カウンターテナーと十七絃 ~耳に残った呪いの音色を奏でるまで~

「……」
 うつむいた後頭部の上で結ばれた、小さなお団子頭。美作だ。
 永海が冷たい声で名前を呼んでも、返事は無かった。ただ、表情も見えないほどがっくりと顔を床に向けて、どこか脱力したような様子でそこに立ち尽くしている。
 息も止まりそうな静けさの中、鼓膜をかすかにくすぐる小さな声が聞こえた。
 ……ない。
 美作が何かをつぶやいているのだ。
 ……だ、……ない……ないで。
 次第に大きくなっていく声。こちらを押し潰そうとする、目に見えない圧力が迫ってくるかのように。
 その口元が見えやしないかと視線をわずかに下げた時、気が付いた。彼女の手に握られた、蛍光ピンクのモコモコとした毛玉。
「……いやだ! かえさない! とらないで!」
 ――プピッ!
 直後、永海が舌打ちをした。
「寺方くん、そこに楽譜はあるね?」
「! あ、あります、けど……」
「よし。じゃあ、弾いて。この前のお座敷棟の時みたいに、僕の声で何とかなるかもしれない」
「で、でも……! 歌と合わせたことはまだ一度も……! そもそも、さっき弾けなかったんですよ……⁈」
「大丈夫。もう取り戻してるはずだ」
 ハイネックのインナーごと襟元を握り込んだまま、動けない絃一郎。その前に出て、美作へと一歩近付く永海。
 こちらを振り返りもせず、永海は言う。
「今の君なら弾ける。君は僕の伴奏者だって、認めさせてやろうよ」
「……分かりました」
 その確信めいた声に、気付けば絃一郎はピアノの前に座っていた。
 譜面台にアドバイスが書き込まれた楽譜を並べる。音叉を鳴らす。鍵盤の上へ、襟から離したばかりの強張った手を置く。
 それから、小さく息を吸って。

 ♪~……

 八小節の短い前奏。そして、絃一郎が弾くピアノの音に、永海の声が重なる。

 ♪Star vicino al bell'idol che s'ama――

 ペダルを踏む爪先から、鍵盤に触れる指先まで、全身にブワリと鳥肌が立った。
 指先には確かに鍵盤を押している感触があるのに、耳には高く澄んだ声しか届かない不思議な感覚。これまで弾き続けてきたピアノの音色が、美しい歌声に飲まれて全く別の曲に生まれ変わってしまったような、恐ろしくも心地よい感動。
 あぁ、こんなにも華やかで、じんわりした切なさが胸に残る曲だったなんて。
 
 ♪……――il più vago diletto d'amor!

