カウンターテナーと十七絃 ~耳に残った呪いの音色を奏でるまで~

「じゃあ、しばらくは僕の個人練習を見学してもらうことになるんだけど、いい?」
「はい、大丈夫です」
 個人練習室の扉を後ろ手に閉めた絃一郎は、やっぱり二人で入るには狭かったかな、と後悔した。三畳半ほどの小部屋だが、そのほとんどはグランピアノが占拠していて、使えるスペースはそう広くない。小柄な永海はともかく、平均より頭半分は大きい絃一郎がいると途端に圧迫感が増すように思える。
 が、永海は気にする素振りもなく、部屋の真ん中に置かれた譜面台の前に立った。そこに楽譜を並べながら「君はそっち」と促され、絃一郎は身を縮めるようにしてピアノの前の椅子に座る。
「というより、すみません。個人練習の時間なのにお邪魔してしまって……」
「邪魔じゃないよ。むしろ丁度良かった。僕が歌ってるとこ、見てほしかったから」
「歌っているところ?」
「うん。客席からじゃなくて、そこから」
 そう言って、永海は絃一郎が座っているピアノ椅子を――伴奏の席を指差す。
「そこから見える僕を覚えておいてほしい。息遣い、目線、体の動き……その時、歌がどう変化するのか。少しずつで構わないから、僕がどう動いたらどう歌うのか、感覚的に理解してもらいたい」
「息遣い、目線、体の動き……」
 永海の口元、目元、肩や胸。一つ一つ見つめて、確かめるように復唱する。
「……つまり、それに合わせて伴奏を弾いていくってことですか?」
「そうみたい。僕は伴奏をやったことがないから、実際のところは分からないんだけど」
 そこで一度言葉を切ると、永海は譜面台に視線を落とした。
「今から練習するのは『Star vicino』。寺方くんに伴奏を頼んだ曲だよ。ただ聞いていると、シンプルで美しいメロディがゆったり続くだけのように感じるかもしれないけど、メリスマだとか、トリルや装飾音だとか――そういう声を転がして歌い上げる瞬間に、とっても感情があふれてる。前半は『側にいることはすごく嬉しい』、後半は『離れていることはすごく苦しい』といった歌詞になっていて、どちらも愛してやまないものへの思いを歌っているんだよ」
「へぇ……なんだか、永海先輩のことを歌ってるみたいですね」
「そう?」
「はい。だって先輩、歌が側にあると生き生きしてるじゃないですか」
 とはいえ、永海が歌から離れて苦しんでいるところは想像出来ないけれど。内心そう思いながら言えば、永海は意外にも「言われてみればそうかも」と首を縦に振る。
「僕は、寺方くんのことを考えながら歌ってるよ」
「…………えっ?」
「君が伴奏になってくれて――側にいてくれて、すごく嬉しいなぁって」
 咄嗟に言葉が出てこなかった。
 ポカンと口を開けたまま固まった絃一郎をどう思ったのか、永海は不意に気付いたように言葉を足す。
「あぁ、大丈夫だよ。歌詞の意味をちゃんと共有出来ていれば、同じものへの愛である必要はないから」
 全然大丈夫じゃない。驚いてるのはそこじゃない。
 だが、愛おしいものを見ていることがありありと伝わってくる瞳で微笑まれてしまえば、もはやうなずくしかなく。
「それじゃあ、しっかり見ててね」
「わ、分かりました……」
 絃一郎の首がぎこちなく縦に動いたのを確かめると、永海は譜面台ごとぐるりと回って、ピアノに背を向けた。

