カウンターテナーと十七絃 ~耳に残った呪いの音色を奏でるまで~

 初めて十七絃箏(じゅうしちげんそう)()いたのは、八歳の夏。
 祖母の家で出会った、「幽霊」から教わった。

 祖母の家は、市街地から離れた山際の集落にある。車で行けば一時間もかからない場所だったけれど、幼い自分にとっては別世界だったことをよく覚えている。門と塀を構えた立派な日本家屋も、豊かな自然に囲まれた暮らしも、普段住んでいる市街地には無いものばかりだったのだ。
 その年の夏休み。小学三年生だった自分は、ひとり親になった母が家を空ける間、祖母の家で過ごすことになった。
 セミの声ばかりが響く、土の匂いを乗せた蒸し暑い風が吹き込む家で、祖母と二人きり。退屈なことも多かったが、時折「お手伝いのご褒美に」と振る舞われる冷えたスイカを楽しみに日々を過ごしていた。
 あの日は、確か、近くの神社で夏祭りが行われた次の日だった。
 眠い目をこすりながら縁側を歩いていると、セミの声に混ざって、どこからか聞き慣れない音が聞こえてくる。
 立ち止まって、耳を澄ませてみれば。

 ――シャン、シャン、テン。

 小鳥のさえずりのようにも、水面を跳ねる(しずく)の音のようにも思える、不思議な低い音色だった。
 一体何の音だろう。そう思って音の聞こえる方へ進んでいくと、母屋の北、中庭を通った先にある離れへ辿り着く。そこにはピッタリと(ふすま)の閉じられた部屋があって、音はその向こうから聞こえてくるようだった。
 息を潜めて、こぶし一つ分だけ、そおっと襖を開ける。

 ――シャン、シャン、テン。

 すぐそばで聞こえた音に、鼓膜と心臓が揺さぶられた。
 部屋の中には、藤色の着物姿の女性がいた。こちらに背を向けて、座布団も敷かずに畳の上で正座している。
 ふと、今この家には祖母と自分の二人しかいないはずなのに、と思った。けれど、そんな些細な疑問は、胸いっぱいの好奇心によってすぐ上書きされてしまう。
 彼女の前には、大きな箱が置かれていた。
 床に立てたら天井を突き破ってしまいそうなほど長い、長方形の大きな箱。表面は美しい木目模様で、木で出来た箱なのだと一目で分かる。それが横向きに置かれ、箱の右端に膝をくっつけるようにして女性が正座している。
 箱の上面に並んでいるのは、両端にくくりつけられた何本もの糸だ。糸と上面との間には三角形の支えらしきものが入れられていて、どれもピンと張られている。
 その糸を、白い爪を付けた彼女の右手が(はじ)く度、あの不思議な音が聞こえてくるのだった。

 ――シャン、シャン、テン。

 なんて綺麗な音だろう!
 気付けば、その場に立ち尽くしていた。あんなにうるさかったセミの声も聞こえなくなっていた。ひたすら美しい音色だけに耳を傾け、それを生み出す彼女の指先から目が離せなくなる。
 軽やかに糸を弾く右手。
 時折糸を押す左手。
 それに合わせて揺れる、藤色の(そで)と長く(つや)やかな黒髪。
 やがて手が止まり、音が止んだ。
 すると、彼女はゆったりとした所作で振り返って――バチリと目が合った。
「……!」
 少し目を丸くした後、へにゃりと下がる眉尻。その優しげな表情に、逃げようと後退りしていた足が止まる。
 彼女は、何も言わずに小さく手招きをした。
「……入ってもいいの?」
 うなずく彼女に誘われ、おずおずと襖を開けて部屋の中へと入る。
 部屋は静まり返っていて、足裏が畳に(こす)れる音がよく聞こえた。彼女が手を離してからというもの、綺麗な音色が出る不思議な木箱はすっかり鳴らなくなってしまっている。
「それ、なぁに?」
「……」
 静かになった箱を指差してたずねても、彼女は何も言わなかった。ただ、柔らかく目を細めて、こちらの右手を取る。
 何となく「あなたもやってみる?」と聞かれているような気がした。
「……どうやるの?」
 そうして、彼女は綺麗な音色を出す木箱――(そう)の弾き方を一から教えてくれた。
 始めは大して響きもしない音が鳴るばかりで、綺麗な音はなかなか鳴らなかったけれど。それでも、「げんちゃん、もうお昼よ」と自分を探す祖母の声が聞こえてくるまで、夢中で箏と格闘していた。

