その日の授業が終わり、放課後の始まりを告げるチャイムが鳴る。
だが気付いた時には、どこからかもれ聞こえてくる歌声と伴奏の音だけが響いていた。そうだ。とっくに部活は始まっていて、外でのウォーミングアップを終えて音楽棟に戻ってきていたのだった。
絃一郎は、あれから一日中ずっと上の空だった。
もう伴奏の練習を始めなければならない時間だとは分かっている。個人練習室の鍵だって借りてきているし、予備の楽譜だってちゃんと用意してある。
それでも、寄り道せずにはいられなかったのだ。もしかしたら、音楽室かどこかの隅に落ちているんじゃないか。もしかしたら、職員室の落とし物ボックスに入っているんじゃないか。もしかしたら――。
そこでふと、足が止まった。
「……」
個人練習室の扉が並ぶ廊下。突き当りで光る非常口マーク。両開きのガラス扉から差し込む茜色を反射させ、もう一つ夕日があるかのように輝いている床。その光の中にポツンと立っている見覚えのある小柄なシルエット。
永海だ。
だが、絃一郎は話しかけるのを躊躇ってしまった。
少しだけ顎を上げ、ただ静かに目を閉じている姿は、神経を研ぎ澄ませているようにも、音楽棟で鳴り響く音に耳を傾けているようにも見える。話しかけたら最後、その集中の糸をプツリと切ってしまいそうだった。
そうして立ち尽くしていると、やがて閉じていたまぶたがゆっくりと開き、ぼんやりとした視線がこちらを向く。
「……あぁ、来たね」
永海は驚いた様子も無く、淡々と言った。それから一度、首を振って前髪を払い、絃一郎の方へと歩いてくる。
まるで、夢から覚めたかのようだった。
「永海先輩、今、何を……?」
「ちょっとね。それより寺方くん、やっぱり伴奏練習はするつもりなんだ?」
質問には知らん顔をして、絃一郎が胸に抱えたファイルを覗き込む永海。
「えぇと、はい、勿論です」
「普段通り出来る?」
「それは……普段よりは、身が入らないかもしれませんけど。でも、もうすぐゴールデンウィークに入りますし、少しでも弾けるようにしておきたくて」
絃一郎はそう言ってから、ほとんど自分に言い聞かせているな、と思う。
『君が伴奏になってくれて――側にいてくれて、すごく嬉しいなぁって』
その思いに応えたい一心だった。
結局のところ、絃一郎も考えていることはそう変わらないのだ。伴奏者なって永海の歌を一番近くで聞けたなら――側にいて、彼の助けとなって、ともにひたすら愛を叫べたなら。それが出来たら、どんなに嬉しいだろう。どんなに素晴らしいだろう。伴奏をやると決めた日から、ずっとそう夢に見ている。
だから、練習をしない訳にはいかないのだ。たとえ、どんな状況でも。
それを聞いた永海は、目を伏せたまま、静かな声で言う。
「……そう。君は頑張り屋さんだね」
直後、こちらに背を向けて「借りた部屋は?」と続けられてしまえば、手元の鍵を確かめざるを得ない。絃一郎は、そこに書かれていた部屋番号を答えつつも、今一瞬見えた感情が抜け落ちた顔は何だったのだろう、と思った。
そうして個人練習室に入った二人は、永海の個人練習の後、並んでピアノの前に座った。
予備の楽譜を譜面台に置く。それから、いつも鳴らしていた音叉の音を思い出しながら深く息を吐き、そっと鍵盤の上に両手を置いて。
「……?」
指が動かなかった。
あれ? どの鍵盤から弾いていたんだっけ?
何度も練習した。確かに弾けるようになった。永海が隣で聞いている恐怖にもすっかり慣れて――やっぱり音叉が無いと気持ちは落ち着かないけれど――それでも、頭も真っ白にならずちゃんと働いてくれている。
信じられない思いで顔を上げた拍子に、ピアノの譜面台に立てかけられた伴奏譜が目に入った。たちまち、強烈な違和感に襲われる。沢山の音符とアルファベットが並んだ五線譜。一番上の『Star vicino』の文字。見たことのない楽譜だ。
……見たことのない? これまで必死に練習を重ね、永海のおかげもあってやっと弾けるようになった、この楽譜が?