 ♪Star vicino al bell'idol che s'ama――

 とても男声とは思えない、高く澄んだ声。喉を転がすように震わせながらゆるやかに流れていく、美しくもどこか切ないメロディ。その振動に、練習室の小窓にかかったブラインドがビリビリと震えている。
 そこでハッと我に返って、思わず聞き入ってしまそうになる意識を慌てて視線の先へと戻す。
 ――見るんだ。伴奏席から見える、永海の姿を。
 歌に合わせて、小さく揺れる顎と体。ほとんど上がらない肩。息を吸う音と同時に、背中側から見ても分かるほど膨らむお腹。
 楽譜通りに歌えば二分もかからない短い曲だ。永海はそれを、歌い方を変えたり、同じフレーズを繰り返したりしながら、何度も歌った。時折、タブレット端末でお手本であろう曲を聞き込んだり、録音した自分の歌を確かめている間以外は、ほとんどずっと歌っていた。
 そうして、ひとしきり歌ったところで。
「……まぁ、こんなものかな」
 小さく首を傾けながら、永海が振り返った。
「次は寺方くんの番ね」
「はい」
 部屋の隅から別のピアノ椅子を引っ張ってくるのを見て、絃一郎は背筋を伸ばす。こうやって隣に座るのが、永海先生のピアノレッスンが始まる合図だ。
 絃一郎も伴奏譜を取り出そうと、ピアノの譜面台に置いてあったファイルを開く。
「……あれ?」
 気付いた瞬間、絃一郎はサァッと青ざめた。
「どうしたの?」
「……すみません、永海先輩。楽譜が、無いです」
「え」
「そんな、おかしいな……昨日家で見た後、確かに戻したはず……。あれ? 朝練習の時にはあったっけ……?」
「へぇ、帰った後も復習してくれてるんだ。熱心だね」
「う、嬉しそうにしないでください……」
 そう感心しきりといった声で言われると、申し訳ない気持ちがどこかへ行ってしまいそうになるから困る。
 伴奏譜は、伴奏をやると宣言したその日に永海から渡されたものだ。永海の持つ原本をコピーしたものに、演奏に必要なことを書き込み、綺麗に製本してくれた大切な楽譜。絃一郎が練習を重ねる中でもらったアドバイスを書き加えた、ここ数週間分の頑張りの結晶でもある。
 それを忘れてくるなんて、伴奏者としてあってはならない失態だった。
「本当にすみません……多分、家にあると思うので、帰ったら探します」
「うん。確か、予備にもう一部渡してあったよね? そっちはある?」
「はい、あります」
「良かった。じゃあ、今日はそっち使って」
「うぅ……本当、何から何まですみません……」
 取り出した予備の楽譜をピアノの譜面台に広げながら、しおしおとうなだれる。
 それでも、隣に座ってこちらを覗き込んでくる、キラキラと輝く瞳に変わりは無く。
「さ、やろうか。まずは一回通しで弾いてみて」
「……はい、よろしくお願いします」
 こういう時は、永海の声楽オバケっぷりに救われるんだなぁ、と思った。同時に、その思いに応えなければいけないのに、と気持ちが沈んでいくのを自覚する。
「……」
 いつも通り音叉を鳴らして心を落ち着ける。
 そうして絃一郎は、真っ新な伴奏譜を見つめながら、鍵盤の上に冷え切った指を置いた。

 結局、家に帰っても音楽棟を探し回っても、使い込んだ楽譜は見つからなくて――つまり事の始まりは、その伴奏譜だったのだ。
 以降、絃一郎の身の回りで失くし物が増えていった。ボールペン、ピアノを拭くクロス、電車に揺られながら読んでいた文庫本。幸い、貴重品が無くなることはなかったが――。

