心音に耳を傾けるかのようなその仕草に、絃一郎は息が止まりそうになる。
「初めて君が弾く筝の音を聞いたとき、すごくびっくりしたんだ。心の音が何にも聞こえないから。何にもなくて、真っ新で、心地の良い音。だから、君となら歌えるって思ったんだ」
「……も、もしかして、それで伴奏を?」
「そう。伴奏をお願いしたのは、寺方くんの伴奏で歌いたかったから」
いつか聞いた言葉をもう一度口にして、心底嬉しそうに微笑む永海。
確かに永海は、絃一郎が理由をたずねた時『寺方くんの伴奏で歌いたいから』と答えていた。その真意は、絃一郎の伴奏からは何の音も聞こえないから、ということだったらしい。
まさか、そんな事情があったなんて。いや待て。そもそも、どうして絃一郎の音だけ聞こえないのか。
驚きのあまり絃一郎が動けないでいると、永海は小さく笑いをもらした。その手がすっと近付いてきて、指先で髪を梳くように優しく撫でられる。
「最初は無理言っちゃったかなと思ってたけど、いっぱい頑張ってくれるし、優しくていい子だし。頼んで良かった。ありがとね、寺方くん」
「ちょ……ちょっと、先輩……!」
「これからも、僕の伴奏でいてくれる?」
低くてかすれ気味の、ひどく柔らかな声。それだけで、頭の上に乗った手から逃げようとしていた絃一郎の体が動きを止める。
永海は、熱に浮かされたような目でこちらを見ていた。何かを求めている必死さはどこにも無くて、ただ返事を待っているだけの、穏やかな目だった。
「……はい。俺も、あなたに夢中で歌っていてほしい。もっと、あなたの歌が聞きたいです」
「うん。君がいてくれるなら、いくらでも」
そう言ってうなずくと、永海は立ち上がり、ピアノの譜面台をココンッと軽やかにノックした。すっかり見慣れた『Star vicino』の楽譜の横。九月の大会で歌う、もらったばかりの真新しい伴奏譜だ。
「じゃあ、コンクールに向けて頑張ろうね。もう二曲」
「は、はいぃ……!」
あぁ、あなたが苦しまずに愛を叫べるよう、そのために出来ることは何でもしようと、気持ちを奮い立たせたばかりなのに。
自分の口から出た想像以上に情けない返事を聞いて、絃一郎は思わず苦笑してしまった。
無事に永海の伴奏を務め上げた絃一郎は、講師の先生からお墨付きをもらい、九月の大会で歌う三曲の伴奏を任されることになった。
その翌日。
「どうしたの寺方くん」
「いえ……あの、えぇと……!」
譜面台の前に立ち、ピアノに背を向けていた永海が振り返る。
普段と変わらない、二人で使うには少し窮屈な個人練習室。お互いに個人練習を終え、さぁこれから伴奏合わせ練習だ、というまさにその瞬間。
だというのに、絃一郎は鍵盤の上に両手を浮かせたまま、そこに指を乗せられないでいた。あまりにも伴奏が始まらないものだから、永海は何事かと言わんばかりに楽譜から顔を上げたのだ。
「実は、その……ゴールデンウィークの前に、盗難事件があったじゃないですか。あれからずっと、気になっていたことがあって」
「それは、伴奏が弾けなくなるくらいのこと?」
「……はい」
「一大事だね。教えてくれる?」
言いながら、永海はもう一脚のピアノ椅子を持ってきて、絃一郎の右隣に座った。しっかり腰を据えて聞いてくれるつもりらしい。
絃一郎は、宙を彷徨っていた両手を喉元で握り、一度深呼吸をしてから口を開く。
「も、もしかして、なんですけど。……永海先輩の耳には、人には聞こえない音が聞こえてるんですか?」
「!」
その瞬間、永海のビクッと肩が跳ね、目が丸く見開かれた。
あぁ、やっぱり、と思いながら絃一郎は続ける。
「あの時、永海先輩、『物取り幽霊』の正体が美作先輩の人形だって断言したじゃないですか」
「そうだね」
「あれ、どうして分かったんだろうって、ずっと不思議に思っていて。思い返してみると、人形を押した時に鳴る音だとか、廊下に響いてたパート練習の声とかを、じっくり聞いていたような気がしたんです。だから……もしかしたら、先輩には音や歌声の他にも色んなものが聞こえてて、それで分かったんじゃないか、って考えてたんですけど……」
「……どうしてそう考えたの?」
「俺の耳には聞こえませんが、先輩の耳もそうだとは限らないので。……誰かさんの受け売りですけど」
すると永海は、ポカンと口を開けて。何度かまばたきをして。
やがて、力なく笑った。
「ふふ、そうだ。そうだったね」
それは、どこか観念したような声色だった。
「じゃ、じゃあやっぱり……」
「うん。僕の耳は、演奏してる人の考えてることが――心の内が、音色になって聞こえるんだ」
永海の手が、そっと自身の耳に触れた。
「僕だけじゃない。祖父も……我が家のカウンターテナーは、みんなこう。……寺方くん、鈴鳴神社って分かる?」
「は、はい。あの、山際にある神社ですよね」
唐突にたずねられ、絃一郎はうなずく。
鈴鳴神社といえば、祖母の家の近くにある神社だ。小学生の頃、夏休みを祖母の家で過ごしていた時に、そこで夏祭りが行われていた記憶がある。
「そう。そこには『鈴鳴様』っていう芸事の神様がまつられていてね。なんでも、女性のような高い声で歌っていた――つまり、今でいうところのカウンターテナーをやっていた先祖が、その神様の怒りを買って祟られたらしい」