そこまで自覚して、やっと気が付く。
「永海先輩……! ど、どうしよう、俺……!」
「どうしたの?」
「記憶が無いです! 伴奏練習した記憶、全部! な、なんにも、覚えてない……思い出せないっ……!」
「……何だって?」
永海が目を丸くした、その直後。
――プピッ。
どこかから聞こえた、押すと鳴るおもちゃの音。
途端、ガタンッ、とピアノ椅子を蹴ったかのような衝撃音がした。
永海が勢い良く立ち上がったのだ。そう気が付いて振り返った時にはもう、背後の扉には飛び出していった上履きの先しか残っていなくて。
「な、永海先輩?!」
絃一郎も慌てて立ち上がり、その後を追いかける。
廊下には誰もいなかった。
あるのは、音楽室や練習室から聞こえてくる歌声と楽器の音ばかり。たった今出て行ったばかりだというのに。この短時間で行ける場所なんて――いや、ある。廊下の中程、二階へ上がる階段だ。
廊下を走り抜け、階段を一段飛ばしで駆け上がる。
左右へ伸びる二階の廊下を見渡せば、予想通り、そこから右側へ進んだ壁際に追いかけていた背中があった。
「ど、どうしたんですか、急に……――っ先輩!」
丸まった背中が壁に縋りながらヨロヨロとうずくまるのを見て、絃一郎は悲鳴じみた声を上げた。
そのまま横に倒れ、崩れ落ちそうになったところで、駆け寄った絃一郎が抱きとめる。触れた体温にゾッとした。冷たすぎる。苦しげに歪んだ顔も蒼白で、全身から温かな血が無くなってしまったかのようだった。
「だ、大丈……っ?」
そこで、絃一郎は言い終えることなく黙り込む。
弾かれたように顔を上げ、こちらを見る永海。その瞳が伏せられ、小さく開いた口元へ右手の人差し指が立てられる。
――静かに。
言葉は無くとも、そう言われているのだとすぐに分かって、反射的に口を閉じたのだ。
「……」
「……?」
何も言えないまま、数秒。
沈黙の間、廊下には近くの部屋から聞こえてくる歌声だけが響いていた。旋律を支えるような落ち着いた女声。パート練習に励む声楽部員たちの声だ。
やがて、力なく永海が立ち上がる。
「永海先輩」
「寺方くん……」
呼びかけると、弱々しい声で名前を呼ばれる。眉間に寄ったシワが少しだけ和らいだようにも見えたが、そんな声で呼ばれてしまえばますます不安になるばかりで。
「先輩、どこか具合が……? も、もしかして、急に飛び出していったのも吐き気とか……?! 体調が悪いようでしたら、早く保健室にっ……!」
狼狽える絃一郎の右腕を、永海が握った。それが信じられないほど弱く、頭を撫でてくれた時よりもずっと冷たくて、何も言えなくなってしまう。
永海は、小さく首を横へ振った。
「後でいい。それより……今から返してもらいに行くよ」
「え? か、返してもらうって、何を?」
「君が盗まれたものを」
「は……――」
「……流石に、記憶まで盗まれるとは思わなかった。このまま放っておいたら、次、何を盗られるか。いい加減、返してもらおう」
そう言うと、永海は絃一郎の腕を引いて歩き出した。ふらつきながらも迷いのない足取りに、絃一郎は戸惑ったまま後ろを付いていく。
「じゃあ、俺が弾けなくなったのって、まさか」
「うん。犯人は『物取り幽霊』だったみたいだね。記憶を盗むなんて、人間には絶対出来ない盗難だ」
「そんな……。ほ、本当に幽霊だとしても、盗難されたものは見つかってないっていう話でしたよね? どうやって返してもらうんですか?」
「大丈夫、聞いたから。目星はついてる」
来た道を引き返し、階段の吹き抜けを横目に通り過ぎて、さらに廊下の奥へ。
立ち止まったのは、ガラス窓の向こうに薄暗さだけが広がっている扉の前。「第五レッスン室」という看板の下だった。
「……ここだね」
小さくつぶやいて、永海がドアレバーに手をかける。が、下がらなかった。力の入らない手には、防音室の扉は重いのだろう。絃一郎が上から手を重ねるようにして力を込めればレバーは下がり、ガチャッと音を立ててドアが開く。
瞬間、絃一郎は手を離して逃げ出したくなった。
足元を通り抜ける冷たい空気の流れ。鼻をかすめるほこりくささ。日も落ち、蛍光灯もついていない薄暗さの中に潜む、何かの気配。
「先輩、ここは……?」
「講師の先生たちのレッスンを受ける時に使う部屋だよ。まぁ、最近はほとんど使ってないけど」
中に入った永海が壁のスイッチを押せば、暗くてよく見えなかった部屋の様子が露わになる。
並べられた長机と椅子。楽譜らしき本や楽器の入っていそうな箱が詰まった棚。音楽室をそのまま小さくしたような部屋だ。
その片隅に、一台のグランドピアノがあった。
胴体部分の曲線的な大きい蓋も、鍵盤の蓋も閉じられ、全体を覆い隠すように灰色の布のカバーが掛けられている。その上に置かれているのは、教科書らしい何冊かの本やメトロノーム。永海が言った通り、演奏のために使われているようにはとても見えなかった。