 深く息を吸い、手を宙に彷徨わせながら、感情のあふれるままに歌う永海。その一挙手一投足に合わせるように、あるいはしがみつくように、絃一郎も必死に鍵盤を鳴らす。
 あなたの側にいることは――ひたすらに愛を叫び、堂々と輝くあなたの伴奏者でいられることは、何にも代えがたい喜び。そんな思いを込めて。
 やがて歌が終わり、伴奏の最後の和音を両手でそっと響かせる。
 そうして口を閉じた永海は、余韻に耳を傾けるようにしばらく動きを止めて。
「……!」
 ようやくこちらを振り返った、その晴れやかな顔ときたら!
 絃一郎は、たちまち全身から力が抜けていくのが分かった。ずっと胸の内にあった結び目がほどけたような、温かな達成感がドッと押し寄せてくる。心臓の音がうるさい。顔が熱い。口角が半端に上がったきり動かない。きっと今、ものすごく情けない顔になっている。
「りっくん歌上手ぁ~~! てらちゃんもめっちゃ上手になってるしぃ~~!」
「……正気になったみたいだね」
 涙を流さんばかりの声高な叫びに、絃一郎は意識を引き戻された。
 がっくりとその場に膝をついた美作は、「っていうか、ここどこ? あたし、さっきまでパート練習してたよね?」と真っ赤な顔で辺りを見渡している。その傍らに、永海は歩み寄っていく――が、混乱する美作に声をかけることもせず、そこに転がっていたものをそっと拾い上げた。
 派手な蛍光ピンクの塊。美作の人形だ。いつの間にか、彼女の手から転がり落ちていたらしい。
「はぁ……やっと捕まえた」
「え、うわ、何? りっくん、激おこじゃん?」
「……そりゃあね。散々寺方くんのものを盗んだ犯人なんだ。怒りもする」
 真顔のまま吐き捨てるように言った永海に、美作と絃一郎は揃って目を丸くする。
「えっ? 犯人?」
「ど、どういうことっ?! ピピくんがぁ⁈ うっそぉ?!」
「本当。これが『物取り幽霊』の正体」
 永海は人形の黒い細紐の足先を指でつまむと、逆さにぶら下げて掲げてみせた。いいのだろうか、その持ち方で。
「でも、プピプピ鳴るだけの、ただの人形だよ? おまじないがかけられてるよ~って売られてるくらいで、呪われてるとか幽霊が憑いてるとか、そんなコワ~イ人形じゃ……」
「まさにそれだよ。願いを叶えるためにやったんだ。そのためなら、手段を選ばないらしい」
「えぇ~っ? ……あー、そういうこと?」
 視線をどこか遠くに向け、首をひねる美作。
「もしかして、何か心当たりがある?」
「うん。前にも話したかな? それ、願いを叶えてくれるおまじないがかけられてるんだって」
「おまじない人形のピピくん、でしたっけ」
「そ! 本当に叶うよ~ってSNSでプチバズりしてるからあたしもポチったんだけど、『ひとりでに動く』とか『瞳が動いて目が合った』とか怖いこと言ってる人達もいて……こういうことだったのかなぁ? って思ってさぁ……」
「そ、そういえば、この人形、たまに無くなるって仰ってましたよね……?」
「……うわ、そうじゃん。この子もひとりでに動いてたってこと?」
「そういうことだね。この人形には『物を盗られた人が上手く演奏出来なくなればいい』っていう意思がある。方法は分からないけど、それで盗難を起こしていたんだ」
 言いながら、永海は吊り下げた人形をぶらぶらと揺らした。たちまち、美作の顔が今にも叫び出しそうなほど苦しげに歪み、だが何も言うことなく口をグッと引き結んで、うつむいて。
「あたし、そんなことお願いしてないのになぁ……」
 ほつりとつぶやかれたのは、今にも消え入りそうな、ほんのかすかな声。
「……でも、そっか。ごめんね、てらちゃん。りっくんも」
 それからすぐに、美作は顔を上げ、胸の前で両手を合わせた。口元にはもう、しょぼくれた力ない微笑みがあるだけだった。
「そ、そんな。美作先輩は、何も」
「そーだけど! そーじゃないの! 気持ちの問題!」
 首を横に振る絃一郎より、さらに大きく首を横に振る美作。その両手が、ギュッと握りこぶしを作る。
「あたしね、今度のパートオーディション、絶対に受かりたいの」
「あぁ、ソプラノとアルトのソリパートがあるんだっけ」
「そり? って何ですか?」
「少人数で歌う見せ場のことだよ。ソプラノのメンバーのうち、一人はもう小清水だって決まってるから、もし受かれば小清水と」
「ちょ、ちょっ、りっくん! ストップ! な、何でそこまで知ってるのぉ?!」
「……そういうの、音に出るでしょ?」
「りっくんだけだって! そんなの分かるの!」
 顔を赤くした美作が、永海の肩を両手で掴んでガクガクと揺すった。されるがまま、永海の頭もガクガクと揺れる。相変わらず手加減が無さそうな勢いだが、大丈夫なのだろうか……。
 美作は永海に何かを耳打ちすると、その肩をパンッと一発叩いてから絃一郎の方へ向き直った。
「も~っ、ホントにりっくんは……。それでね? あたし、アルトは声の伴奏だって思ってるんだ」
「こ、声の?」
「そう。ソプラノがキラッキラに輝けるように、どっしり支えるのが役目。みじゅーの歌を一っ番輝かせられるのはあたしだ、ってステージの上でドヤ顔するのが、あたしの夢なの」
「……美作先輩は、小清水先輩と一緒に歌いたいんですね」
「そぉ~なの! みじゅーの歌、大好きだから! ……だからね、りっくんの伴奏をてらちゃんに取られた時、すっごく悔しかったんだぁ。あたしは伴奏に向いてないって言われてるみたいで」
「え……」
「まさか。向いてなかったら、何回も伴奏頼んだりなんかしない」
「うん。それは分かってるつもり。あたしが、あたし自身のことをそう思ってるから、勝手にそう考えちゃうんだって。そう思っちゃうから……みじゅーの隣に胸張って立てるあたしになれますようにって、お願いしてただけなのになぁ……」
 どこか切なげに、尻すぼみになっていく美作の声。
 すると永海が、その胸の押し付けられたこぶしを見つめて言う。
「貴音のピアノは、鍵盤押してから離すまで、全部の音が綺麗に整えられてる。それも、常に一定じゃなくて、僕のコンディションに合わせて変えてくれてるでしょ。そういう細かいところまで考えて弾いているのは、()()()()知ってるから。だから、それが出来る貴音は伴奏に――支える役目に向いてると思う」
「きゅ、きゅうにほめるじゃん……?」
「事実だけど」
「お、俺も! 先輩のすごさ、俺にはまだ理解出来てないかもしれませんけど……! でも、新入生歓迎会で美作先輩がされてた、最高の引き立て役になれる伴奏を目指して、毎日練習してます!」
「え? なに、追い打ち? 怖い怖い」
 真っ直ぐな永海の声につられるように、自然と絃一郎の口からも素直な言葉が出てくる。が、真っ赤な頬を膨らませた美作から返ってきたのは、ジッと睨むような視線と「変なとこ、りっくんに似てきてない?」という言葉だった。そんなことはない。多分。
 すると突然、永海が何かを思い出したようにハッとこちらを振り返った。
 ……この、熱に浮かされた目は。
「寺方くん」
「な、なんでしょう」
「その練習の成果、もう一回弾いてもらってもいい?」
「いーね! てらちゃん、あたしにも聞かせて~!」
「……いや、盗難されたものを見つけましたって、報告するのが先じゃないですか⁈」
 ピアノの周りに集まってきた永海と美作に、絃一郎は慌てて鍵盤の蓋を閉じた。これ以上声楽オバケが増えたら手に負えない。
 だが、遅れてじわじわとこみ上げてきた喜びに、口角が上がってしまうのは隠しようもなかった。
 ……あぁ、良かった。きっと、自分はちゃんと伴奏者になれたのだ。