「お、怒らせちゃったんですか? どうして? 永海先輩と同じような、高くて綺麗な歌声だったんですよね?」
「……みんながみんな、寺方くんみたいに感じる訳じゃないんだよ」
鈴鳴様が怒ったのは、まさにその、高くて綺麗な歌声に対してだったそうだ。不自然で気味が悪い。聞き苦しい女声の真似ごとだ。無理な歌声で聞くにたえない。……そう感じる人は現代にも変わらずいるのだと、永海は淡々と教えてくれた。
「僕は歌いたくて歌っているだけだから、どう思われようが気にならないけど。でも、今でもこうなんだから、先祖が怒りを買ったというのは理解出来る」
「……そうなんですか」
「だから鈴鳴様は、もう二度と歌えなくなるように、耳を呪った。……以来、代々我が家のカウンターテナーは、この『鈴鳴様の祟り』だなんて言われる耳になったそうだ」
「ということは、永海先輩が誰かと一緒に歌うことを嫌がってるのって、それが理由で?」
「そう」
目を伏せた永海は、耳に触れていた手を膝の上で組み、抑揚の無い声で言う。
「……駄目なんだよ、どうしても。誰の声を聞いても、誰の音を聞いても、その人の心の内が頭に直接響いてくる。僕がどれだけ自分の思いを歌に込めようとしても、頭には容赦なく伴奏者の思いが響いてくるんだ。思考も、感情も、全部。そうなると、もう、まともになんか歌えない」
それはどれほどの苦痛なのだろう。きっと、絃一郎には分からない。眉をひそめる永海の表情を見て、その胸の内で上がっているであろう悲鳴を想像することしか出来ない。
「そうやって、心の内の音色を聞いてる具合が悪くなってくるから、普段はなるべく聞かないように意識を逸らしてるんだけど。……この前の盗難事件の時は、逃げずにちゃんと聞いた。それで、『物取り幽霊』の正体が分かったんだよ」
「え……」
「寺方くんがあんなに伴奏を頑張ってくれてるんだから、僕も頑張らなくちゃと思ってね。盗られたものが無事に返ってきて、本当に良かった」
「……」
絃一郎は、グッと奥歯を噛んだ。
あの時の永海の行動が、絃一郎のものを取り返すためのものだとは分かっていた。だが、こんなにも身を挺してくれていたとは思わなかった。
「……すみませんでした。そんな、苦しい思いをさせてしまっていたなんて」
「気にしなくていい。寺方くんのせいじゃないって、もう何度も言ったでしょう」
「でも……俺の伴奏も、永海先輩を苦しめてませんか」
「いや? ……待って、寺方くん。まさか、それが気になって伴奏弾けなくなっちゃったの?」
「そ、そりゃあ、不安にもなるでしょ?! 先輩の耳には、俺には聞こえない音が聞こえてるだって思ったら……!」
「ふふ、そっか」
すると、どういう訳か、永海の顔がパッと明るくなった。満足そうに上がった口角。キラキラと輝く目。声楽オバケの顔をした永海が、こちらに身を乗り出してくる。
たまらず絃一郎は仰け反った。だが永海は、お構いなしに同じ分だけ距離を詰め、声を弾ませながら言う。
「寺方くんの音、聞こえないんだよね」
「…………え?」
眼前まで迫った永海が、小さく首を傾けながら瞳を閉じた。絃一郎の胸元に耳を寄せるような、まるで心音に耳を傾けるかのようなその仕草に、絃一郎は息が止まりそうになる。
「初めて君が弾く筝の音を聞いたとき、すごくびっくりしたんだ。心の音が何にも聞こえないから。何にもなくて、真っ新で、心地の良い音。だから、君となら歌えるって思ったんだ」
「……も、もしかして、それで伴奏を?」
「そう。伴奏をお願いしたのは、寺方くんの伴奏で歌いたかったから」
いつか聞いた言葉をもう一度口にして、心底嬉しそうに微笑む永海。
確かに永海は、絃一郎が理由をたずねた時『寺方くんの伴奏で歌いたいから』と答えていた。その真意は、絃一郎の伴奏からは何の音も聞こえないから、ということだったらしい。
まさか、そんな事情があったなんて。いや待て。そもそも、どうして絃一郎の音だけ聞こえないのか。
驚きのあまり絃一郎が動けないでいると、永海は小さく笑いをもらした。その手がすっと近付いてきて、指先で髪を梳くように優しく撫でられる。
「最初は無理言っちゃったかなと思ってたけど、いっぱい頑張ってくれるし、優しくていい子だし。頼んで良かった。ありがとね、寺方くん」
「ちょ……ちょっと、先輩……!」
「これからも、僕の伴奏でいてくれる?」
低くてかすれ気味の、ひどく柔らかな声。それだけで、頭の上に乗った手から逃げようとしていた絃一郎の体が動きを止める。
永海は、熱に浮かされたような目でこちらを見ていた。何かを求めている必死さはどこにも無くて、ただ返事を待っているだけの、穏やかな目だった。
「……はい。俺も、あなたに夢中で歌っていてほしい。もっと、あなたの歌が聞きたいです」
「うん。君がいてくれるなら、いくらでも」
そう言ってうなずくと、永海は立ち上がり、ピアノの譜面台をココンッと軽やかにノックした。すっかり見慣れた『Star vicino』の楽譜の横。九月の大会で歌う、もらったばかりの真新しい伴奏譜だ。
「じゃあ、コンクールに向けて頑張ろうね。もう二曲」
「は、はいぃ……!」
あぁ、あなたが苦しまずに愛を叫べるよう、そのために出来ることは何でもしようと、気持ちを奮い立たせたばかりなのに。
自分の口から出た想像以上に情けない返事を聞いて、絃一郎は思わず苦笑してしまった。