嫌な気配がするのは――。
「この中のどこかにあるはず。……なんだけど、思ったより物が多いな。どこから探そうか……」
「――……多分、ピアノだと思います」
部屋へ一歩入ったところから動けないまま、灰色のカバーから視線を外せないまま、絃一郎は言った。
すると、永海は何かを思いついたのか、ハッとした表情でピアノへ近付いていく。
「寺方くん。このピアノの屋根、開けてみようか」
「ま、まさか」
「うん。きっとあるよ、ここに」
息をのむ絃一郎に、永海が大きな蓋をノックするように叩いてみせた。その力強いうなずきに、絃一郎も意を決してピアノに歩み寄る。
二人はピアノの上に置かれていたものを手近な机に移して、掛けられたカバーを外した。そうして、鍵盤側の部分を折り返し、重たくて艶やかな黒い蓋をそっと持ち上げてみれば。
「あ……――あった!」
独特のカーブを描いた形の中に収まった、大きな金色のフレーム。細かな銀色の部品。いくつも並んだ弦とハンマー。
その隙間にあるわずかな空間、カーブした部分のフレームと弦の上に、様々な小物類が――見覚えある楽譜と音叉が置かれていた。
中にある棒を立てて蓋が閉じないようにして、ずっと探していたそれをギュッと両手で握りしめる。
「ありましたよ! 永海先輩!」
「あぁ、良かっ――」
安堵の声を吐き出したその時、視界の端で永海が動いた。追いかけるように、絃一郎も顔を上げる。
こちらに向けられた背中。一歩前に出て、絃一郎を庇うように伸ばされた腕。
その視線の先――レッスン室の扉の前にいたのは。
「何しに来たの、貴音」
だが気付いた時には、どこからかもれ聞こえてくる歌声と伴奏の音だけが響いていた。そうだ。とっくに部活は始まっていて、外でのウォーミングアップを終えて音楽棟に戻ってきていたのだった。
絃一郎は、あれから一日中ずっと上の空だった。
もう伴奏の練習を始めなければならない時間だとは分かっている。個人練習室の鍵だって借りてきているし、予備の楽譜だってちゃんと用意してある。
それでも、寄り道せずにはいられなかったのだ。もしかしたら、音楽室かどこかの隅に落ちているんじゃないか。もしかしたら、職員室の落とし物ボックスに入っているんじゃないか。もしかしたら――。
そこでふと、足が止まった。
「……」
個人練習室の扉が並ぶ廊下。突き当りで光る非常口マーク。両開きのガラス扉から差し込む茜色を反射させ、もう一つ夕日があるかのように輝いている床。その光の中にポツンと立っている見覚えのある小柄なシルエット。
永海だ。
だが、絃一郎は話しかけるのを躊躇ってしまった。
少しだけ顎を上げ、ただ静かに目を閉じている姿は、神経を研ぎ澄ませているようにも、音楽棟で鳴り響く音に耳を傾けているようにも見える。話しかけたら最後、その集中の糸をプツリと切ってしまいそうだった。
そうして立ち尽くしていると、やがて閉じていたまぶたがゆっくりと開き、ぼんやりとした視線がこちらを向く。
「……あぁ、来たね」
永海は驚いた様子も無く、淡々と言った。それから一度、首を振って前髪を払い、絃一郎の方へと歩いてくる。
まるで、夢から覚めたかのようだった。
「永海先輩、今、何を……?」
「ちょっとね。それより寺方くん、やっぱり伴奏練習はするつもりなんだ?」
質問には知らん顔をして、絃一郎が胸に抱えたファイルを覗き込む永海。
「えぇと、はい、勿論です」
「普段通り出来る?」
「それは……普段よりは、身が入らないかもしれませんけど。でも、もうすぐゴールデンウィークに入りますし、少しでも弾けるようにしておきたくて」
絃一郎はそう言ってから、ほとんど自分に言い聞かせているな、と思う。
『君が伴奏になってくれて――側にいてくれて、すごく嬉しいなぁって』
その思いに応えたい一心だった。
結局のところ、絃一郎も考えていることはそう変わらないのだ。伴奏者なって永海の歌を一番近くで聞けたなら――側にいて、彼の助けとなって、ともにひたすら愛を叫べたなら。それが出来たら、どんなに嬉しいだろう。どんなに素晴らしいだろう。伴奏をやると決めた日から、ずっとそう夢に見ている。
だから、練習をしない訳にはいかないのだ。たとえ、どんな状況でも。
それを聞いた永海は、目を伏せたまま、静かな声で言う。
「……そう。君は頑張り屋さんだね」
直後、こちらに背を向けて「借りた部屋は?」と続けられてしまえば、手元の鍵を確かめざるを得ない。絃一郎は、そこに書かれていた部屋番号を答えつつも、今一瞬見えた感情が抜け落ちた顔は何だったのだろう、と思った。
そうして個人練習室に入った二人は、永海の個人練習の後、並んでピアノの前に座った。
予備の楽譜を譜面台に置く。それから、いつも鳴らしていた音叉の音を思い出しながら深く息を吐き、そっと鍵盤の上に両手を置いて。
「……?」
指が動かなかった。
あれ? どの鍵盤から弾いていたんだっけ?