 朝。自転車を使っていつもより早く登校した絃一郎は、音楽棟のガラス扉を開けてホッと息をつく。
 誰もいない、エントランスから続く広い廊下。以前見た時と変わらない、大きく『注意!』と書かれたホワイトボードの貼り紙。職員室に明かりが灯っている他に、人の気配はしない。無事、誰よりも早く来られたようだ。
 今にも口から出てきそうな心臓を押さえつけながら、それでも早歩きで音楽棟の奥へと向かう。一階、音楽室。個人練習室が並んだ廊下。その扉にある縦長のガラス窓から見える、グランドピアノ。
 そうして一つ一つ、自分が練習で訪れたことのある場所を見て回っていた時。
「……寺方くん?」
 背後から聞こえた、かすれ気味の小さな低い声。
 ビクッと肩を跳ねさせた絃一郎が振り返ると、廊下の先に譜面台と楽譜を抱えた永海がいた。その手元で個人練習室のキータグが揺れているのを見るに、たった今来たばかりなのだろう。
「な、永海先輩……」
「こんなに早く来てるなんて珍しいね」
 その驚きは絃一郎も同じだった。まさか永海が、こんなに早く来ていたなんて。
「……というか、顔色が悪いね? どうしたの?」
「あ、えっと……」
 そう言うやいなや、永海はこちらをじっと見つめたまま駆け寄ってくる。
「そ、その、実は……――」
 絞り出した声は、そこで止まってしまった。
 次から次へとあふれてくる感情に胸がいっぱいになって、口へ出そうにも喉に詰まってしまって一つも出てこない。そのくせ涙だけは代わりとばかりににじみ出てきて、ジャージの襟元をぐしゃぐしゃに握り込み、耐えるようにぐっと奥歯を噛みしめる。
 あぁ、きっと、これ以上は話せない。
 諦めた絃一郎は、ポケットに手を突っ込んで、そこに入っていたもの取り出して見せた。
「これは……」
 片手に収まるほどの、小さな黒い巾着袋。そこに膨らみが無いことに気が付いたのか、永海は一瞬だけ顔をしかめたが、すぐに真剣な面持ちになってたずねる。
「今度は音叉が無くなったんだね?」
「……はい」
 たった一言の短い返事でさえ、声が震えた。
「昨日、練習の前に鳴らした時までは……それで、家に帰ったら、ちゃんと入れてたはずなのに、見当たらなくて……」
「うん」
「自分の部屋とか、部室とか、ありそうなところは全部探したんですど、どこにも無くて……」
「うん」
「それで、その……もしかしたら、音楽棟で失くしたかもしれなくて……!」
「そう。だから早く来て探してたんだね」
 ただ静かにうなずく永海に、絃一郎はほとんど倒れるかのようにぐったりと頭を下げる。
「本当にすみません……。お守りだって言っていただいたのに……昨日からずっと、失くし物には気をつけてって言われたのに……」
「……ねぇ、寺方くんも薄々気付いているでしょう。君は『失くし物をした』としか言わないけど、こんな巾着だけ残るなんて不自然だし、ここまで立て続けに起こるのはおかしい。これは盗難だと考えるべきだ」
「……はい。すみません」
「ううん、謝らないで。寺方くんが悪い訳じゃない。確かに自衛が呼びかけられてはいるけど、それは被害を減らしたいからで、被害にあった人を咎めるためじゃない」
 うなだれた絃一郎の肩を無理矢理起こしながら、永海が言う。その言葉は力強くもあり、優しくもあって、絃一郎の目尻に溜まった水滴が大きくなる。
 永海の言う通りだった。ここ最近の失くし物が音楽棟で起きている盗難なのではないか、と考えることはあった。
 それでも、自分の不注意で失くしてしまったと考え続けた。……恐らく、信じたくなかったからだ。盗難されてしまったと考えた途端、不安と恐怖で押し潰されてしまいそうだったから。自責の念に駆られる方が、まだ耐えられたから。
「小清水から聞いた話では、盗難された物はまだ一つも見つかっていないらしいんだけど……」
「そうなんですか……」
 悩ましげに言った永海は、腕を組み、うつむきがちに視線をそらした。そこに表情は無かったが、伏せられた瞳はやけに冷たい。絃一郎には床を睨んでいるように思えて、つい同じようにうつむいてしまう。
 それから、一呼吸ほどのわずかな間があって。
「……まぁ、それなら、僕たちで見つければいいだけだね」
 永海は、どこか硬い声で言った。
 聞いたことのない声だった。
 いつもの細くてかすれた、繊細な響きはどこにも無い。喉に詰まった言葉を無理矢理出したような。あるいは、覚悟を決めたような。
 絃一郎は息をのみ、咄嗟に顔を上げようとして――それよりも早く頭の上に乗った何かに阻まれた。細くて骨ばっていて、人肌にしては少し冷たい。永海の手のひらだ。
「大丈夫だよ。音叉も楽譜も取り返せばいい。だから、そんな顔しないで」
「どんな顔ですか」
「ひどい顔。いつもの元気がなくて、目に(くま)がある」
「……頑張って早起きして来たので、きっとそのせいですね」
「そっか。今日は練習お休みにする?」
「そ、そういう訳にはいきません。永海先輩のおかげでここまで上達したのに、なまったら嫌ですし……」
「そう? 寺方くんが嫌なら、無理強いはしないけど」
 その優しい言葉を染み渡らせるかのように、絃一郎の頭をゆっくりと撫でる手のひら。それはちっとも温かくないのに、不思議と絃一郎の心はじんわりと温まっていく心地がした。
 だが、いつまで経っても撫で続ける手は止まらなくて。
「あ、あの、永海先輩……? そろそろ手を……」
「ちょっと待って。ここの毛だけ変な方に跳ねてるのが気になって……君、こんなに癖毛だった?」
「…………それは直しきれなかった寝癖なので、放っておいてもらえますか」
 サラつや髪の永海には、きっと癖毛の悩みは分からないだろうなぁ。なんて考えたところで、絃一郎はいつの間にか自分の口角が上がっていることに気が付いた。