 昼食の素麵(そうめん)をすすっていると、母屋の隣にある駐車場から大きなエンジン音が聞こえてきた。それが止まると、今度はスライドドアが勢い良く閉まる音。
 塚路(つかじ)さんが来たんだ、とすぐに気が付いた。祖母の「お弟子さん」だという彼が訪ねてくる度にこの音が聞こえてくるものだから、すっかり分かるようになってしまった。
 玄関先で祖母と挨拶を交わす声がして、砂利を踏む音が遠ざかっていく。どうやら離れに向かったらしい。後を追いかけようと、残っていた素麵を急いで腹に流し込んで席を立つ。
 離れでは、沢山の包みが運び込まれているところだった。
 一畳と同じくらいの長さで、幅は半分も無いほど細い、大きな長方形の布包み。それが、八畳の居間を埋めるようにいくつも並べられている。
 駐車場と離れを往復しながら包みを運んでいた塚路は、やってきた自分に気が付くとニカッと白い歯を見せた。
「よう、げんちゃん! いいところに来たな」
「塚路さん、それなに?」
「こりゃあな、ばあさまの商売道具よ」
 どっこいしょ、と抱えていた包みを畳の上に置いた塚路が、その布を開いて見せる。
 中から現われたのは、見覚えのある木箱だった。
 美しい木目模様。
 両端にくくりつけられた何本もの糸。
 これは箏だ。けれど、さっき弾いたものより小さいような。
「ばあさまは、邦楽(ほうがく)教室の先生をやっててな。あー、そ、そもそも邦楽教室ってのは、楽器のお稽古(けいこ)をするとこで……。昨日の夏祭りのステージで、その楽器の演奏を披露したんだよ」
「……うーんと、じゃあ、これはおばあちゃんの楽器ってこと?」
「そういうことだ!」
 話の半分も分からないままたずねると、うなずいた塚路にガシガシと頭を撫で回わされる。
 とにかく、この小さな箏は祖母のもの、ということらしい。
 次々と包みを運び込んでは開けていく塚路を見て、自分も見様見真似で手伝った。そうして運んだ包みを全て開け終え、並べた筝の上に布を被せたところで、塚路が言う。
「実はなぁ、邦楽教室の入ってるビルがお盆休みで閉まってて、楽器が片付けらんねぇのよ。困った困った。っつーことで、ひとまずばあさまん()に置いておくことになったワケだ」
「そうなんだ」
「良かったらさ、げんちゃん、弾いてみねぇか?」
「え」
 口角を片側だけ上げた、悪戯っぽい笑み。悪いことを企んでいそうな塚路の顔を見て、ドッと冷や汗がふき出る。
 ……もしかして、さっき弾いてた筝も、おばあちゃんの? 弾いていいって、お許しをもらわないといけなかった?
「こんな機会そうそう無いぜ~? ばあさまに頼めば教えてくれるだろうし、オレが手取り足取り教えたって……って、どうした? げんちゃん、何か言いたそうだな」
「ええと、実は、そ、その……さっき弾いちゃって……」
「…………マジで?」
 思わず胸の前でギュッと手を握り、視線を落としていれば、頭上から呆気に取られたような声が聞こえてくる。
「確かに、デケェのは昨日のうちに持って来てたが……」
「ごっ、ごめんなさい! おばあちゃんのって知らなくて!」
「謝ることじゃねぇよ、気にすんな。オレの方こそごめんな。びっくりしちまった、見かけによらずわんぱく小僧で」
「わ、わんぱく……」
 ぽん、と頭の上に温かなものが乗った。大きくて少し硬い、塚路の手だ。その優しい感触に顔を上げる。
「だが、弾き方は知らないよな? ばあさまに教わったのか?」
「ううん、着物の女の人に教えてもらった」
「着物ぉ~? 誰だそりゃ。先生がお見えになるって予定は無かったはずだが……その人、名前は何て?」
「分かんない。お話しはしなかったから……」
「……ふうん?」
 すると、塚路は(あご)を撫でながら、どこか遠くを見つめた。そうしてしばらく考え込んだ後、「あっ」と声を上げる。
「げんちゃん……そいつは幽霊だ!」
「えっ? ゆ、幽霊?」
「考えてもみろ。この家にいるのは、ばあさまとげんちゃん、二人だけだ。ウチの先生たちがお見えになる予定もねぇ。っつーことは……幽霊しかねぇだろ!」
「でも、ちゃんといたよ。あっちの奥の部屋に」
 不貞腐(ふてくさ)れたように言って、畳の上を走った。さっきまで筝を弾いていた部屋は、この居間の奥にある座敷(ざしき)だ。
 ピッタリと閉じられた襖を開けば、そこには、あの大きな筝と――。
「……」
「じょ、冗談のつもりだったんだが…………やっぱ、誰もいねぇよな、うん」
 背後から聞こえた声に、信じられない思いで振り返った。後を追ってきていた塚路は、眉をひそめ、何度もうなずきながら部屋を見回している。
 ――彼女がいた。
 筝の前に座って、着物の袖を揺らしながら、ゆったりと振り返って。突然開いた襖に目を丸くしながらも、優しく頬をゆるめて。
 激しく鳴り出した心臓の音に、たまらず着ていたTシャツの胸元をぐしゃぐしゃに握り込んだ。
 どうして。目の前にいるのに。こっちを見ているのに。けれど、塚路が嘘をついているようにも思えなくて。
「……う、うん。誰も、いないね……」
 無理矢理口角を上げて、うなずくのが精いっぱいだった。
 そんな自分をどう思ったのか、塚路は座敷の襖を閉めると「じゃ、用は済んだから」と足早に母屋へと戻っていってしまった。遠ざかっていく背中を、視線だけで見送る。
 そうして一人残された自分は、もう一度襖を開こうと引手(ひきて)に手をかけた。けれど、心の中で「どうかいなくなっていませんように」と繰り返すばかりで、腕は少しも動かせなかった。
 その時。