何度も練習した。確かに弾けるようになった。永海が隣で聞いている恐怖にもすっかり慣れて――やっぱり音叉が無いと気持ちは落ち着かないけれど――それでも、頭も真っ白にならずちゃんと働いてくれている。
信じられない思いで顔を上げた拍子に、ピアノの譜面台に立てかけられた伴奏譜が目に入った。たちまち、強烈な違和感に襲われる。沢山の音符とアルファベットが並んだ五線譜。一番上の『Star vicino』の文字。見たことのない楽譜だ。
……見たことのない? これまで必死に練習を重ね、永海のおかげもあってやっと弾けるようになった、この楽譜が?
そこまで自覚して、やっと気が付く。
「永海先輩……! ど、どうしよう、俺……!」
「どうしたの?」
「記憶が無いです! 伴奏練習した記憶、全部! な、なんにも、覚えてない……思い出せないっ……!」
「……何だって?」
永海が目を丸くした、その直後。
――プピッ。
どこかから聞こえた、押すと鳴るおもちゃの音。
途端、ガタンッ、とピアノ椅子を蹴ったかのような衝撃音がした。
永海が勢い良く立ち上がったのだ。そう気が付いて振り返った時にはもう、背後の扉には飛び出していった上履きの先しか残っていなくて。
「な、永海先輩?!」
絃一郎も慌てて立ち上がり、その後を追いかける。
廊下には誰もいなかった。
あるのは、音楽室や練習室から聞こえてくる歌声と楽器の音ばかり。たった今出て行ったばかりだというのに。この短時間で行ける場所なんて――いや、ある。廊下の中程、二階へ上がる階段だ。
廊下を走り抜け、階段を一段飛ばしで駆け上がる。
左右へ伸びる二階の廊下を見渡せば、予想通り、そこから右側へ進んだ壁際に追いかけていた背中があった。
「ど、どうしたんですか、急に……――っ先輩!」
丸まった背中が壁に縋りながらヨロヨロとうずくまるのを見て、絃一郎は悲鳴じみた声を上げた。
そのまま横に倒れ、崩れ落ちそうになったところで、駆け寄った絃一郎が抱きとめる。触れた体温にゾッとした。冷たすぎる。苦しげに歪んだ顔も蒼白で、全身から温かな血が無くなってしまったかのようだった。
「だ、大丈……っ?」
そこで、絃一郎は言い終えることなく黙り込む。
弾かれたように顔を上げ、こちらを見る永海。その瞳が伏せられ、小さく開いた口元へ右手の人差し指が立てられる。
――静かに。
言葉は無くとも、そう言われているのだとすぐに分かって、反射的に口を閉じたのだ。
「……」
「……?」
何も言えないまま、数秒。
沈黙の間、廊下には近くの部屋から聞こえてくる歌声だけが響いていた。旋律を支えるような落ち着いた女声。パート練習に励む声楽部員たちの声だ。
やがて、力なく永海が立ち上がる。
「永海先輩」
「寺方くん……」
呼びかけると、弱々しい声で名前を呼ばれる。眉間に寄ったシワが少しだけ和らいだようにも見えたが、そんな声で呼ばれてしまえばますます不安になるばかりで。
「先輩、どこか具合が……? も、もしかして、急に飛び出していったのも吐き気とか……?! 体調が悪いようでしたら、早く保健室にっ……!」
狼狽える絃一郎の右腕を、永海が握った。それが信じられないほど弱く、頭を撫でてくれた時よりもずっと冷たくて、何も言えなくなってしまう。
永海は、小さく首を横へ振った。
「後でいい。それより……今から返してもらいに行くよ」
「え? か、返してもらうって、何を?」
「君が盗まれたものを」
「は……――」
「……流石に、記憶まで盗まれるとは思わなかった。このまま放っておいたら、次、何を盗られるか。いい加減、返してもらおう」