 ――シャン、シャン、テン。

「……!」
 聞こえてきた不思議な低い音色に、思わず襖を開いた。
 障子窓から差し込む、昼下がりの熱気。柔らかなイグサの匂い。座敷に置かれた大きな筝の前で正座をする、藤色の着物姿の女性。
 彼女は何も変わらず、そこで箏を弾いていた。
「あ、あの……」
 内心胸を撫で下ろしながら、そう小さく声をかける。すると、箏の音が止まり、両手を膝の上に乗せた彼女がゆっくりと振り返る。
 そこで、はたと気が付いた。
 彼女に隠れて見えないはずの畳の(へり)が、障子窓の格子模様が、どういう訳か見えている。
 彼女の藤色の袖が、長い黒髪が、うっすらと透けて見える。
 ――彼女は、本当に幽霊なんだ!
「えぇと……さっきは、ごめんなさい。誰もいないって、嘘ついて」
「……」
 彼女は首を横に振った。口元には困ったような笑みが浮かんでいるだけで、やはり言葉を発することは無い。
 不思議と怖くはなかった。――多分、すっかりあの音色に取り憑かれてしまっていたから。
「その……また、教えてくれませんか。お、おれも……あなたみたいに弾けるようになりたくて……」
「……!」
 小さく頭を下げると、彼女はパァと目を輝かせて、「おいで」と言うかのようにこちらへ右手を伸ばした。

 それから、彼女に筝を教えてもらうのが日課になった。
 最初の頃は、とても演奏とは言えない有り様だっただろう。当然だ。八歳の子供の小さな手には、箏爪(ことづめ)を上手く扱えるだけの器用さは無かったし、(げん)を引っかいたり(はじ)いたり出来るだけの力だって無かった。
 それでも。
 自分の指先から鳴る、踊る水飛沫のような不思議な音色。
 それらが重なり合って生まれる、清流のように澄んだ美しい旋律。
 指先に残る弦の震えが、鼓膜を揺らす振動が、体の芯まで響いてきて背筋がゾワリとする。
 あぁ、なんて楽しいんだろう!
 まだまだ上手く鳴らない音ばかりでも。音色の綺麗さは彼女に遠く及ばなくても。ただひたすら、この音が自分の手で奏でられるのがたまらなくて、もっと彼女みたいに上手になりたくて、来る日も来る日も教えられるまま夢中で箏を弾いて――。

 ――思えばそれが、心の底から楽しんで筝を弾けた、最初で最後の夏だった。

 筝なんか弾けたって、何にもならない。良いことなんか一つも無くて、怖くて恐ろしくて、みじめで嫌なことばかりだ。
 それでも自分は、あの夏からずっと、筝を愛することが止められない。
 彼女の奏でる美しい筝の音が――どうしようもないほど焦がれてしまう「呪いの音色」が、耳に残って離れないから。