そう言うと、永海は絃一郎の腕を引いて歩き出した。ふらつきながらも迷いのない足取りに、絃一郎は戸惑ったまま後ろを付いていく。
「じゃあ、俺が弾けなくなったのって、まさか」
「うん。犯人は『物取り幽霊』だったみたいだね。記憶を盗むなんて、人間には絶対出来ない盗難だ」
「そんな……。ほ、本当に幽霊だとしても、盗難されたものは見つかってないっていう話でしたよね? どうやって返してもらうんですか?」
「大丈夫、聞いたから。目星はついてる」
来た道を引き返し、階段の吹き抜けを横目に通り過ぎて、さらに廊下の奥へ。
立ち止まったのは、ガラス窓の向こうに薄暗さだけが広がっている扉の前。「第五レッスン室」という看板の下だった。
「……ここだね」
小さくつぶやいて、永海がドアレバーに手をかける。が、下がらなかった。力の入らない手には、防音室の扉は重いのだろう。絃一郎が上から手を重ねるようにして力を込めればレバーは下がり、ガチャッと音を立ててドアが開く。
瞬間、絃一郎は手を離して逃げ出したくなった。
足元を通り抜ける冷たい空気の流れ。鼻をかすめるほこりくささ。日も落ち、蛍光灯もついていない薄暗さの中に潜む、何かの気配。
「先輩、ここは……?」
「講師の先生たちのレッスンを受ける時に使う部屋だよ。まぁ、最近はほとんど使ってないけど」
中に入った永海が壁のスイッチを押せば、暗くてよく見えなかった部屋の様子が露わになる。
並べられた長机と椅子。楽譜らしき本や楽器の入っていそうな箱が詰まった棚。音楽室をそのまま小さくしたような部屋だ。
その片隅に、一台のグランドピアノがあった。
胴体部分の曲線的な大きい蓋も、鍵盤の蓋も閉じられ、全体を覆い隠すように灰色の布のカバーが掛けられている。その上に置かれているのは、教科書らしい何冊かの本やメトロノーム。永海が言った通り、演奏のために使われているようにはとても見えなかった。
嫌な気配がするのは――。
「この中のどこかにあるはず。……なんだけど、思ったより物が多いな。どこから探そうか……」
「――……多分、ピアノだと思います」
部屋へ一歩入ったところから動けないまま、灰色のカバーから視線を外せないまま、絃一郎は言った。
すると、永海は何かを思いついたのか、ハッとした表情でピアノへ近付いていく。
「寺方くん。このピアノの屋根、開けてみようか」
「ま、まさか」
「うん。きっとあるよ、ここに」
息をのむ絃一郎に、永海が大きな蓋をノックするように叩いてみせた。その力強いうなずきに、絃一郎も意を決してピアノに歩み寄る。
二人はピアノの上に置かれていたものを手近な机に移して、掛けられたカバーを外した。そうして、鍵盤側の部分を折り返し、重たくて艶やかな黒い蓋をそっと持ち上げてみれば。
「あ……――あった!」
独特のカーブを描いた形の中に収まった、大きな金色のフレーム。細かな銀色の部品。いくつも並んだ弦とハンマー。
その隙間にあるわずかな空間、カーブした部分のフレームと弦の上に、様々な小物類が――見覚えある楽譜と音叉が置かれていた。
中にある棒を立てて蓋が閉じないようにして、ずっと探していたそれをギュッと両手で握りしめる。
「ありましたよ! 永海先輩!」
「あぁ、良かっ――」
安堵の声を吐き出したその時、視界の端で永海が動いた。追いかけるように、絃一郎も顔を上げる。
こちらに向けられた背中。一歩前に出て、絃一郎を庇うように伸ばされた腕。
その視線の先――レッスン室の扉の前にいたのは。
「何しに来たの、貴音」
